プロローグ『チケット』
特別編
5月2日、水曜日。
今日もよく晴れていて暖かい。
特に何かを気にすることなく、爽やかで平和な時間をまた過ごせるようになんて。刑務所で過ごしていたときには想像もできなかった。
「玲人君。今日もちゃんとお仕事ができて偉いね」
「会長や副会長さんの教えがあってのことですよ」
「うんうん、そんな風に謙遜するところも大好きだよ。でも、謙遜しすぎないようにね」
沙奈会長が僕の頬に何度もキスをしてくる。まさか、こんなにも愛情深い1個上の女性のことが好きになって、付き合うようになることも想像できなかったな。
「沙奈ちゃんにくっつかれていても、逢坂君が普段と変わらないで安心するよ。まあ、今日の仕事もさっと終わったからいいけれどさ」
「ここは生徒会室ですからね。ちゃんと場所は考えますよ」
沙奈会長か僕の部屋で2人きりだったら……色々なことをするんだろうけど。
「そうですよ。今日の仕事が終わったから、こうして玲人君のことを感じているんじゃないですか。樹里先輩」
「……まあ、いつも以上に頑張っていたのは確かね、沙奈ちゃん」
確かに、僕と付き合い始めてからの沙奈会長は、これまで以上にやる気に満ちあふれている気がする。それも、僕とこうしてベッタリとくっつきたいからなんだろうな。頑張りすぎて体調を崩してしまわないかどうか心配だ。
「そういえば、玲人君や樹里先輩は明日からの4連休は何か予定はあります?」
「僕はないですね。気が向けばどこかに行くかもしれませんけど」
「私も特にないかな。連休こそ集中して受験勉強をすべきなんだろうけど、ゆっくり羽を伸ばそうかなって思ってる」
そうか、副会長さんは3年生だから受験生でもあるんだよな。
「樹里先輩、成績もいいんですから推薦取れるんじゃないですか?」
「2学期が始まった直後に、最新の指定校推薦の学校一覧が公開されるから……それまでは一般受験も見据えて勉強をしっかりやるつもりだよ」
「なるほどです。とりあえず、2人は特に外せないような用事はないんですね」
沙奈会長、何を考えているのだろうか。
今年のゴールデンウィークは曜日の関係で、前半の3連休、明日からの後半4連休の2つに分割される。
月野学園高校は暦通りの日程だけど、父さんの会社では昨日や今日に有給休暇を取得して9連休という人もいるらしい。ただ、父さんや部下の氷室さんは暦通りに出勤しているけど。
「沙奈会長。僕や副会長さんと一緒にどこか行きたいところがあるんですか?」
「よくぞ訊いてくれました」
「……予定があるかどうか訊かれたんですから、普通にそう訊き返すでしょう」
「ふふっ。ちょっと待ってね」
すると、沙奈会長はバッグを開けているけど……いったい、どんな答えが返ってくるのだろうか。
そんなことを考えていると、会長は僕と副会長さんに何やらチケットのようなものを見せて、
「みんなで2泊3日の旅行に行きませんか!」
とびっきりの笑顔でそんなことを言ってきたのだ。
「旅行ですか……」
「みんなで行こうよ!」
副会長さんはさっそく乗り気。受験勉強の気分転換にはいいよね。
旅行ということはこのチケットは旅行券ってことか。よく見てみると富士山や湖をバックにホテルの外観らしき写真が印刷されている。立派そうなホテルだなぁ。富士河乃湖ホテルっていうところか。
「高そうなホテルですけど、このチケットがあれば安価で行けるんですか?」
「このチケットは6人までOKの招待チケットなの。お父さんが会社の方からいただいて。ゴールデンウィークまでが有効期限で、その方は別の用事があっていけないからどうぞって」
「なるほど……」
ペアの招待チケットはよく聞くけれど、6人まで招待してくれるとは太っ腹だ。家族向けに作られたのかな。
とりあえず、スマートフォンで富士河乃湖ホテルのことについて調べてみる。
「へえ、山梨県の河乃湖の周辺にあるホテルなんですね。公式サイトを見てみると、なかなか高級なホテルじゃないですか」
「うん。私も昨日調べたんだけど、著名人もお忍びで来ることがあるんだって」
「なるほど。……行くことができれば嬉しいですけど、そんなに人気のホテルに今から予約できるんですか? しかも、2泊3日なら明日か明後日からの宿泊になりますよ。それに、6人分ですけど」
「逢坂君の言う通りね。あと、6人ってことは……残りの3人はどうするの? 3人でもそのチケットが使えるなら別だけど」
「1人は真奈が行くことが決まっています」
「真奈ちゃんね。そういえば、春休み以来会っていないなぁ。あれから1ヶ月経ったから、また大きくなっているかも……」
真奈ちゃんは中学2年生。きっと成長期の真っ只中だろうし、1ヶ月でかなり成長する子もいる。沙奈会長ほどではないけど、真奈ちゃんも大人っぽく見える。
「真奈ちゃんが行くということは残り2人ですか。沙奈会長や副会長さんは連れて行きたい人はいるんですか?」
「1人は決まっているわ。……琴葉ちゃんだよ」
「琴葉ですか? 退院したときには元気になっていましたし、琴葉は温泉が好きなので喜んで行くとは思いますが……」
「それなら良かった。玲人君と琴葉ちゃんは、例の事件があったから中学の修学旅行に行けなかったでしょう? 京都じゃなくて山梨だけど、修学旅行の代わりになればいいかなって」
「……そうですか。ありがとうございます」
沙奈会長に頭を下げる。
そういえば、この前……旅行の話になったとき、修学旅行のことも話したな。だから、あのチケットを譲り受けたときに、みんなで旅行に行くことを思いついたのだろう。
「1人は琴葉にするとして、残りの1人はどうします? 修学旅行というと先生同伴ってイメージですけど」
「それは分かるけれど、プライベートで行く旅行に先生が一緒じゃなくていいと思うよ、逢坂君。まあ、中高生だけじゃなくて、1人でも大人が同伴してくれると安心できるけどね」
「それもそうですね。……じゃあ、大人とは言い難いかもしれませんが、僕の姉さんはどうでしょう? 会長の妹の真奈ちゃんも来るということですし。確か、姉さんもゴールデンウィーク中にどこかに行くとは聞いていないですから」
仮にあったとしても、姉さんの性格上、どうしても外せない理由がない限り、僕達と一緒に旅行へ行くことを優先しそう。
「とりあえず、僕は琴葉と姉さんに行くかどうかを訊いてみますから、沙奈会長はホテルに連絡をして予約を取れるかどうか訊いてください」
「それがいいかな。私もこのホテルのホームページを見ているけれど、木曜日から土曜日まで客室の空き状況は『△』……残りは少ないけれどまだ空きはあるみたい。早く連絡した方がいいよ、沙奈ちゃん」
「分かりました、樹里先輩」
「僕はその間に琴葉と姉さんに訊いてみますね」
僕はさっそくSNSのグループトークを用いて琴葉と姉さんに、
『明日からの4連休の間に、沙奈会長の提案で、山梨の方へ2泊3日の旅行に行く話が出たけれど、2人は大丈夫?』
というメッセージを送ってみる。こういうとき、グループトークって便利だなぁと思う。
すると、すぐに僕のメッセージの横に『既読2』と表示され、
『あたしは大丈夫だよ! むしろ、レイ君達と一緒に旅行に行きたい!』
『あたしも大丈夫。玲人と琴葉ちゃんも元気になったら、旅行とか行きたいって思っていたんだよね』
琴葉と姉さんからそれぞれ返信が届いた。2人とも大丈夫か。
『分かった。今、会長がホテルに連絡して部屋の空きがあるかどうか確認してる。予約できなかったら、旅行の話は無しになるかも。そうなったらごめんね』
行けなくなるかもしれないってことを伝えておけば、とりあえずは大丈夫か。
「琴葉と姉さんも行くそうです」
「そっか。これで6人揃ったね。あとはホテルの予約を取ることができるかどうか。沙奈ちゃんの様子からして何とかなりそうに見えるけれど……」
副会長さんがそう言うので会長の方を見てみると、彼女は会長専用のデスクに座り、メモを取りながら電話をしている。真剣な表情で話している様子は、いつも以上に仕事のできる人だと思わせる。
「ありがとうございます。失礼します」
スマートフォンを机の上に置くと、沙奈会長は満面の笑みで僕達にピースサインを送る。
「予約できたんだね! 沙奈ちゃん!」
「ええ。さすがに明日は急だと思ったので、明後日から2泊3日で6人泊まることができるかどうか訊いてみたら、ツインルームと和室の2室予約を取れました。もちろん、このチケットで宿泊代無料です」
「そうなんだ、良かった。ツインと和室ってことは、2人と4人で別れることになるのかな」
「はい。……一緒に寝ようね、玲人君」
「そうですね」
やっぱりそうなるか。
沙奈会長、何を想像しているのか今から興奮しているぞ。旅先の客室で2人きりになれるのだからそうなるのは当然か。きっと、そのときになったら……色々とするんだろうな。
「何かあったら、私達の部屋に来ればいいよ。……逢坂君」
「普通、それって私に言う言葉じゃないですか?」
「いや、これまでの2人の様子を見てきていれば、普通は逢坂君に言うって」
「……きっと、嫌になって副会長さん達の部屋に行くことはないと思いますから大丈夫ですよ」
「玲人君……」
「でも、旅行中に別々の方がいいと思ったら、すぐに姉さんと2人で寝ますから」
「みんなが楽しいと思える旅行になるように心がけます」
敬礼をしながらそう言うなんて何とも可愛らしい。ああいう風に言ったけれど、会長と別々の部屋になることはきっとないだろう。
そうだ、部屋の予約を取ることができたことを琴葉と姉さんにも伝えないと。
『部屋の予約が取れた。だから、明後日から2泊3日で旅行に行くよ』
というメッセージを送ると、先ほどと同じようにすぐに『既読2』と表示され、
『やったね! レイ君との旅行、楽しみだなぁ』
『急だったけど取れたんだね。じゃあ、明日は旅行の準備をしないと』
2人も旅行に行けることになって嬉しそうだ。
こうして予定のなかったゴールデンウィーク後半に、2泊3日の旅行という一大イベントが舞い込んできたのであった。