私と彼女の共感覚
「うう……」
ぽつんぽつん。
こつんこつん。
まるで打ち鳴らすように、音が連続して響き、部屋の中を乱雑にかき乱していく。
……雨は嫌いだ。
昔から、私は雨が苦手だった。
雨音とそのリズムが、私という存在をゆっくりと滲ませて、腐らせていってしまうような気がするから。
特にこんなふうに、音がやたらと響く強い雨は、嫌いだ。
「ん……」
そんな日の私は決まって布団に潜り込んでいる。暗闇の中で瞳を閉じて、枕の香りに集中する。
布団の厚みで音を遮断し、視界を塞いで色を無視して、匂いに没頭することで音色を意識から外す。
そうやってお布団のカプセルに避難して、自分を腐敗から守るのだ。
そうしなければ、私は生きていけないから。
「……にゃふぅ」
心地よさに誘われるように、自然と吐息が漏れる。
……ああ、あったかいなぁ……。
慣れたぬくもりに身を委ねて、そのまま溺れてしまおうとしていたところで、外から身体が揺すられる感覚がした。
これは明らかに私の睡眠を妨害しようとしている。妨害にはやたらと大きな声がオマケとして付いてきて、
「なにしてんですかぁ? 譜楽希鎖楽ちゃん?」
「なんでフルネームなんですかぁ、鈴音心音ちゃん」
「なんとなぁくですよぅ。ところでキサラちゃん、それボクの布団なんですけどぉ?」
呆れたように言葉が降ってくるけれど、もちろんそんなことは言われずとも分かっている。だからこそ、堪能してるのだから。
私自身の匂いなんて嗅いでも面白くとも気持ちよくもない。ココネのだから良いのだ。
それにしても、相変わらずほわほわとした甘ったるい声だ。こんなふうに間延びした『オレンジの声』を聞いてたら、超眠く……。
「……ぐぅ」
「あぁんキサラちゃぁん、寝ないでくださいよぅ!?」
「はっ……この人間子守唄オルゴールが!!」
「意味が分かんねぇですぅ!?」
顔は見えないけれど、、今相手はひどく困惑した表情をしてるはず。
長い付き合いだから、それくらいは見なくたって想像がつく。それこそ、分かりたくないものまで分かってしまうような仲だ。
そしてその間延びした声が、やたらと音量は大きいくせして私に安心を与えてくることも、知っている。
「そう、何故寝るのかって……そこにココネがいるからさ……」
「キメ顔で意味不明なこと言わないでくださいよぉ!」
「現在進行形で超布団に入ってる私がキメ顔をしている証拠が、どこにあるんだい……」
「長い付き合いなんだから、そんくらい分かりますぅ!」
ちっ。アドバンテージは同じだったようだ。
言葉と揺さ振りが激しくなってきたので、眠気が追い出されてきてしまった。仕方なく、布団から這い出る。
人口の光に照らされた部屋の中が視界に現れ、私は顔をしかめた。
「ああ――」
――セカイはこんなにも『灰色』だ。
今時の女の子に人気の有名なキャラもの目覚まし時計や、無意味にフリルで飾られた衣装ケース、鏡台に散らばるように置かれたお化粧道具に、対照的に整頓された勉強机。
視界に映されたなにもかもがシロクロで、モノクロだ。
なんて気持ちが悪い光景だろう。
雨音に、完全に食われてしまっている。
灰色に荒らされたセカイを目のあたりにして、私はくらりとした。
「おはようございますぅ、キサラちゃん」
そんな灰色のセカイでも、ココネだけは鮮やかに色付いて見える。
桜色のふっくらした唇と眠たそうに緩く垂れた碧眼を、綿菓子みたいにふわふわで、とろりと溶けてしまいそうな笑顔で歪ませている。
肩の後ろまで伸ばされたふわふわとしたウェーブの金髪が、首を傾げる動作に合わせて踊るように揺れた。
血色の良い肌、柔らかな雰囲気、しっかり膨らんでふかふかしていそうな胸、フリルの多い可愛らしいドレスじみた服。
頭のてっぺんからつま先まで、見事な美少女だ。まるで良く出来た西洋人形みたいに、完璧な美貌。
なまっちろくて、目つきが悪くて、ペチャパイな上にパジャマの私とは全然違う――ふっくらした、とってもカワイイ女の子が目の前にいる。
女子力の差は歴然どころじゃない。私が逆立ちしたって、彼女の美貌には敵わないだろう。
それを羨む気すら起こらず、私は彼女に声をかけた。
「おはよう、ココネ……なにか用事?」
「いやいや、それはボクの台詞ですよぉ……なんでボクの布団にいるんですかぁ?」
「知ってるとは思うけど……私は雨が超嫌いなの。だからココネの布団で見ざる、聞かざる、嗅がざる」
「最後のだけ、なーんか新しいですねぇ……えへへぇ」
半熟の卵みたいな笑顔を更に緩めて、ココネが笑う。
砂糖がたっぷり入っていそうな、甘い笑顔。暖かなオレンジ色の、囀るような笑い声――
「――うぷっ」
「キサラちゃぁん?」
「ごめん、酔った……」
「……またですかぁ」
オレンジに少し青が混ざったのは、呆れと心配が入った結果。
彼女の『声色』が灰色を塗り潰して、ひどく安心したのは本当のこと。けれど急激なセカイの変化にアタマが耐えられなくて、酔った。
……相も変わらず、難儀な身体ね。
足がもつれて、だけど、ココネに抱き留められることでなんとか倒れずに済んだ。
体制を崩したせいで視界に入る黒髪を鬱陶しいと思いながら、私は首を振った。
「大丈夫ですかぁ?」
「うん……ありがとう、ココネ」
絞り出すように感謝の言葉を口にして、私はひとつの単語を思う。
……「共感覚」。
ある一つの刺激に対して、違う感覚を得ることだ。
例えば、赤い色を見ると辛さを感じたり。
例えば、甘いものを食べると丸い形を感じたり。
例えば――雨の音を聞くと灰色を感じたり。
「……灰色、過ぎる」
ただでさえ珍しい体質だけど、私の共感覚はその中でも特別なものだった。鋭敏過ぎるが故に、私の魂を塗り潰すほどに。
雨の音も、雷の音も、人の声音さえも――私の心を、目の前の風景を食い潰してしまう。
音に色を感じるタイプの共感覚は『色聴』と言って、絶対音感者に多いらしいけれど、私にそんな能力はない。
ただ、色が聴こえて。
ただ、気持ちが悪い。
ただ、それだけの事。
「ココネ……話、続けて……声、聞かせて……?」
縋って、懇願する。
今の私に頼れるのは、彼女だけ。
自分の声でさえ濁った青色で――溺れてしまいそうで。
ココネのゆるふわな髪と匂いを掻き集めて、抱き締めて、私は彼女の名前を呼ぶ。
「ねぇ、ココネ……お願い……」
「うーん……もっと『甘い』のをくれたら、考えまぁす♪」
「ふゆっ!?」
「今のキサラちゃんは、とぉっても甘いからぁ……もーすこし、ね……?」
「う、うぅ……」
まいった。
弱みを見せたら、これだ。
今の声は、澄んだオレンジ色――本気の本気で言ってるってことだ。
彼女の共感覚に、エサを与えろと。
ココネの共感覚は、『音から味を感じる』。
ココネにとって、すべての音は食べ物なのだ。
あらゆる音は、彼女の味覚を満たすことになる。
つまり、彼女にとって聞くということは――音を食い散らかすことだ。
「……ココネ」
「えぇ~。今の声、にがぁい~。ナメてんですかぁ、キサラちゃぁん?」
紺碧の瞳を細めて、ワントーン低くなった声を飛ばされる。
感じる赤色を参考にするまでもない、不機嫌の証拠。
「こ、声色を超真っ赤にして怒らなくても良いじゃん! 普段ならこの声も喜んで食べるくせに!」
ココネは私と違って、音を好き嫌いしない。どんな音でも美味しく食べる。
対して私は音酔いはひどいし、一部の音しか受け入れられない。
音の暴食と、音の虚弱。それが彼女と私だ。
「キサラちゃんの普段の声は苦みがきいて美味しいし、雨の音もサイダーみたいにあましゅわで好きですけどぉ……今は、キサラちゃんのあまぁい声が聞きたいなぁ……?」
「雨ってサイダーの味なんだ……もう少し水っぽいのを想像してたけど」
「き~さ~ら~ちゃぁ~ん~?」
話を逸らして引き延ばす作戦は、通用しなかった。
声から感じる色が、レッドゾーンを振り切って黒が混ざりだしているのを感じる。
私が一番嫌いな、黒い音色が。
「ひっ……」
「あ……ごめんなさぁい、キサラちゃん」
「こ、この、食欲魔神……ばかぁ……ぐすっ……」
「あ、その罵倒、甘苦くっておいしい……」
「……超最悪だ」
こっちが本気で怖い思いしたのに、その声で恍惚としてやがる。最悪過ぎる。
だけど、それでこそココネで――だからこそのバランスがあって、私たちはこうして一緒にいる。
彼女の暴食は危険でもある。
故に、私という存在がいて。
そんな私はひどく不安定で。
だから、彼女の存在がある。
彼女は悲鳴や殺意さえ、食い付くしてしまう。
それは気が向けば――『食べたい』と思ったら、人を傷つけるかもしれないということ。ココネは欲望にさえ忠実だから、尚更に危険だ。
対して私は、悲鳴も殺意も大の苦手。
負の感情が籠もった声は、いつだって真っ暗な井戸の底みたいな色をしているから。
だから私がココネのストッパーになって、その見返りとして、彼女の純粋な――欲望さえも透き通った音色を、見せてもらう。
私たちの、歪な関係。
共依存で――狂依存。
共感覚で――狂感覚。
共奏曲で――狂奏曲。
「……♪」
歌が、聴こえてくる。
ココネに抱き締められて、耳元で口ずさまれている。
「んっ」
吐息が耳を撫でるのに、ぞくりとして――
「は、ぁ……」
――セカイの鮮やかさに、震えた。
彼女の歌声が、セカイを色付ける。
灰色を塗り潰して、食い潰して。
セカイの色が増して、色彩になっていく。
「ん……ココネ」
名前を呼ぶ。
自分の声色は、青混ざりの桜色。
どうしようもないくらいに安心してしまっている、証明。
ココネが、甘さを感じる色だ。
「……♪」
甘さが燃料になったのか、歌声がより強く、鮮明な色を放つ。
テンポの変化やビブラート、『しゃくり』や『こぶし』が起きるたびに、景色はより鮮やかに、美しくなる。魔法みたいに、変化していく。
もっと。
もっと見たい。
「ん、ココネ……お願い、もっと――」
――私に綺麗なセカイを、ちょうだい。
私の心を色で満たして。
貴方の心は、私が満腹にしてあげるから。
もっと、音を響かせて。
雨を塗り潰すように、奏で続けて。
◇◆◇
「ん……ココネ、もう大丈夫……」
雨の音は未だ聞えていて。
雨粒が窓を叩くのを見ていると憂鬱な気分になるけれど、さっきまでより、ずっとずっと楽になっている。
モノクロのフィルターの先に、綺麗なセカイが広がっているんだと信じられる。
だから私は、顔を上げた。
灰色の世界で、今日も生きるために。
「えぇ~。ボクはもう少し欲しいなぁ~?」
ふわふわの髪の毛とフリルを揺らして、ココネが首を傾げる。
まったくこの食いしんぼは、困った子だ。
「音を食べるのもいいけど、ちゃんとしたご飯も食べなくちゃ、ダメでしょ」
共感覚は、あくまで『感覚』でしかない。
音を聞いて味覚を刺激されたとしても、それでお腹が膨れるわけでも栄養が摂れるわけでもない。
あくまでも、彼女の共感覚は連想的なものでしかないんだ。
きちんと生きていくためには、食べるべきものを食べなければならない。
私が居るのは、彼女の食――本質としての食事――に対する無頓着さを、嗜めるためでもある。
「ちぇ。解りましたよぉ……きちんと食べれば良いんですねぇ」
「そう。苦手なのは、私も解るけど……きちんと食べなくちゃ、ね?」
ココネが本当の食事をしたがらないのは、食事するときの音が原因だ。噛んだり、飲み込んだり、食器が擦れたりする音の群れで、別の味が呼び起こされてしまうから。
チョコレートを食べても、噛んだ音の所為で共感覚が起きて、違う味が出て来たりするらしい。そうなると混乱してしまうようだ。
それでも私が言うことに、ココネは頷いてくれる。
渋々という感じでも、納得はして、首を縦に動かしてくれる。
だから私も、彼女のために動こうと思えるんだ。
この、色彩の無いセカイで。
「ね……食べたいもの、ある?」
彼女の暖かな音色を、見るために。
狂っていても、共にいる。
私たちは、音を共有するために一緒にいるから。
◇◆◇
「キサラちゃぁん、この卵焼きしょっぱぁい……」
「……それは共感覚の所為だよ。口を閉じて食べたら味も変わるよ」
「うえぇ~、ホントかなぁ……」
「本当。超本当……うわ、何コレしょっぱ。超まずい」
「漏れた! 今すんごい漏れてましたぁ!!」
――まだまだ望むセカイまでは、遠いみたいだけど。