クリスマスがやってくる
「いよいよ、もうすぐクリスマスがくるわね」
起き抜けの習慣でリビングの壁掛けカレンダーに赤いバツ印をつけながらフミエが言った。わたしはアクリル板を切り抜く手を止めて「あら、もうそんな?」と言った。実際に、ここのところの単調な生活が平穏すぎて実感が全然わかなかった。
フミエはわたしのほうを振り返って、フッとほほ笑んでから、カウンターキッチンのほうに行き、コーヒーメーカーをセットしながら、ただ「静かね」とだけ言う。余分の感情がなにもついていない、静かで綺麗な「静かね」だ。
「ええ、静かね」
わたしは言う。静かだった。冬の木枯らしが窓を叩く小さなコトコトという音と、コーヒーメーカーが作動しはじめるボボボボっという音がかすかにしているだけだ。外はきっと寒いのだろうけれども、窓ガラス越しに注ぐ陽射しは暖かく、すべてが柔らかで清潔で平穏だった。
「先月末のお祭り騒ぎが嘘みたい。早くから騒ぎ過ぎて、本番前に、みんな疲れてしまったのね」
フミエがそう言いながら、食糧庫にしている戸棚を漁る。チョコレート味のシリアルを出して、キッチンに立ったまま箱から直接手づかみでモグモグと食べる。
「わりと、毎年そんな感じじゃないかしら。わたしが子供のころは、さすがに12月にもならないうちからクリスマスムードでざわざわなんてことはなかった気がするのだけれど、ここ数年はもう11月半ばくらいからセールとかやっていたじゃない?」
わたしはアクリル板を細かく切り抜いて雪の結晶を作る。それを針金を曲げたフレームにテグスで繋いで、モビールにする。二週間かかって、やっと予定していた4段目まで出来上がった。あとは微妙なバランスを調整していけば完成する。
「ゲーム理論みたいね。自由にさせておくと、最終的にふたつのお店が隣同士でくっついてしまうの」
フミエはケースで買いこんであるリンゴ果汁100%の缶ジュースをダンボール箱からひとつ取り出して、シャッシャと振ってから栓をあけて一気に飲み干す。ぐっぐっぐ、と白くて細い首が鳴る。
「そのうちにクリスマスが終わった途端に来年のクリスマスのセールをすることになるわ」
「だんじりみたいに?」
わたしはモビールを作る手を止めないままそうきいたけれど、フミエには分からなかったらしく「だんじり?」とだけ不思議そうに言って、でもそれ以上説明を求めるわけでもなく、コーヒーをふたつカップに注いだ。このようにして、様々な意志や意図や意味がフッと空気に溶けるように、優しく消えていく。
フミエは黙ってわたしが作業しているテーブルの端にコーヒーカップを置き、自分はソファに転がって本を読み始めた。ギュッと厚くて小さい、ドストエフスキーかなにかだ。
「面白い?」とわたしがたずねると、フミエは「長いわ」とだけ言った。しばらくして、もう一度「とても長いわ」と言った。
時間はとても穏やかに流れている。フミエはまるで、生きていないみたいに身動きしない。時々、ページをめくるカサっという音だけが、ごく微かに聞こえた。わたしのモビールが完成するころには、ドストエフスキーは小さな寝息を立てるフミエの胸の上でゆったりと上下に揺すられていた。
キッチンから椅子をもってきて、カーテンレールにモビールをくくりつけていると、ゴトンッと哀れなドストエフスキーが地に打ち捨てられる音がした。上半身だけ起こし寝ぼけまなこのフミエは、傾きはじめた午後の太陽にキラキラと揺れるモビールを見て「できたのね」と言い、正しく三度「フフフ」と笑った。
「クリスマスに間に合ったわね」
「そうね。でもちょっと早すぎたみたい。明日からもう少し、なにかやることを考えないと」
フミエはみをよじってソファにうつぶせになり、組んだ手に顎を乗せてすこし考えてから「キルトはどうかしら。切ってしまってもいいお洋服なら、たくさんあるわ」と言った。
「悪くはないかもしれないけれど、今度は逆に時間が足りなくなるかも」
「そんなキッチリきれいに、時間を上手に使い切ることなんてできっこないわ」
わたしもこの本、たぶん全然読み終わらないし、とフミエは言う。もう、ひと月ちかくもずっと同じ本を読んでいるのに、まだ読み終わらないなんてどうかしていると思う、とわたしが言うと、だって、どこまで読んだのか分からなくなってしまうのだもの、と淡い口びるをとがらせて見せる。
「クリスマスがやってくるからって急に気合いを入れてみたって、やっぱり到底できもしないことは到底できはしないのよ」
「もう、ただ本を読むだけのことじゃない」
「わたしにとっては、そうなのよ」フミエはそう言ってうつぶせになり、しばらくしてから「そういうことなのよ」と言った。
それからしばらく、わたしたちは黙ってふわりふわりと微かに揺れるモールドをただ眺めていた。色とりどりのアクリル板で作ったので、太陽の光を映して白い壁紙に淡い色がゆらゆらと踊る。
「もう夕方ね」
「そうね、晩御飯をなにか考えないと」
わたしがそう言うと「あ!」っと、突然にフミエは起き上がり、ウサギのような足取りでキッチンのほうへ向かって行った。
「わたし、いいものを見つけたのよ」
イタズラを仕掛けた子供みたいなはしゃいだ表情でフミエがそう言うので、わたしも自然と口角を上げながら「もう、なあに?」と返す。
「じゃん!」
と言って、フミエが見せてきたのはタコ焼き器。ホットプレートみたいに、電気で温めるやつだ。そういえば、何年か前に買ってきて、何度かは使ったことがあったような気がする。
「晩御飯はタコ焼きにしようよ」
お好み焼き粉はあったでしょう?とフミエが言う。首を55分ぐらいに傾ている。
「タコがないわ」
「タコのかわり、なにかないかしら」
わたしもキッチンのほうに行って、ふたりで戸棚を漁ってみる。
「ツナ缶があるわ。これでよくないかしら?」
「そうね。サバとか焼き鳥よりはまだ近いかも」
「あと、あげだま。アオサとカツオ節もあるし……あ!チーズ!」
「チーズ?タコ焼きに?」
「そう、タコ焼きに」
フミエがタコ焼き器をダイニングのほうに持っていって繋ぎ、わたしがその間にお好み焼き粉を水で溶いてタネを作る。フミエは粉と水を混ぜるぐらいのわずかばかりの料理すらしない。ツナの缶は開けてくれた。
「すごい、たこ焼きって、本当にまるくなるのね」
「そりゃあ、たこ焼き器なんだから、まるくなるわよ」
「でも、たこ焼き器がまるいのは半分だけだわ」
「だからひっくり返すんじゃない」
「それで、まるくなることがすごいのよ」
出来上がった丸いなにかは、決してタコ焼きではなかったけれども、悪くはなかった。近頃のわたしたちにしては、お互いによく食べたし、よく喋ったと思う。陽が完全に落ちたので、リビングにひとつだけ灯りをつける。わたしたちはふたりでソファーに、もたれ合うようにして座る。
「もうすぐクリスマスだっていうのに、ちゃんと電気が来ているなんてすごいわよね。クリスマス前でも、ちゃんと仕事をしている人がどこかにいるのね」
「そうね。ひょっとしたら、テレビやラジオもまだやっているのかも」
わたしたちは、もう随分と前からテレビもラジオも見ていない。すっかりお互いのこの静かで穏やかなペースに慣れ切ってしまっていて、テレビやラジオの騒がしさにはいまいちついていけなくなってしまったのだ。
「静かね」と、フミエがまた言った。余分な感情がなにもついていない、静かで綺麗な「静かね」だ。
「ええ、静かね」と、わたしも言う。「きっともう、みんな疲れてしまったのね」
「ひょっとしたら、やっぱりみんな、クリスマスは大切な人と静かに穏やかに過ごしたいって、そう思うものなのかも」
そうかもしれない。実は人間は、わたしたちがかつてそう思っていたよりもはるかに、おとなしくて穏やかな生き物なのかもしれない。
「もうそろそろ、クリスマスも目で見えたりするの?」
「どうかしら?ちょっと見てみる?」と、わたしたちふたりはモゾモゾと立ち上がってベランダに出てみる。
「暗くなったわね」
「そうね、暗いわ」
以前よりも地上の星がずっと少なくなって、その代わりに、ここでも空の星がよく見えるようになった。すこし前には夜になるたびに響いていた花火のような破裂音も聞こえないしチカチカとした閃光も見えない。品のあるお行儀のよい夜だ。
「どっちの方向だったかしら?」
「西のほうから、45度の角度で来るって、だいぶ前のテレビでは言っていた気がするけれど」
「あ、あれじゃない?あのひときわ明るいの」
「ああ、そうかも。あれが落ちてきたら、ぜんぶ終わるのね」
わたしたちはベランダのアルミ製の手すりに肘をついて、えっさほいさとこちらに向かっている最後のクリスマスを見上げる。
「あれをクリスマスって名付けた人が偉いよわね。クリスマスなら、まあしょうがないかみたいな気分になるものね」
みんな、クリスマスは大切な人と静かに穏やかに過ごしたいものだもの、とフミエが言う。
「わたしは大切な人?」と、ためしにきいてみたら、フミエは正しく三度「フフフ」と笑って「気にはならないわ」とだけ言った。
「さっむ。ココアが飲みたいわ。甘いヤツ」
「いいわね。ココアなら飲みきれないぐらいたっぷり余っているわ」