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その4

 長雨続きの六月が通り過ぎて、久々に晴天の日々が訪れた。

 だが、自動車が故障しない日などない。じりじり近付いてくる真夏の行楽シーズンに向けて整備工の仕事はまた忙しくなった。

 だから、誰も気が付かなかった。

 先月、車を修理したばかりのご高齢の男性常連客が亡くなっていたことに。

 朝刊のお悔やみ欄に葬儀の報せが載ってはいたが、日課のように新聞を読んでいるはずの工場主こと社長から、営業、事務、整備員までまったく気付かず、他の顧客との世間話から偶然知った社長が、慌ててお悔やみの挨拶に行った。もちろん、幾枚かを包んだ香典を手にして。

 死因は心臓発作だったという。その日の朝、いつも通りに年季の入った愛車に乗り、エンジンキーを回したが、これがまたなかなかかからない。何度も何度も試して、やっとエンジンの唸りが安定してきた。

 しかし、今度はいつまで経っても車が出る様子がない。心配になった婦人が見に行くと、暖機運転を続ける車の運転席で、すでに夫は事切れて、空を仰いでいたそうだ。

 香典返しの味付け海苔セットを手に戻ってきた社長から状況を聞くと、どことなく張り詰めていた社内の空気は、一転して安堵に包まれた。

 自動車の故障に関係する事故ではなかったからだ。

 つまり、自分たちにはなんの責任もない。

 あからさまに「良かった」と口にする者は、もちろん一人もいない。

 けれど「お気の毒に」という人もいなかった。

 皆と同じく何事もなかったように日々の勤めへ戻った若い整備工は、もやもやしたものを胸の底に沈めたまま、動かない車の周りで工具と手を動かし続けた。


 その日は遅くなった。

 いつも通りのつもりで整備作業を進めていたが、全員が全員、どこがどうというわけでもなく、いまひとつ調子が上がらない。細かいミスをみつけては、一つ前の作業工程からやり直す。これを何度も繰り返すうちに時間は刻々と過ぎていき、納期が明日に迫る車両をなんとか仕上げて試運転を終えた頃には、とっくに空は暗くなっていた。

 黒い天幕に空いた小さな穴のように点々と光る星の下、疲れた背中がびりびりと痛む重い身体を引き摺って、整備工は家路を急いでいる。……つもりなのだが、その足取りはおそろしく遅い。

 なにもない場所で躓いて、陸橋下側面、冷たいコンクリートの壁に片手を着いたそのとき。食料を買うのをすっかり忘れてコンビニを通り過ぎていたことに、いまさらながら気が付いた。

 けれど、ろくに上がらない重い足で戻るには、ちょっと躊躇う距離がある。

 なにか部屋に買い置きがあったはずだ。

 疲れた整備工は、ぼんやりした記憶の中で広くもない部屋を家捜しする。

 カップ麺とか、袋ラーメンとか、レトルトのカレーとか、さんまの蒲焼の平たい缶詰とか、この際もう即席お吸い物でも粉末カップスープでもいいから、なにかないものか。

 ……あった。

 あのふざけた小人がまた遊びに来るかもしれないので、念のためにと買っておいたチョコチップ入りのクッキーが細長い箱ごと手付かずのままだ。

 大体、一ヶ月に一回くらい、なんやかやと理由をつけて訪ねて来ては、食料を食い散らかして去って行くあの小人、ミリメル。

 時期的にはそろそろ訪ねてきてもおかしくはない。が、いかんせん雨が降らないとこちら側に来られないとかいう話。初夏の風物詩である台風も微妙に進路がずれたりして、今月は草木が干からびないのが不思議なくらいの晴天続きだ。

 もしかすると前回「もう遊びに来なくていい」と言ったので、ミリメルは二度と来ないのかもしれない。

 それならそれで別に構わない。そう、整備工は思った。

 きっと、森の仲間たちと「綱引き」……じゃなくて「つたひっぱり」でもしながら、のんきに暮らしていることだろう。力尽きて倒れない程度に。

 だるい身体を前のめりにじりじり進む整備工だったが、ミリメルがしでかしたムチャクチャな振る舞いを思い出すと、なんだかすこしだけ気持ちが軽くなった。


 コンクリートをえぐるように作られた陸橋下のトンネルには、夜間照明用に四角いライトが内壁の上部に設置されている。だが、それもいまは、ぱちんぱちんと音を立て、点滅を繰り返すだけで、暗さと薄暗さの間を行ったり来たりするばかりだ。

 無機質な灰色の壁には、黒いスプレーでぐじゃぐじゃと大きく落書きされていた。けれど、なにしろ明かりがこんな有様なので、文字なのか絵なのか確認する気も起きない。

 誰が捨てているものか、チューハイや発泡酒の空き缶が、まとめて壁際に置き去りにされている。

 その林立するアルミ缶の前に、白くて黒くて丸く平たいなにかが見えた。

 けれど、それも一瞬のこと。

 ぱちん。

 また照明が消える。

 暗闇で待たされる時間は、たとえ三秒でも長い。

 戻った明るさに目を細めながらみつめると、空き缶を背にして白黒まだらの猫がうずくまっていた。

 この辺り一帯を仕切っていると噂される野良猫、ブン太だった。

 食べ物をくれる大家さんにすらてんで懐かないほど警戒心の強いブン太が、人目に付くこんな場所で寝ているとは珍しい。もしや、他所から遠征してきた猫とケンカでもして、どこかにケガでも負ったのだろうか。

「おい、ブン太。……どうした? 大丈夫か?」

 通じるわけがない。そう思いながらも、しゃがみこんだ整備工は心配そうに話しかける。

 すると、ブン太がうっすらと瞼を開き、声のしたほうを見た。

 ぱちん。

 トンネルにまた闇が落ちた。

 いちだんと長く感じさせる、ほんの何秒かが過ぎ、頼りない明るさが戻る。

 すっくと立った白黒まだら猫がよけたその場所には、手の平サイズの女の子がぐったりと横たわっていた。

「ミリメル!」

 深緑色の服ととんがり帽子にはところどころ黒い焦げ跡があった。おかっぱ頭の髪の毛の先はちりちりと焼け縮れ、ほっぺたには煤がこびりついたままだ。すこし水で濡れているらしく、湿った土のような焦げ臭さが漂う。

 呼びかけが届いたのかどうか、小人は苦しげに「ウウ……」と唸った。

 まだ息はあると知って、整備工はひとまず胸を撫で下ろした。

「おい、しっかりしろ、ミリメル!」

「……へっへっへ、かしこいの。ひさしぶり……」

 意識を取り戻したミリメルは薄目を開けると、いつものように応えたが、その声はかすれて憔悴しきっていた。

「どうしたんだ? いったい、なにがあった?」

 ミリメルの様子から考えれば、火事かなにかに巻きこまれた可能性が高い。

 だがそれは、こっちに来てからの話なのか、それとも――。

「わるいやつ……、きた」

「悪いヤツ、だって?」

「……そう。『てつのくに』ねらう、おおきいやつ」

「待て。それがなんでお前らの『もりのくに』に来てるんだ?」

 当然の疑問に、おっさん臭くニヤリと笑うミリメル。

「……だましてやった」

 聞いた整備工の頭の上には疑問符が増えるばかりだった。

「なんでまた、そんなことを?」

 問い質されたミリメルは、か細い声で言葉を返した。

「おんがえし。……みんなで、きめた」

「恩返しって、お前、なにもそんな」

「……となりのもり、たすかった。……『つたひっぱり』、みんな、できた。……みんな、おおわらい」

 たったそれだけのことで……?

「待て。それで、いまお前の、その『もりのくに』はどうなってるんだ!」

「……もえてる。わるいやつ、……ひのまほう、つかう」

「おい待て。そんな、火ィ使うようなヤツなんかと戦って、お前たち勝てるのか」

 またミリメルは少女の顔でニヤリと笑った。

「こっち、あめ、ない。でも、むりやり、きた」

 そうだ。両方の世界が雨降りでなければ異世界は繋がらないはず。

「だから、つながるみち、こわれる」

 それだけ話すと疲れたのだろうか、ミリメルは静かに目を閉じた。

 じゃあ、ミリメル。お前はどうやって帰るつもりなんだ?

 その問い掛けは、整備工の喉に詰まり、声にも音にもならなかった。

 小人たちは自分たちの世界に、その悪いヤツとやらを閉じ込めるつもりだ。

 その仕上げに、ミリメルをこちらに寄越したのだ。

 異世界を繋ぐ道を壊してフタをするために。

 つまり、もうミリメルは二度と帰れない。

 いや、それどころか、帰るべき故郷がまだ存在しているかどうかすらも……。

「ブン太」

 にらむように黙って見ていた野良猫の親分に、整備工は声をかけた。

 まるで言葉が通じる相手へそうするかのように。

「ちょっとの間、ミリメルを頼めるか」

 部屋まで運ぼうかとも思ったが、動かして大丈夫なのかわからない。

 ぱちん。

 不意に電灯が消えて、またトンネルに闇が落ちた。

 ちかちかと点滅しながら再び明るさが戻ると、白黒まだらのシブい猫は、傷付いた小人を背中に隠すようにして、横になり丸くなっていた。


 小人と猫と響く足音を残して、整備工はアパートまで全速力でひた走る。

 疲労も空腹もすでにどこかへ消し飛んでいた。

 靴を脱ぐのももどかしく、土足のまま部屋に上がると、息を切らして必要なモノを探す。

とうに使用期限は切れていたが、打ち身や火傷にも効く塗り薬があった。だが、他所の世界の住人に効果があるのかどうか。

 空のまま流しに転がっていたコーラのペットボトルを水道水で濯いでから、水筒がわりに水をいれる。冷やせるし、洗えるし、なにより飲める。

 元気になったらミリメルがなにか食べたがるかもしれない。食料らしきものは、それこそ買い置きのチョコチップ入りクッキーしかなかった。

 他になにが要るのか? 気が急くばかりで思いつかない。

 とりあえず、それらをその辺にあったコンビニ袋に突っ込む。すると勢いよく袋が破れた。さっきまでは薄い袋だったトンネルを通り過ぎて、次々と物が落ちていく。

 ……いや、待てよ。

 転がるそれらを急いで拾い集めながら、整備工ははたと気がついた。

 ミリメルは「こわれる」と言ったが「こわれた」とは言っていない。

 あっちとこっちを繋ぐ道が完全に断たれるまで、まだ時間があるんじゃないのか?

 まだ道はあるんじゃないのか?

 こっちで雨を降らせることが出来れば……。

 けれど、神様でもなんでもない、一介の整備工にそんなことは不可能だ。

 だが、整備工は思い出した。

 あのトンネルの近くは道が狭く、消防車が入りにくいので、たしか消火栓があったはず。

 ただし、あれはフタこそ開くものの、専用ハンドルで上部の放水栓をひねらない限り水は出ない。どこかでそう聞いたような気もする。

 足跡だらけの万年布団の下から出てきた他のコンビニ袋へ、塗り薬と水とチョコクッキーを入れ直すと、一旦布団の上に置き、消火栓をどうにかするための道具を探す。

 駄目だ。

 仕事で使う工具は職場に全部置いてある。他にあるものといえば、安物の工具セットくらいだがドライバーくらいしか入っていないので、まったく役に立ちそうもない。

 あと、時間はどれだけあるのか。

 そもそも道がまだあるかどうかもただの仮説に過ぎない。

 いや、それよりもまずミリメルは大丈夫なのか。

 気ばかり焦るなか、ミリメルから貰ったどんぐりぼうしが、ふと頭をよぎった。

被ると姿が消えるのだが、なにしろ小人の作ったものなので、こちら側の人間には如何せんサイズが合わなかった。試しにと指先にはめてみたら肘までは消えた覚えがある。

 隅の箪笥の上にずっと置きっぱなしだった、深緑色のどんぐりの殻を掴んだ瞬間、箪笥と壁のわずかな隙間になにかが挟まっているのが見えた。

 気になって箪笥を少し動かし、隙間に手を伸ばすと、固くて冷たい金属の感触がある。

 曲がった部分を掴んで引っ張り上げると、それはところどころ錆びた釘抜き。「ようなもの」などではなく、正真正銘、バールそのものだった。

 そういえば、ずいぶん前に、使ったような気もしないでもない。

 ズボンのベルトにバールを差すと、整備工はコンビニ袋片手に部屋を飛び出した。


 人通りのない夜の道を、腰にバールをぶら下げた男がコンビニ袋片手に全力で走る。

誰かに見られたら即通報されかねない不審者と化した整備工は、つんのめるように急に立ち止まった。

 なにか音がする。

 唸るように一定の間隔で続き、擦れるように止む、聞きおぼえのある音。

 セルモーターだけが回り、かかりそうでかからないエンジンのあの音だった。

 ミリメルのもとへ急がなければと思いながらも、誰かに呼ばれている気がして、整備工は音のするほうへと駆け出した。

 家人は出かけているのだろうか、明かりの消えた家の前。

 一台の年季の入った自動車が停まっていた。

 見覚えがある。いままで整備工はこの車を何度も直してきたのだ。

 亡くなった常連客、あの老紳士の愛車だ。

 だが、いまは誰も乗っていない。

 エンジンがかからないときのあの音は、ただの幻聴だったのか。

 とんだ遠回りをしてしまったと後悔して、向けた背中に短いクラクションが鳴った。

 驚いて振り返ると、死んだはずのお客様が運転席に座っていた。眉間のシワがおそろしく深い。生前に一度も見たことがない険しい表情だった。

 自分たちの自動車整備の至らなさに、常連客が化けて出た。

 怖いと思うより先に、整備工は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 せめてお詫びをと車に近付くと、幽霊になったお客様はすでに車内から消えていた。

 運転席側のドアに近付いて、もう一度覗いてみる。

 エンジンキーが差しっぱなしのままだった。

 あまりに無用心過ぎる。車上ドロどころでなく、自動車そのものを盗まれかねない。

 ……閃いた。

 だがそれは、自動車に関わる者の職業倫理にもっとも反する考えでもあった。

 バールで消火栓を開くのは無理だ。しかし、車をぶつければ壊せる。

 おそるおそるドアに手を伸ばした。ロックされていない。

 そっと運転席に座り、隣の席にコンビニ袋を置いた。

 キーをひねる。一発でエンジンがかかった。

「すみません! ありがとうございます!」

 もういない持ち主に大声で告げて、シートベルトを締めた整備工は、ライトを点けてギアを入れ直した。


 信じ難いレベルで噴き上がる水の柱に、激しく前面がひしゃげた車を寄せる。ボディ側面を使って水の角度を斜めに変えるのだ。みるみるうちに陸橋のコンクリート壁を水が黒く塗り替えていく。

 歩行者用トンネルの上から水滴が滴り落ちているのを確認すると、コンビニ袋を手にして整備工は車から降りた。消火栓にぶつかった衝撃で、まだ頭がクラクラする。直した車を盗んだ上に壊したせいかもしれないと思った。

 いくらこのあたりが空き家だらけだとしても、あれだけの衝突音だ。さすがに通報されるだろう。急がなければならない。

 だらだらと水が落ちるトンネルを潜ると、空き缶に囲まれて白黒まだらのボス猫ブン太が丸くなって寝ていた。

「……ブン太、悪い。いま、戻った」

 気付いたブン太がつまらなそうな顔をして立ち上がる。

 そこに静かに横たわっていた小人のミリメルを、整備工はそっと手の平で掬い上げた。

 そういえば、こちらから道具は持っていけないとミリメルに言われていたのを思い出した。そのルールが異世界への道に異常を起こさないためのものでなく、小人たちの社会的モラルであってくれと祈るばかりだ。

 そもそも、たかが一人の人間が行って、どうこうできる問題ではないかもしれない。

 だが、本来、整備工とは壊れる前に手を尽くすのが仕事。

 さすがに異世界だの魔法使う大きな悪いヤツだのは専門外ではあるが。

「じゃあな、ブン太。ちょっと行ってくるわ」

 その瞬間、水で配線がショートしてトンネル内の電灯が完全に消えた。

 滴る水音へ向かって消え去る足音を、緑に光る猫の目だけが追う。

「……ばかな、やつだ」

 猫しかいない暗闇で、ぽつりと誰かが呟いた。


 その年のその月も他とさして変わりなく、多くの行方不明者があった。

 思わせぶりな世界終焉の予言が盛大にはずれた肩すかしの年。

 一九九九年、七月。

 名前も知らない誰かが消えて、世界はいまだに続いている。

時間がかかりすぎました。申し訳ない。

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