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その2

 あれから一ヶ月ほどが経った。

 若い整備工は動かない自動車のまわりを、汗と油にまみれて働き、泥のように眠る日常を当たり前に過ごしている。

 職場の同僚にも友人にも小人のことは話していない。

 これがもしも幽霊の話だったとすれば、まだ聞いてもらえたかもしれない。

 たとえ面白半分だとしても。

 だが、小人に出会ったと真顔で言われたとしたら、どう思うだろうか。

 正気を半分疑われてもおかしくはない。

 それでなくても、生活のため、義務に追われる普通の日々は、なにかとばたばた忙しい。

 忘れたわけではなかったが、日常は次から次へと汚れた衣服のように覆いかぶさり、小人と出会ったのかどうかさえ、やがて曖昧になっていった。


 その日はゴールデンウィークのど真ん中。仕事はたまたま休みだった。

 朝から天気のいい行楽日和だが、働き者は疲れている。そもそも休日とは心身を休めるためにこそある。希望をいえば部屋で一日中ゴロゴロしていたいところだ。

 それでも、一人やもめ暮らしを維持するために、洗濯は必要だった。

 誰も訪ねてくる予定がないなら、別に掃除は後回しでも構わない。見たこともない小さな虫や色とりどりのカビが大発生でもしない限りは。

 だが、着る物がなくなり、食料を買うために外へ出られなくなれば、すべては終わる。

 そんなこんなで整備工は、溜まりに溜まった汚れ物を、手提げ袋へパンパンに入れて両手にひとつずつ持ち、コインランドリーを往復すること二回。なんとか洗濯を終えた。

 すでに日は傾いていたが、冷蔵庫にはもう脱臭剤とねりわさびしか入っていない。安くてお得なスーパーはやや遠いので、やむなく高くて便利なコンビニへ行くことにした。

 梅干し入りしか残っていないおにぎりをひとつ、サンドイッチをふたつ買った若い整備工がのんきに帰り道を歩いていると、晴れ空のまま、急に降り出した夕立が、アスファルトを黒く濡らす。もちろん傘など持っていない。

 天気雨なのですぐに晴れると判断した整備工は、とりあえず雨宿りしようと小走りで陸橋下のトンネルへと向かった。

 いったい誰が消したのか、スプレーで書かれた難読熟語の落書きは消え失せて、コンクリートの無機質な壁が逃げ込んだ整備工を迎え入れる。だが、壁際には、前に通ったときに無かった発泡酒のひしゃげた空き缶が積み重なり、小山になっていた。

 そのゴミの山あたりが、ミリメルとかいうふざけた小人が、眠りこけていた場所だったはずだ。

 雨が止むまでやることもないので、特に感慨も無くアルミ缶のへこみを眺めていると、白黒まだらの影が足元を駆け抜けていく。

「なんだ、ブン太か……」

 整備工の声が聞こえたのか、ご近所界隈で荒くれ者と評判の野良猫ブン太はぴたりと立ち止まる。振り返りもせずに、なだらかな背中を向けたまま。

「……へっへっへ」

 思わせぶりに猫が笑った。

 息の音や鳴き声がそれらしく聞こえたわけではない。間違いなく、人間の声だった。

 前々から、ただ者でない面構えと思ってはいたが、まさか人語を喋るとは予想の遥か斜め上だ。もう賢いとかどうとかそういうレベルではない。

「お、おい。ブン太、まさか、お前……」

 呼びかける整備工に、まだらの猫がゆっくりと振り返る。

「……へっへっへ」

 その口に子猫をそうするように、深緑色の服を着た小人の女の子の襟を咥えてぶら下げていた。

 こんな状況のなにが面白いのか、小人のミリメルは手足と帽子をぶらぶらさせながら、不敵な笑みを崩さない。

「……なんだ。ミリメルか」

「……へっへっへ。かしこいの、ひさしぶり」

「いや、まあ、賢くはないけどな……」

 いまさっき、笑い声の主をブン太だと思い込んでいたので、賢いとか言われると、これまたなんともバツが悪い。誤魔化すようにこちらから訊ねた。

「で、今度はなにをしに来たんだ?」

 一瞬、キョトンとなったミリメルだったが、なにかに気付いたように小さな手を叩く。

「ああ。それ、それ。ジジイ、たのまれた」

「じ、じじい?」

「ジジイ、もりで、いちばんえらいひと」

「それ、長老とか呼ばないか、普通」

「ジジイは、ジジイ」

 メルヘン世界の住人に、年長者に対するこちらの礼儀作法は通用しないようだ。

「……そうか。まあ、いいけどさ」

「はなし、つづき、たべながら」

 ぶらついているミリメルの熱視線が、ぶら下げられたコンビニ袋に注がれていた。

「これは駄目だ。おれの晩メシと朝メシなんだから」

「きにすんな。ちいさいこと」

「ずいぶん大きく出たな、おい」

 不意にブン太が首を振り、口から離れたミリメルは宙で一回転して、ふさふさした背中に落ちた。

「よし。いけ!」

 小人の号令を合図に、猫がダッシュで走り出す。おそらくは整備工のアパートへ。

 やれやれと溜息をついて、勢いを弱めた雨の中、小人を乗せた猫を追った。


 整備工が部屋の前に着くと、ブン太はミリメルを残して悠々と歩み去った。

 もしかすると、小人を守っていたのだろうか。乱暴な野良猫と呼ばれるブン太だが、どういうわけだかミリメルの指図には大人しく従っている。それについて猫自身どう思っているのか、その貫禄ある怖い顔から伺い知ることは出来ない。

 鍵をひねりドアを開けると、ミリメルは我先にと部屋の中に駆け込んでいく。

「おい! ちょっと待て!」

 濡れた靴跡が万年床を横断しようとする一歩前で、整備工は小人を摘み上げた。

 汚れたスニーカーを後ろに飛ばすように脱いで部屋に入ると、朝昼兼用で食事をしたときから出しっ放しの卓袱台へミリメルを下ろす。

「そこで大人しく待ってろよ」

「よし」

 偉そうな返事が気になるが、とにかく納得したらしい。

 しかし、男の一人暮らし、ミリメルに食べさせるようなお菓子の買い置きはない。

 深く溜息をついて、おもむろに卓袱台に買ってきたコンビニ食品を並べた。

「おい、ミリメル。おにぎりとサンドイッチしかないけど、どっちがいい?」

「どっちも」

「駄目。どっちかだけだ」

「……。おいしいほう」

「どっちも、まあ、それなりだ」

「……。おもいほう」

「じゃあ、おにぎりだな」

 特殊なセロハン包装を手順通りに剥がして引き抜き、現れたパリパリ海苔の梅おにぎりを皿代わりに裏返したコンビニ袋の上に置いた。

「ほほう、これは」

 物珍しそうに海苔の隙間から米粒をひとつ掴み取ると、ミリメルは整備工を見上げる。

「しろい、むし?」

 たしかに、なにかの幼虫に見えないこともない。だがそれは、米を主食としつつ昆虫食にあまり馴染みがない文化圏では、本能的に回避される話題だったりもする。なぜかといえば、著しく食欲が減退するからだ。

「いや違う。穀類、だと難しいか。……ええと、稲の種、じゃなくて、実になるのかな」

 説明を聞く素振りはまったく見せず、ミリメルは米を頬張った。

「……どうだ?」

「うん。まあまあ」

 もしかすると小人には、味について聞かれたら、そう答えなきゃならない掟かなにかがあるのだろうか。

 横たわるおにぎりにかぶりついたミリメルは、そっけない言葉とは裏腹にもりもりと食べ始める。海苔に包まれたやわらかい三角形が、瞬く間に、歪な台形へ姿を変えていく。

「ああ、そうだ。それ、梅干が入ってるから――」

 気をつけろよ、という前にミリメルの顔色が変わった。

「……! ギィヤアァァァーーーッ!」

 ひっくり返ってのたうち回る小人の口には、紀州やわらか梅が付いていた。

「すっぱい! どく! どく!」

「いや、酸っぱいけど毒じゃないぞ」

「じゃあ、のろい……」

「酸っぱい呪いってなんだよ。身体にいいんだぞ、梅干は」

 しかし、死にかけた虫のようにひっくり返って動きが鈍くなってきたミリメルを見ていると、なんだか心配になってきた。

「ちょ、ちょっと待ってろ。いま、水を持ってくるからな」

 ウイスキー用グラスに水をなみなみ注いで、そろそろと整備工が戻ってくると、おにぎりの残りがどこにも見当たらない。それどころか、サンドイッチの包装がふたつとも破り捨てられ、パンの粉だけを残して中身がすっかり消えていた。

 座りこんだミリメルはこっちに背中を向けている。

「おい、ミリメル。……こっちの食い物はどうした?」

「あれ、おなかすいてしまう、のろい」

 たしかに梅干の酸味には食欲増進の効果がある。

 突き刺すような無言の視線に気付いたのかどうか、ミリメルはさも残念そうに天井を見上げながら溜息を吐いた。

「のろい、つよい。かてなかった……」

 そしてまた溜息を――と思ったら。

「げふう」

 今度はゲップだった。

 この小人こそ自分の身に降りかかった呪いなのかもしれない。

 そんな風にも思えてきて、整備工はなんだか自棄やけになってきた。

「ああ! もう、いいわ! それより、お前、ホントはなにしに来たんだ?」

「おおう。それ、それ」

 何事もなかったかのように振り返ったミリメルは、深緑色の三角帽子を頭から取ると、ぞんざいに振り回した。その中から、同じ色の小さなベレー帽に似たものが転げ落ちる。

 それを拾い上げると、ミリメルは整備工に突き出した。

「これ。ジジイとジジイ、ふたりから」

「二人? ああ、お前の森の長老と隣の森の長老か。で、なんだ、それは」

「このまえ、どんぐりころがし。おれい」

 小人たちは「ころ」のことを「どんぐりころがし」と命名したようだ。

「そりゃまた、どうもご丁寧に……。じゃなくて、それはいったいなんなんだと聞いてるんだ」

 ミリメルは口をあんぐり開けて、アホを見るような目で整備工を見上げる。

「しらないのか? どんぐりぼうし」

 よく見ればそれはたしかに、どんぐりの一部を覆う殻に色を塗ったものだった。

「それで、これをおれにどうしろと?」

「ぼうし、かぶるもの」

「おれに被れると思うか。その帽子」

 一瞬、ミリメルはハッとした表情を見せた。だが、急にそっぽを向くと調子っぱずれな口笛を吹き始める。どうやら誤魔化しているつもりらしい。

「いやまあ……、そういうことなら有難く貰っとくよ。ところで役に立ったのか、『ころ』は」

 両手で差し出されたお礼の品を、人差し指と親指で受け取りながら聞いてみる。

「うん。みんな、てたたいて、おおよろこび」

「そうか、そりゃよかった」

「でも、これ、とるため、ジジイたち、つたきれて、きからおちた」

 思わずポトリとどんぐりぼうしを落としてしまう整備工。

「おい! それでジジイたちは大丈夫だったのか?」

「せなか、うった。みんな、ゆびさして、おおわらい」

「いや、ちっとは心配しろよ! 偉い人なんだろ?」

「つたきれたら、えらくても、おちる。よくあること」

 いかにメルヘン世界とはいえ、物理法則は社会的地位に関係なく働くようだ。

 そういえば、隣の森へ食料を運搬する方法もなかった点を考えると、ミリメルの世界には大きい質量を自由自在に動かせるような便利な魔法も存在しない可能性が高い。

 すこし考えると、整備工はティッシュペーパーを取り、二枚組みのそれを丁寧に剥がして一枚ずつにした。

「ミリメル。ちょっとこれを破いてみろ」

 向こうが透けるほど薄い一枚を小人に渡す。

「うおりゃあっ!」

 それを躊躇いなく両手で引き裂いたミリメルが、不敵にニヤリと笑った。

「どんな、もんだ?」

 もう一枚を細くねじり上げて紙縒こよりを作ると、また整備工は小人に渡した。

「今度はこれをやってみろ」

 いかにも馬鹿にしたようにニヤニヤしながら受け取ったミリメルだったが、小人の力ではこれがなかなか切れない。ふんふんと鼻息も荒く、何度も試してみて、やっと紙縒はふたつになった。

「……。ざっと、こんな、もんだ」

 また整備工はティッシュを取ると、さっきと同じようにして、それから紙縒を二本作った。さらにそれらをねじり合わせて太い一本にする。

「よし。じゃあ、次はこれだ」

 さっきの苦戦が気にいらないのか、ミリメルはかなり険しい顔で束ねた紙縒を引っ張る。 

 だが、切れない。 右と左に引っ張っても切れない。足で押さえて手で引っ張っても、まだ切れない。

「ぐぬぬ……!」

「どうだ。ねじり合わせると頑丈になるだろう」

 そう言いながら、そろそろ切れそうなティッシュの紙縒を取り上げた。

「うん。まあまあ」

 切れなかったのが悔しいのか、あきらかに不機嫌な顔でミリメルが答える。

「これをさ。お前の森の蔦で同じようにやってみたら、どうだ?」

 聞いて一瞬ハッとなった小人。だが、すぐにキョトンとなった。

「……なんで?」

「いや、だから、ジジイみたいに落ちないようにだよ」

「そうか! おまえ、かしこいな!」

 ミリメルは言うが速いか、卓袱台から飛び降りた。整備工が待てという前に、布団を踏み越えて玄関へと走る。布団の上には渇いた泥が点線になって続いた。

「おまっ! ちょっ! ああ。……切った蔦を乾燥させてから、ほどけないようにきつく締め付けるんだぞ」

 思わぬ惨状に目を覆いたくなる整備工だったが、足踏みして待つミリメルのためにとりあえずドアを開ける。

「よし。こい! ねこ!」

 呼ばれた途端、白黒まだらの野良猫ブン太が、開けたドアの隙間から部屋の中へ飛び込んできた。濡れた毛むくじゃらは停まりきれず、布団で横倒しになると一回転して体勢を立て直す。駆け戻ってきた猫の横っ腹にミリメルがしがみつくと、小雨の降る外へと猛スピードで出て行った。

「あばよ! かしこいの!」

 小人の捨て台詞を耳に、整備工が部屋を振り返る。

 そこには泥と水で汚れまくった布団。

「いや、賢くはないな……。もう、お前に関わった時点で……」

 がっくり肩を落とした整備工は、落としたどんぐりぼうしを摘んで拾い上げた。

「どうしろってんだ、これ」

 試しに指人形のように右手の人差し指に被せてみる。

「おわっ! なんだこりゃ!」

 驚くことに右手から肘までが透明になっていた。

 だが、どんぐりぼうしの魔法めいた作用に感心した途端、腹の虫が高らかに鳴り響く。

 その音が、今夜食べる物がないという悲しい現実を思い出させた。

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