雪乃─嬉しい特別扱い
14.08.23:サブタイトル及び文章修正しました。m(_ _)m
五月某日
◆◆
「雪乃……私の可愛い雪乃……。そんなに泣いていたら可愛いお顔がボロボロになってしまうわ。さあ、こっちにいらっしゃい。私に貴方の素敵な笑顔を見せてちょうだい」
大好きな人の声が聴こえた………………
瞼を開くと遠くで《何か》が金色に輝いていた。朝霧雪乃は慌てて立ち上がる。
──
今まで此処は闇だった。
此処がどこだかは分からない…………瞼を開いても閉じているのと変わらない視界は自身の身体すら見ることができなくて、視力を失ったんだと思ってた。どんなに澄ましても何も聞こえない静寂のお陰で聴力を失ったんだと思ってた。
寂しくて哀しくて身体はガタガタ震えていて、私はそのか弱い身体まで失うわけにはいかないと、蹲って自身を抱きしめていた。一瞬先には自分自身が消失しちゃうんじゃないかと怖くて泣き続けていた。
──
《何か》に向かって走りだすと次第にその正体が見えてきた。私は泣き顔のままだったけど、涙の属性が喜びに変化した。
《髪の色》は異なっているけど《何か》はやっぱり大好きな人だったのだ。
「お姉ちゃんっ!」
眩しい光に包まれている少女は大きく両腕を広げて微笑んでいた。私は早く抱きしめられたくて更に脚を速めようとしたが、突如右頬に衝撃が走ってその場で転倒してしまった。
何が起こったのか判らず衝撃を受けた方を見るが、真っ暗で何も見えない…………しかしその闇の中から声が投げかけられた。
「お前みたいな嘘つきが近よるなっ! お前みたいな汚れた奴が近よるなっ!」
驚愕した…………闇の声の主は誰にも悟られた事のない自分のしている事を知っている。
声の主は敵だと直感したが、今はそれどころじゃない。大好きなあの人が消えてしまう!
「うるさい黙れっ!!」
怒りを込めて力一杯怒鳴るっ、誰だか知らないけど私の邪魔をするな!!
*
ベッドから上半身を起こすと目の前は見慣れた壁だった。
パジャマと下着が濡れているのを感じてドキッとする。慌てて身体を見回すとバケツで水をかぶったみたいに大量の汗をかいていてた。
「うそ………………なに今の……も、もしかして夢なの?」
信じられない経験してしまった…………。するとアリスが反応してきた。
(夢⁉︎ 本当ですか雪乃?)
どうやら彼女にも信じられない事だったようで声に興奮の色が見える、こんな彼女はとても珍しい。
(うん、見ちゃった……初めて見ちゃった……アリス、貴方は夢を見たことあるの?)
(知っての通り私達王器も睡眠をとりますが経験はありません。私達がそのようなものを見れるだなんて考えたこともありませんでした)
(内容見た?)
(残念ですが見ていません……しかし貴方が夢を見るなんて……)
アリスの声は普段の冷たいものに戻っていた。何だか禄でもない事を言い出しそうな気がする……
(貴方、マリアと出逢ってからマスターへの忠誠心が薄れているのではないのですか? まさかとは思いますが裏切る事を考えているのでは無いでしょうね?)
やっぱりだっ! なんてこと言い出すんだこの子はっ!
「そんなことはないっ! 突然なに言うのよっ!」
(声を出すのはおやめなさい。恐れなくても別に今すぐ貴方を消したりはしません。ただマリアと出会ってからというもの貴方もマスターも変わってきています。夢を見たのは彼女の影響だと考えられます)
す、鋭いっ、これは内容を絶対に教えてはダメだっ、お姉ちゃんに迷惑がかかるかもしれないっ!
(だ、だからってゆきちゃんを裏切るなんて考えすぎだよっ!)
(そうでしょうか? 夢は深層心理を映し出すものだと聞いた事があります……貴方は以前マリアの存在を求めていました。どんな内容の夢を見たのかは知りませんが、存在理由であるマスターが不在だったのであれば、それが現在の貴方の心だと考えられますので強く警告しておきます。今後裏切る素振りを見せたら貴方の目の前でマリアを殺しますので肝に命じなさい)
最悪だ………………。だいたい彩音を求めていたのが以前だけだと思っているのはアリスだけだ。私はずっと求めてきた…………彼女に会うために今まで頑張ってきたんだっ!
(お、お姉ちゃんは関係ないじゃないっ!)
(……どうやらマスターが不在の夢だったようですね…………)
しまったっ、試されたっ⁉︎
まるで心臓を鷲掴みされたみたいに呼吸が出来なくなった! 恐怖で声も出せなくて手足をバタつかせていると、乱暴にドアが開いて母が部屋に入ってきた。
「どうしたの雪乃っ!」
母の怒鳴るような大声から逃げるようにアリスの気配が薄れていった。
呼吸が出来るようになった私は出来るだけ多くの空気を吸い込み、呼吸を整えることに専念する。その間に勢いよくベッドに乗ってきた母は私をギュウっと抱きめて背中を撫でてくれた。
呼吸が整い、身体の震えが治まっていく…………助かった…………
──
私達親娘に血の繋がりはないが、母:朝霧梓は未だにその申告をしてくれない。それどころか私を本当の子供として愛してくれている。
私だって彼女の事は愛してる。アリスは以前、彼女は私を道具として育ててると言っていたけど、そんな事は無い。アリスには彼女のくれる安心感が分からないんだ。
──
「アリスにまた虐められたの? 大丈夫? 何もされてない?」
「うん大丈夫だよ。ごめんね心配ばかりかけて」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないの、私は貴方の母親よ? 貴方に何かあったら私はアリスを許さないわっ」
「ありがとうお母さん。でも冗談でもそんな事言っちゃ駄目だよ? アリスもお母さんの子供でしょ?」
「いいのよ、あの子はいっつも私から逃げるんだから……。この間だって貴方気絶させられたでしょ? そろそろちゃんとお母さんが怒ると怖いんだって分からせてあげないと駄目なのよっ」
(だってさ、アリス…………)
(……………………………………)
アリスは梓に絶対に歯向かわない。それは彼女が雪の実の母親だからなのだろうが、私は結構アリスも梓の子供という立場が気に入っているんじゃないか? と考えている。何故ならプライドの高い彼女は基本的に雪の言うことしか聞かないし、社会の事なんてどうでもいいと考えているクセに、梓が私に良い事や悪い事を教えてくれる際、真剣に耳を傾けているのが分かるからだ。
しかし梓は知らない……自分が雪の人形になるという契約をアリスと結んでいる事を、自分が人としての人生を諦めてしまっていることを……。
朝食を食べ終わりランドセルを背負って家を出る。そしていつものように隣の家の前に立ち、彼が以前ひまわりのように可愛いと言ってくれた笑顔の練習をする。私はよく笑う方だが、彼の前で笑う時はこの笑顔と決めているのでこうやって練習するのが日課となっている。
暫くすると玄関から幼馴染の黒磯雪が出てきた。私はすかさず彼に抱きついて最高の笑顔を作る。
「おはようゆきちゃんっ!」
「おはよう雪乃、今日も元気だな?」
「うんっ!」
彼はいつものように優しく笑って頭を撫でてくれた。
大丈夫……今日も私は彼のお気に入りだ……
*
──
雪の人形として生きていくとアリスと契約してからもうすぐ二年になる。
彼女は三年生の時の誕生日に突然話し掛けてきた。混乱した私は彼女に怯え、とてもすぐには受け入れる事など出来なかったが、その後何日も話し掛けられて結局存在を認めることとなった……彼女を認めてから暫くは意外にも結構楽しかった。特に雪の話をしている時の彼女はいつも興味を示していて、彼がなんでその時そういう行動をとったのか? とか、その時私はどうしてそう思ったのか? などとよく尋ねてきていた。
しかしそんな友達みたいな関係はある日を境に壊れてしまった……彼女が突然「マスターの人形になってほしい」と言ってきたのだ。
私は彼女が何を言っているのかわからずに理由を求めると彼女は私が知りたくないことを色々教えてくれた。
彼女が教えてくれたこととは……《アリスが王器という雪の為だけの力だという事》《雪の母親は梓で二人は実験体と呼ばれ、管理局に拘束されていた事》《私は梓の本当の子供ではなく、雪の為にアリスによって生み出された彼女がいつでも殺せるようなちっぽけな存在だという事》だった。親切なことに話の途中でアリスは身体の制御を奪ったり、赤髪になったりして見せて、幼い私でも自身がバケモノだという実感を持たせてくれた。
しかし、ショックな内容ばかりだった為、その場で理解しきる事が出来なくて、拒否も了承もしないで時間を貰った。
そして何日か考えているうちに人形も悪くないと思い始めた。アリスは人形になれば彼が死ぬまで私を殺さずに一緒にいさせてくれると言ったのだ。もっともそれには条件があって、人形になる以上彼を裏切ることも悲しませることも許されないし、彼が私の存在を不要と考えたら殺されるという事だった。
彼は昔から私をお嫁さんにすると言ってくれていたし、私も将来彼と結婚するものだと思っていた。彼を悲しませたり裏切るなんてありえないと思った私はアリスの気分で殺される可能性があるくらいなら良い条件だと考えてしまったのだ。
良いことばかり考えた私は人形の意味を理解できずに了承してしまった。アリスは喜び、今後は自分の身は自分で守るようにと赤髪の力と人の心を読み取る力というバケモノの私に見合った二つの力をくれた。
赤髪の力は身体が信じられないくらい頑丈になり、力も常に漲っていて本気で殴れば何でも壊せるんじゃないか? と錯覚してしまいそうなほど凄いものだった。
また、心を読み取る力は言葉通り相手の記憶や思っていることが覗けるのだが、同時に相手の感情も受け取ってしまう為、強すぎる感情だと自分がおかしくなりそうになるという使えそうで使えない危険なものだった。
そして最後に彼女は過去の欠落した記憶を返してくれた。
私はそれまで記憶が取られていた自覚が無くてショックを受けた。それらはアリスが赤髪になって暴れたり周囲の人を威嚇しているものばかりだったのだ。
みんなが私を恐がったり、審判の天使などと意味のわからない名前で呼んでいたのは私の目の色がみんなと違うからではなく、全てアリスのせいだった。
全てを知った私は当然抗議をした。だけど契約とは簡単に取り消せるようなものではないと厳しく言われ、諦めて今後は無闇に表に出ないとアリスに約束して貰った。
哀しかったが過去の出来事は自分のしでかした事として受け入れた。身体がしてしまったことを知らんぷりなんて私には出来ないのだ。
──
(本当に馬鹿だったな私……)
──
契約を結んだ後、試しに使った《心を読み取る力》が原因で雪を信じられなくなってしまった………………
私は雪が大好きだった。彼が私を裏切るだなんて思ったことも無かった。
《彼が大好きな私》を演じるようになると、彼を面倒くさいと思ったり、彼が悲しむような事を考えたりするようになった。…………視点が変わったせいに違いないが、今まで完璧だと思っていた雪には沢山欠点があったのだ。
そんな私にアリスは怒り、言い分なんて聞きもせずに体罰を与えた。
彼女の罰は恐ろしい…………
・まずは身体を乗っ取って私を閉じ込める。
・次に身体を痛めつけるだけ痛めつける。もちろん私にシッカリ見せるのは忘れない。
・最後にボロボロになった身体を返す。
渡された身体が蓄積してる痛みは我慢できるとか、そんな次元じゃない。どこが痛いとか認識する前に頭がビリッとして意識が飛んでしまう。…………あの脳をバラバラにされるような感覚は恐ろしい、目の前で身体を痛めつけられて、来るのが分かっているのにまったく防ぎようがないのだ。
あんなのしょっ中受けていたら、私はおかしくなってしまう。アリスにもそれは分かっているようで、罰には強弱があった…………まあ、弱は気が失えなくて痛みに耐えなければいけないから、泣き叫ぶ事になる。
アリスはいつでも私を殺せる。だけど、死ぬわけにはいかなかった。返して貰った一年生の記憶との約束を守る為に…………
半年くらい前、心に《殻》を作る事に成功した。これは密封された箱の中に入っている自分をイメージしながら物事を考えるといった単純なものだったが効果は絶大で、この中で考えた事はアリスには絶対に漏れなかった。
しかし殻を保ちながら雪の人形を演じるのはとても大変で、少しでも気を抜くとすぐに壊れてしまった。当然そうなれば最悪な事態となる…………隠していた思考はすぐには消えない。即座にアリスに気付かれて体罰を受けた。
殻は私を誰にも縛られない人にしてくれる。だから殻を強固なものにしようと日々頑張っている。そして最近、殻を利用した新たな力を思いついた。
もう少し、もう少しでコツが掴める……。使いこなすことが出来れば殻は絶対に壊れないし、アリスだって怖くない。
──
*
校門に着くと雪が先を見つめて足を止めた。理由はすぐに分かって同じく足を止める。
視線の先では甘栗色の少女が更に前を歩く女子達の後ろを落ち着かない様子で歩いていた。女子達は楽しそうに話しをしていて少女には気付いていないようだが、少女は明らかに女子達を意識している。
「ねえ、ゆきちゃん。彩音ちゃん何やってるんだと思う?」
「さあ? 僕に人の考えている事なんて判らないよ」
そっけない返事をする雪だが、彼の視線は彩音から離れない。彼は彼女が気になってしょうがないようだったが、余計な事は何も言わない。
──
雪は私の能力を知っていて、私がいつも彼の心を覗いていると思っている。だけど私は過去に数回しか覗いていない。その数回だって必要に駆られたからで、本意で覗いたのは一度だけだ。
《自分を裏切り傷付けた人の心なんて知りたくもない》
──
女子達と彩音は結局接することも無く校舎に入ってしまい、自分達も歩き始める。雪は無関心を決め込むつもりらしいが、私としては彩音の行動が気になってしょうがないので教室に入ったらすぐに聞きに行こうと思った。
──
笹森彩音。彼女と出逢ったのは一ヶ月前、このD小に初めて来た日だ。
私はその時、トイレに行ってしまった雪と一時でも離れる辛さを表現する為に嘘泣きをしていた。そうすれば周囲の生徒達が雪にその事を伝え、彼は私を普段以上に大事にしてくれるのだ。
ところがこの日、私は彼女の腕に包まれた…………
想定外の出来事にびっくりしたが、すぐに顔を上げることが出来なかった……突然自分の意思とは関係なく本当の涙が溢れ出てきて、どうしいいのか分からなくなってしまったのだ。
彼女は雪や彼の父:幹彦と同じように心底安心出来る味方のような存在感を持っていた。それだけで充分特別な存在だと思ったが、涙の原因は違っていた。
彼女の抱擁は梓のそれとは全く異質でとんでもないものだった。心と身体がポカポカと暖かくなるだけじゃなく、《殻》を使ってもいないのにアリスに監視されている緊張感が薄らいでいくのを実感したのだ。
いつも縛られていて重かった心が軽くなったように感じた私はアリスの拘束から解放されたんじゃないか? と錯覚し、その感情が瞳から溢れ出てしまったのだ。
**
(マリアが何故此処に………………余計なことを……)
アリスが知ってる人? …………………………ってうそっ⁉︎ こ、この人もしかしてっ!
一年生の記憶との約束の一つ……《私を理解してくれる人に絶対に会う》。
直感したっ‼︎ 今、自分の目的が目の前に現れたのだ!
予想だにしなかった出来事にドキドキする胸は治まりそうもなく、飛び出さないように手で押さえながら、私は顔を上げた。
抱きしめられた時の比じゃない…………その圧倒的な存在感に心が震えた………………
彼女が発する色は自分を包み込むほど膨大で、容姿だって凄かった。優しく自分を見つめる切れ長の瞼に収まる琥珀色の瞳も、濃い赤茶色の眉や長い髪も、柔らかく綺麗な半月を作っている薄い唇も、全てが美しい人だった。
信じられないけど間違いない。この人は他の人達とは違う…………違い過ぎる…………
私はこの時、できる限り厚い殻を作って強く願った…………この人と一緒にいたい、この人に大事にされたい。と…………
王器は主を選ぶ。──アリスが当時一歳の雪を選んだのはこういう事だったのかもしれない。自分が王器だというのなら、誰かの為の道具だというのなら、私の主はきっとこの人だ。
(ア、アリス? この人誰なの?)
変に興味を示すとアリスに勘ぐられる危険はあったが彼女は嘘をつけない。有益な情報が手に入る筈だ。
(彼女はマリアです。マスター同様に私達の孫のようなものですね)
アリスは警戒しなかった。これなら普通に質問しても大丈夫だ。
(え? じゃ、じゃあ他人じゃないの?)
(はい。私達と同じ細胞組織を持っています……しかし、不可解です。彼女は収容所に居る筈なのに何故此処に居るのかが判りません)
そんな事はどうでもいいっ、本当にいたんだ。この人に大事にされたい……この腕にいつまでも包まれていたいよ……。
アリスはマスターがどうのこうのと何か言っていたが、全て適当に答えた。だってそれらは全部どうでも良いことで、私にとって何よりも大事だったのはこの瞬間、生きる目的が新たに追加された事だった…………
──
*
──教室。
自席にランドセルを置いて、雪に声をかけてから彩音の席へ向かった。
アリスは雪の友達と仲良くするのを許してくれているが、彼女は結構気分屋で突然怒り出すことがある。だから刺激しない為に離れる時には一言伝えてから行動するようにしている。
「おはよう彩音ちゃんっ」
「おはようございます雪乃、今日も元気ですね?」
彩音はニコっと笑みを見せてくれたが、すぐに残念そうな表情をして小さな溜息を吐いた。きっと校門での事だと思って尋ねてみる。
「ねえ、さっき女子達の後ろを歩いてたよね? 彼女達に用があったんじゃないの?」
「ええ、実は彼女達の一人が転んで膝を擦り剥いていたんです。その子は笑っていましたが、私は心配で持っていた絆創膏を渡そうとしたのですが………………声を掛けられませんでした」
(うん、今日もお姉ちゃんは優しいな。でもその子勿体無いな~、私だったら泣いて喜んじゃうよ)
「そっか~、残念だったね。声を掛けようとしたっていう事はその子って彩音ちゃんを虐めなかった子なんでしょ? きっと絆創膏渡したら喜んでくれたと思うよ?」
「ん~、そうでも無いですね……彼女には毎朝、挨拶だとお尻を蹴られました」
彩音は恥ずかしそうに笑いながら話してくれるが、私の心境は穏やかでは無くなった。
(は? そんな子に声を掛けようとしたのっ?)
「そんな子放っておきなよっ、罰が当たったんだっ!」
「駄目です! そんな事を思ってはいけません。怪我をすれば誰だって痛いでしょう? 私はそんなの見ていられません」
彩音にキっと睨まれたじろいた。(怒られた? 私の考え方おかしいのかな?)
「で、でもさ……その子彩音ちゃんを蹴ったんでしょ? 彩音ちゃんはその子の事なんとも思ってないの?」
「確かに悲しい想いはしましたから、思うことはありますよ。でも全て終わった事なんです。私はみんなと仲良くしたいですし、彼女も桜井さんみたいにいい人かも知れないじゃないですか?」
彩音が虐められなくなって一ヶ月ちょっとだが、自分だったらこんな短期間でそんな相手に優しくしようなんて思えない。これはこの人の強さなのかも知れない。
「彩音おっはよ~」
ショートポニーの友達が彩音に後ろから抱きついた。──アリスや雪の手前、我慢して手を繋ぐ程度に留めているのに拷問みたいな事をする子だ。………………羨ましい。
「明菜ちゃんやりすぎだよっ、彩音ちゃんだってビックリするし恐がるよっ」
「えっ? 本当彩音? 嫌だった?」
明菜の元気いっぱいの笑顔が一気に曇る、ここで彩音がコクリと頷けば彼女は今日一日立ち直れない筈だ。と、もっとも付き合いの長い友達を千尋の谷から突き落としてみようとした。元気な明菜も大好きだが、凹んだ彼女も中々可愛いくて私は好きなのだ。
「駄目ですよ雪乃。明菜を虐めてはいけないわ……明菜も気にしないで? 貴方の挨拶は私に元気をくれるんです。嫌どころかとっても嬉しいんですよ?」
彩音の笑顔から《本当に嬉しい》という気持ちが伝わってきて、明菜はパアっと更に元気な笑顔になった。
(なんか今朝は怒られてばっかりだ……悲しくなってきた……)
残念ながらこのターンは自分の完全敗北に終わった事を悟り、自席に戻ろうと肩を落として彼女達に背中を向けた。すると彩音に「あ、待ってください雪乃」と呼び止められ、彼女に後ろから包み込まれた。
「雪乃? どうして悲しい顔をしたのか判りませんが、元気を出してください。私は貴方の笑顔が大好きなんですよ?」
「本当? 私のこと嫌いになってない?」
「はい、私は貴方に嘘はつきません。大好きですよ、雪乃」
思わず泣きそうになってしまう……。本当だったらこの場で振り返って彼女に抱きつきたい。でも、それはきっとやり過ぎだ。アリスが反応するかもしれない……。
「ありがとうね彩音ちゃん。私悲んでなんて無いよ? とっても元気だよ」
振り返って笑顔を作った。当然彼女に見せるのは毎朝練習してる雪お気に入りの笑顔だ。
*
授業と授業の合間の休み時間は大抵自席から彩音の様子を見ている。
虐めがなくなった当初はA小の女子だけが話し掛けていたが、最近はD小の女子も結構話し掛けていて彩音はとても嬉しそうだった。彼女はかなり頭が良くて女子達に授業で分からなかった事などを丁寧に教えたりしている。自分はいつも雪に教えて貰うので彼女に聞きに行ったりはしないが、話を聞いているとかなり教え方も上手だった。
「笹森良かったな、みんなと仲良くしてるじゃないか」
雪が彼女を見て嬉しそうに笑っていた。彼女が彼のお気に入りである以上、自分は彼女と仲良くしていられる。
「うんっ、でも彩音ちゃんって凄いよね? 酷い事されてたのに誰にでも優しいし、いつも嬉しそうに笑ってるもん」
「……バケモノ……か…………」
彩音を見ながらそれを言った雪の表情は悲しそうだった。私は彼の手をギュッと握りしめて、静かに話し掛けた。
「認めている彩音ちゃんが羨ましいの?」
「いや、違うよ。笹森は凄いんだって…………多分尊敬してるんだと思う」
「そっか……」
これ以上は言うのをやめよう、きっと内心は落ち込んでいるような気がする。
*
昼休みになり、彩音は明菜を含めた数人の女子達と席をくっつけて楽しそうにお弁当を食べていた。因みに私は彼女達をチラチラ見ながら雪とお弁当を食べている。
「笹森達と一緒に食べてもいいんだぞ?」
不意にそんな事を言われ、一瞬ドキっとしたが動揺しないように気持ちを殻に封じ込める。
「何を言っているの? ゆきちゃんとの大事な食事時間を削るなんて嫌だよ……それとも、私と食べるの飽きちゃった?」
いつもの元気な笑顔ではなく、ニコっと優しさを意識した笑顔を作ってみせると彼も優しく微笑みを返してくれた。
「そんな事は無いんだけどさ、笹森と知り合ってからお前、僕がいなくても女子同士で楽しそうに話をするようになっただろ? 結構それ見てるの好きなんだよ。だから行きたければ行けば良いのにって思ったんだ」
なんだろうこの選択肢……彼の言葉を信じても良いのだろうか?
(アリス、貴方はどう思う?)
(マスターがそれを見たいと仰るのならば仲の良い演技を見せるのも良いでしょう。しかし、あまりマリアに夢中になり過ぎてマスターに寂しい思いをさせてはいけません)
想定はしていたが、それは結構難しい……徐々に慣れていくしかないな……。
「ありがとう、ゆきちゃん。今度から偶に彩音ちゃんともご飯食べるよ。でも、あまりそう言う事言わないでね? 私はゆきちゃんの側に居るのが一番なんだよ?」
「ああ、分かってる」
最高の言葉を贈ったつもりだったが雪はあまり嬉しそうじゃなかった。もしかしたら彼はこの手の言葉に慣れちゃったのかも知れない。
「ゆきちゃん、ちょっといいか?」
少し気分が重くなった処で康太が彼に話し掛けてきた。明菜は彼が空気の読めない人だとよく言っているが、このタイミングでの登場はなかなかありがたい。
「今日の放課後、久しぶりにキックベースやろうかと思ってんだけど一緒にやらないか?」
(あうう……康太君の馬鹿っ、ゆきちゃん絶対機嫌悪くなるじゃないっ!)
親友の彼が嫌がらせをしにきたとは思わないが、本当にやめて欲しかった……案の定雪の表情は暗くなり、元気の無い笑みを康太に向ける。
「……僕はいいよ」
「ほら、だからやめろって言っただろ? 黒磯ぜってーやらねーって」
自分達を少し離れた所から見ていた男子と女子のグループから男子の一人が口を挿んできた。すると他の生徒達も口を開く。
「大体こいつが放課後俺達と遊ぶかよ。そんな付き合いのいい奴じゃないの康太が一番知ってんじゃん」
「え~、でもゆき君いたら私嬉しいんだけどな~、ねえ? 本当にやらない?」
「やめとけって、笹森さん助けた時のこいつはおかしかったんだよ。またいつもの根暗に戻っちまったんだから、楽しくね~って」
…………………………
(みんなはゆきちゃんが本当は明るくて格好良いって事を知らない。本当は遊びたくて仕方がないのにそんな酷いことばかり言わないでよ……)
雪はいつものように弱々しく愛想笑いを浮かべていた。私はそんな彼が大嫌いだ。アリスはいつも黙っているが、本当に何も思っていないのだろうか? 自分の主が人に合わせて我慢してるのを見て何とも思わないのだろうか?
──
雪は持ち前の容姿の良さで女子に人気があるが、基本それだけなので男子からはあまり評判が良く無い。
学校での彼は特定の友達以外と接しようとはせず、勉強も運動も中の上をキープし続ける暗い人なのだ。もっとも審判の天使である自分を制御する鍵であり、みんなからの人望がある康太の親友と言う事で一目置かれているが、彼自身に人を魅了するものは外見以外全くと言って良いほど無い。
しかしそれは学校内だけの話であって、本当の彼は信じられないくらい頭が良いし、運動神経だって抜群だ。性格だって明るいし、優しいと思う。
彼は今回のように誘われるとすぐに断るが、実はかなり悔しがっている。家に帰っても機嫌が悪くて自分ともあまり話をしてくれなくなるのだ。
──
「まあ、みんなそう言うなよ。俺はゆきちゃんと遊びたかったから誘ったんだ」
「でもさー、誘ったっていっつも断るじゃん、黒磯は朝霧いればいいんだよ」
康太がフォローしてくれるがみんなの反応は良くない。でも決して雪が嫌と言う事でも無さそうで、単に誘って断られるのが嫌のように感じる。
「あ、あの……。私とゆきちゃんで見学しててもいい?」
「雪乃?」
ちょっと強引だがこれは雪にとって良い事なんだと思い切って言ったら、みんなは勿論、雪まで目を丸くした。アリスも自分の考えに同意してくれたようで沈黙を保っている。
「見学? 二人で?」
康太も驚いていた。それはそうだろう、彼との付き合いも長いが自分からこんな事を言い出したのは始めてた。
「うん、どうせ彩音ちゃんも誘うんでしょ? 私もみんなが遊んでるところ見たいし……駄目?」
不安気に眉を少し寄せて瞳を潤ませる、そして口をキュっと閉めて上目遣いをしながら首を傾げる……。
雪に一〇〇%通用する業を他人に披露するのは初めてでかなり恥ずかしかったが、真っ赤になった康太を見て成功したと確信した。
「も、勿論大歓迎だよっ……。なあみんなっ、文句ないよなっ!」
みんなは康太を半目で見ながらも頷いてくれた。「雪乃……恐ろしい子……」と明菜の声が聞こえたような気がしたが多分気のせいだ。
康太はその後彩音の席に向かった。彩音は今の自分達のやりとりを見ていたようで、此方に顔を向けたままキョトンとしている。
「彩音ちゃん、放課後時間ある? みんなでキックベースやらない?」
「キ、キックベースって何ですか?」
「そっか知らないんだ。じゃあさ、野球は知ってる?」
「は、はい、それくらいなら」
「キックベースはね、野球みたいなゲームなんだけど、ドッチボールとかサッカーボールみたいに大きいボールを使うんだよ」
「ふむふむ」
「ピッチャーがボールを転がして、キッカーが思いっきり蹴るゲームなんだ、結構スカッとすると思うよ」
説明を聞いていた彩音は目を輝かせながら両手を胸の前で握り締めていて、とても可愛かった。
「実はスカッとするのはもう一つあるんだ」
康太はそんな彩音を見ながら楽しそうに笑って補足を付け足す。
「蹴られたボールを拾ったら塁の間を走ってる走者に当てられるんだ。これがまたスカッとするんだよな~」
「まぁ、前回私にさんざん当てられて、涙目になってたのは誰でしたっけ?」
彩音と食事と共にしていた明菜がニヤニヤと笑みを浮かべて康太に話し掛けた。すると彼はムキになって明菜を睨みつける。
「馬鹿だな明菜、あの屈辱があるから俺は燃えに燃えてるんだよっ、お前とは絶対別のチームにだからなっ」
(な、なんか二人の周りの温度がどんどん上がってきてる……。お姉ちゃんが怯え始めちゃったよ……)
「あ、あの……本当に楽しいんですよね?」
かなり不安になったようで彩音が質問すると、康太と明菜は揃って「「大丈夫っ、絶対楽しいっ!」」と怒鳴るように返事をした。彩音はその迫力に押され、それ以上不安を口にはしなかった。
「きょ、今日は大丈夫です。お父さんにもお母さんにも何も言われてませんし……」
「じゃあ、彩音ちゃんも参加だね。……喜べみんな~、彩音ちゃんと遊べるぞ~」
康太が参加者に聞こえるように言うと、「おっけー」「やった~」「お、俺も参加する!」「私も私も~」……と、A小の生徒ばかりだったが次々に返事が返ってきた。
「明菜は当然参加で、雪乃ちゃんとゆきちゃんは見学っと……」
「当然じゃない、彩音が遊ぶときは絶対私も一緒なんだから!」
明菜が嬉しそうに笑いながら彩音に抱きついた。(意味も無くそんな事をするのはどうなんだろう? お姉ちゃんが減ったら困るんだけど……)
機嫌を悪くさせたかと思って不安そうに雪の顔色を窺うと彼は意外にも嬉しそうに笑っていた。
「ごめんねゆきちゃん……。私勝手な事しちゃったよね?」
「ああ、でも遊びに見学なんて考えた事も無かったよ。これなら僕も安心だ。ありがとうな雪乃」
彼は笑顔のまま頭を撫でてくれた。彼の為だと怒られる事を覚悟しての行動だったが、こんなに喜んでくれるとは思いもしなかった。
「……あ、あの……わ、私も参加していいかな……」
彩音達にD小の女子が声を掛けるのを聞いて、驚いた私は雪から視線を外してその女子を見た。
声の主は桜井智子だった。彼女は康太の背後にいつのまにか立っていて、肩を小さくしてモジモジしている。
「ああ、これから声かけようと思ってたんだ。勿論OKだよっ、なぁ明菜?」
「え、ええ勿論よ桜井さん………………あ~面倒くさいっ! いつまでもそんなにビクついてんじゃないわよっ! 貴方の事今から智子って呼ぶからね? 私の事も明菜って呼びなさいっ、分かったわね智子っ!」
明菜は智子にビシッと指を指した。あの子は昔から気が短い、そんな友達のなり方は変だと思う。
「え、ええ、分かったわ、明菜……」
一瞬ビクッと震えた智子だったが、明菜に頷いた。どうやら彼女も明菜のことが嫌いじゃないようだ……もしかしたら相性がいいのかな?
「ちょうどいいからさ……今から彩音とも名前で呼び合いなよ。ここでやっておかないと中々機会ないよ?」
「…………」「ええっ!」
突然の明菜の提案に智子は彼女を驚いたように見つめ、彩音は驚きの声を上げて席を立ち上がった。
(うわ~、明菜ちゃんも凄い事するな……お姉ちゃん泣きそうになっちゃってるよ……)
彩音は目をうるうるさせて小刻みに震えていた。いくら彼女が強いといってもこれはかなりキツい、相手は四年間彼女を虐め抜いてきた猛者なのだ。それに智子だって簡単にそこまで変われる訳が無い、これは完全に明菜の失敗だ。
「あ、ありがとう明菜。もし、それが出来れば私嬉しいよ。いいかな彩音?」
(ええええええええっ! さ、桜井さんだよね? あの人……わ、私、言葉聞き間違いしたのかな? う、嬉しいって聞こえたよ?)
智子の信じられない発言にビックリしたが、彩音も同じことを感じたようで後ずさった。
「な~に怯えてんのよこの子は……貴方は鏡を持ち歩きなさい。折角の顔が台無しだよ…………ほら、これは智子と友達になる為の始めの一歩だよ」
明菜は動揺している彩音に優しく話し掛けた。すると彩音は下唇を嚙んで眉を吊り上げる……恐らく彼女は頑張ろうと気合いを入れたんだと思うが、どう見ても怒っているようにしか見えなかった。
(それにしても《始めの一歩》か……。以前アリスとお姉ちゃんも言ってたけど、いいなこの言葉。私好きだな……)
「と、智子……でいいですか?」
遂に彩音が彼女の名前を口にして、明菜が彼女を抱きしめる。──私は明菜を睨みつけるが彼女はまったく気がつかない、彩音の一歩が嬉しかったのは私だって一緒なんだ。
(明菜ちゃんばかりズルいっ! 絶対にバチを当ててやるっ!)
「ごうか―く! 今ので契約完了。良かったね智子っ」
「ええ、よろしくね彩音。本当にありがとう明菜……私も始めの一歩、踏めたかな?」
「ああ、バッチリだ。良かったな桜井、これから頑張ろうな?」
涙を浮べる智子の質問には康太が笑顔で答えた。相変わらず面倒見の良い人だ。
ちょっと信じられないが智子は自身を作っていない。どうやら桜井智子という人物は私の想像以上に変わったらしい。
「あ~、何で突然こんな空気になってんのか意味判んないんだけど、私達D小も参加するからねっ!」
小学生らしくない二人の世界を壊したのは意外な人物だった…………森田遼子。以前彩音の代わりに智子を虐めようとしていた女子だ。
「遼子? 貴方も参加するの?」
「あったりまえでしょ? いつまで馬鹿言ってんのよ智子、もうけじめはつけたでしょ? 貴方はD小の頭なんだ。貴方が参加って事は私らも参加なんだよ!」
智子は「あ、頭? いつまでもそんな恥ずかしいこと言ってんじゃないわよっ」と驚くが、鼻息を荒くする遼子は当然とばかりに腕を組んで胸を張っていた。そして彼女の背後に小金原香を含むD小の男女が集い始める。
「鈴白っ! 貴方に空けられた脇腹の穴ぼこまだ完治してないけど、これはリベンジだっ! D小対A小って事でいいよなっ!」
香が明菜にビシっと指差して怒鳴りつけると、明菜も嬉しそうにニヤニヤと笑う。──明菜は売られた喧嘩は絶対に買う。今の彼女の頭の中に遊びと言う文字は殆ど消えてしまっているだろう。
「ぶわぁーか、何回やっても同じだよ。返り討ちにしてやるよっ」
「馬鹿はお前だよ鈴白っ、笹森はD小だよ? お前の敵になるんだよっ!」
遼子の一言に明菜は固まった。あ~あ……完全に乗せられてちゃって酷くショックを受けてる。可哀想な明菜……。
「ま。まあ喧嘩は止めようぜ? 折角遊ぶんだから対決なんかしなくてもいいじゃないか」
さすがみんなを纏める康太だ。ちゃんと当初の目的を失っていない。
「まあ、多めに見てくれよ杉崎。これは森田や俺達D小のみんなが笹森と友達になる為のきっかけなんだ。俺達も気まずくて笹森に話し掛けられなかったんだよ」
言ってきたのはD小の佐々木圭吾だった。顔は量産型だが結構身体つきはしっかりしていて、日頃鍛えているA小の男子に見劣りしない。代表っぽい発言を聞く限り、さしずめD小の康太といったところだろうか……。
「しょうがないなぁ……じゃあ今回だけな? 俺達だって彩音ちゃんと同じチームになりたかったんだからな?」
康太の発言でA小の生徒達からブーイングが起こった。中でも一番酷い罵声を上げていたのは明菜だった。
*
──放課後
グラウンドの中央にクラスの生徒が全員が揃った。放課後のグラウンド使用は自由だから、大抵いろんな学年の生徒達が入り乱れているのに、今日は誰も遊んでいない。というより他の生徒達は自分達の邪魔にならないようにギャラリーとなったのだ…………なんかA小とD小の代表戦みたいになっちゃった。
私と雪は他の生徒達と同じ様に隅へ移動して腰を下ろした。今日は彩音の放課後デビューだ。まるで自分の事の様にドキドキする。
試合はA小の攻撃から始まった。彩音には申し訳ないけど私の予想ではA小の圧勝だ。私の……と言うかアリスのせいで彼等は全員身体を鍛えている。とてもD小に相手が務まるとは思えない。
「えっ?」
D小の采配に驚くしか無かった。なんと彼等は彩音をピッチャーにしてきた。
「ね、ねえゆきちゃん……。彩音ちゃん力加減するよね? まさか本気なんて出さないよね?」
彩音は雪と同じで力が普通じゃない、本気なんて出したら全員病院送りになってしまう。
「そ、そりゃするだろう? 僕は彼女の力を見てないけど、かなりとんでもないってみんな言ってるもんな」
(あれ? 殴られたの忘れちゃったのかな? それとも無かった事にでもしようとしてるのかな?)
(後者でしょう。意図は分かりませんが、これだけ退屈な日々を送っていて、あのインパクトは強烈でした。忘れていたらマスターの頭が心配です)
(だよねぇ…………まあ、それならそっとしておこう)
雪は男の子だ。女の子にぶっ飛ばされれば恥ずかしいよね…………
それにしても不安でしょうがない……今まで周囲と遊んだ事のない彼女が手加減なんて器用な真似が出来るのだろうか…………
その答えはたった一球で判った……。彩音はボールを下手投げで転がそうとしたが、ボールは地面に何度かバウンドして正面に立っていたA小のキッカーを見事に倒してしまったのだ。
周囲は固まったが、いち早く動いた彩音は悲鳴を上げて倒れた生徒に近寄ると、彼を抱きしめて何度も謝った。
この時点で彩音にピッチャーは無理だとみんなは言い始めるが、しょんぼりする彩音を見かねた智子がなにやら彩音に助言をし、ピッチャー継続のまま試合を再開させた。
二球目の彼女の玉は見事に転がり速度も遅いくらいだった。キッカーも問題なくボールを蹴って周囲から歓声があがる。
智子に感心した。いったいどんなアドバイスであんなに自然な力加減をさせたのだろう?
だけど周囲の歓声は一瞬で消えた…………蹴られたボールは勢いよく三塁に向かって転がり、一塁打は確実だった筈なのに、彩音がそれに追いついて右手だけでキャッチしたのだ。
今回使用してるのはサッカーボールで、蹴られた速度はとてもピッチャーのポジションから追いつけるものじゃなかった。それに追いつき片手でキャッチなんてとんでもない事だ。
彩音は両手でボールを掴み直す事もせずにそのまま一塁にいる智子に向かって投げた。それを見た私は驚いて「えっ⁉︎」と声をあげたが、同時に雪が「まずいっ!」と叫ぶ!
彩音は本気でボールを投げていた。私が驚いたのは動作の流れが綺麗だったからじゃない。それを見て智子の病院送りが確定したと思ったからだ。
だけどここでまた、信じられないものを目撃してしまった。
智子は素早く脚を高々と上げると、手前まで迫ったボールに踵落としを決めて地面に叩きつけた。そしてバウンドしたボールを走者に向かって蹴ったのだ。
彩音の投げたボールの勢いは完全に死んでいて、走者は智子の蹴った勢いだけのボールに倒された。走者はそんなにダメージを受けていないようで、すぐに立ち上がると悔しそうに仲間の下に戻っていく。
(ア、アリス……桜井さんって普通の人だよね?)
(何も感じませんから恐らくそうでしょう……。ですが驚くべき身体能力です)
アリスに褒められた人間は三人目だが最初の二人は友達になってくれた明菜と康太だから、身体能力で彼女の目に留まったのは智子が初めてとなる。それにしても彼女は普通じゃない、本物のバケモノとは彼女の事を言うんじゃないのだろうか……。
「な、なあ雪乃……なんでみんな笹森を恐がらないで笑ってるんだ? 目の前であいつの力見てるよな?」
雪は昔から彼女と同じ力を隠してる。みんなに知られれば孤立すると考えていたのだから余程信じらない光景なのだろう。
「そうだね、みんな彩音ちゃんを仲間として見てるよね……D小の子達も今まで彩音ちゃんの力知らなかったのに本当に楽しそうだよね」
見学だけど参加して本当に良かった。彩音はきっと雪も救ってくれる。いつか彼の固い頭を柔らかくしてくれるに違いない。
試合は結構いい感じで進んでいった。A小の攻撃も彩音の頭上を越える作戦で塁に出れるようになり、A小のピッチャーは康太でD小もそこそこ塁には出るが、殆ど二塁を守る明菜に倒されていた。
攻撃時の彩音は明らかに手を抜いていて本気でボールを蹴らなかった。でも蹴って走る彼女は本当に楽しそうで、アウトになってもチームのみんなと嬉しそうに笑い声をあげていた。それにしても……
「キックベースってこんなに点が取りづらいものだったんだね……」
「いや、七回終わって〇対〇なんてキックベースらしくないよ。でもあいつら楽しそうだな……」
そう言った雪は悔しそうだった。でも背中は押さない、これは彼が自分で解決しなければいけない問題だ。
八回に入り、キッカーは康太だった。彩音がボールを転がし彼は勢いよく蹴ったが、三塁線を抜けるかと思われたボールはまたしても彩音にキャッチされた。一塁を守る智子は今までと同じ様にボールを地面に叩きつけて勢いを殺したが、今回はそこから先の行動が違っていた。彼女はバウンドしたボールを抱きしめて康太が走ってくるのを待ったのだ。
康太は智子の蹴るボールを避けようと足を止めて身構えていたが、彼女の様子に怪訝な顔をして警戒しながらも走り出す。
康太が近づいても智子は投げる素振りを見せなかった…………康太は走るのを止めて智子に話しかける。
「どうした? 具合悪いのか?」
「ううん……、あのね、ありがとうね杉崎君……仲間に入れて貰って私とっても楽しいよ。彩音とこんなふうに一緒に遊んでるなんて信じられないよ」
「良かったじゃないか、俺は彩音ちゃんもお前も応援する。お前はいい奴なんだ、今まで悪い夢を見てたんだよ」
残念な事に自分の耳はいい……二人の会話が聞こえてしまい、なんだか悪いことをしている気分になってきた。
智子は康太に歩み寄り、康太はそんな彼女を抱きしめた。康太が何故そんな子供らしくない行動をとったのかは不明だが、二人のとても自然で流れるような動きはドラマみたいで私は少し感動した。
みんなも黙って彼等を見守っていて、少しすると康太が彼女から離れた。そして勢いよく吹き飛んだ………………タイミングを見計らっていたように、彼の背後に走り込んできた明菜に蹴り飛ばされたのだ。
「なに試合中にイチャついてんだテメーはよぉっ! この状況で自分からアウトになる馬鹿が何処にいんだこのボケナスがぁっ!」
青筋を立てた明菜の言葉に連動したかのようにA小の男子達が康太をとり囲んで蹴り始めた。何故かそこに遼子や佐々木を含めたD小の生徒達も混じってきて、最後は気を失った康太が自分達の脇に運ばれてきた。
結局八回も双方無失点で終わり、遂に最終回がやって来た。A小の攻撃は明菜からで周りのギャラリーからも声援が上がる。明菜は結構顔が広い、他の学年にも知り合いがいっぱいいて人気者なのだ。
「彩音、これは試合なんだ。悪いけどちょこっと本気でいくよ」
「ええ、それでは私の前に転がさないで下さいね? 私と智子で阻止しちゃいますからね?」
彩音がボールを転がし明菜はそれを高々と蹴り上げる。彩音の遥か頭上を越えたボールはどんどん遠くへ飛んでいき、外野の頭上も抜けていった。
明菜はボールが戻ってくる前に一周してホームベースを踏んだ。待望の先取点GETに歓声が沸きあがる。
やっぱり明菜は凄い、ここぞと言う時にこうやって結果を出すからみんな彼女が好きなのかな?
彩音は手を叩いて喜んでいた。敵ではあるが明菜の活躍がそれだけ嬉しかったのだろう。周りのD小の生徒達の中にも彩音につられて拍手をする子まで出てきて、D小もそんなに悪くないなと思った。
A小の攻撃が終わり、いよいよD小の最後の攻撃だ。今回は智子と彩音の順番が回ってくる最高の打順だ。
まず最初は彩音だった。康太に変わってピッチャーをしていた佐々木は明菜と変わり、明菜VS彩音の演出をしてみせた。たしかにドキドキする展開だが、実際にやられると非情に困る。これではどちらを応援すれば良いのか判らない……。
悩んでる内に明菜がボールを投げてしまい、考えるのを止めて彩音の攻撃を見守った。
彩音はボールを高々と蹴り上げて一塁に走りだす。ボール自体はそんなに遠くまで飛んでいないがとにかく高い、落下し始めた時には彩音は一塁を蹴り、二塁に向かっていた。
落ちてきたボールをそのままキャッチすればアウトだ。しかし落下地点にいた三塁を守る生徒がそのボールを落としてしまい、彩音の二塁打は確定した。
次に打席に立ったのは智子だった。彼女は今までの少し緩んだ表情ではなく、若干冷たい視線を明菜に向けていた。
「明菜、杉崎君蹴りすぎ……」
「普段のあいつはこれぐらいでいいんだよ。あんたも気をつけないと小学生であのサルにファーストキス盗られちゃうよ?」
「き、キスっ? わ、私のっ? ば、馬鹿言ってんじゃないわよっ! あの人がそんな事する訳無いでしょっ!」
明菜はニヤニヤとちょっと厭らしい笑みを浮べながら完全に動揺した智子に向かってボールを投げた。明菜の事は好きだけど、あの笑みをしている時の彼女はとても意地悪で苦手だ、きっと今のも智子を動揺させるために言ったんだ。
しかし智子はやはり只者ではなかった。普通ならあんな恥ずかしい事を言われれば動揺して集中できないのに、彼女はボールをキっと睨みつけ、「馬鹿にするんじゃないわよっ!」と怒鳴ながら蹴ったのだ。
ボールは先ほどの明菜のホームランに近い軌道で飛んでいき、彩音も智子も一周してホームベースを踏んだ。
*
「ありゃ、負けちゃったね~」
「ああ、殆ど桜井のファインプレーだけどな」
雪は楽しそうに笑っていた。先ほどまでの悔しい表情は消えていたのでホっと胸を撫で下ろす。やはり機嫌が悪いのは嫌だし、元気でいて欲しい。
「あ〜っムカつくっ! 負けちゃったっ!」
青筋を立てて怒っている明菜とオロオロと彼女を心配する彩音が私達の所にやって来た。
「あ、明菜。そんなに怒らないで……遊びだったんでしょ? 私とっても楽しかったですよ?」
「そりゃあ彩音が楽しんでくれたのは良かったんだけどさ、試合前に小金原の奴と約束しちゃったんだよ。負けたら智子の言う事何でも一つ聞くって……」
本当に後先考えない子だなぁ……と呆れていると、彩音が真っ青な顔をして彼女の手を掴んだ。
「なんでそんな約束するんですかっ! これは遊びだったんでしょっ?」
彩音は完全に気が動転していた。明菜もばつが悪そうに鼻をかいて彼女から視線を逸らす。
「明菜? 私は貴方の言うとこはみんな正しいと思っています。信じています。でも、その約束は遊びに必要なんですか? そんな内容の約束事を簡単に出来てしまうのは普通の事なんですか?」
明菜が深く考えていない事は判っている、みんなもそうだがこの手の約束は勝負事をする時によくある話だし、実際負けたところで大した罰なんか受けないのだ。
「笹森、あんまり怒るなよ。例え遊びだって勝負事すればこんな約束よくあることだよ」
何も返事ができずに困っている明菜をいつも傍観者を気取る雪がフォローして驚いた。いったいどういうつもりなんだろう?
「よくあること? みんなこんなことを普通にしているのですか? だ、駄目ですっ、勝負に約束事を決めるのが判らないんじゃありませんっ。自分自身を自由にしていいなんて内容が許せないんですっ!」
「めんどくさいなぁ、みんな普通にやってることなんだって言ってるだろ? そんなに鈴白を責めるなよ」
彩音の目が釣り上がり雪を睨みつけた……(まずいっ、ここは堪えてっ!)
「ゆき君、貴方はみんながやってれば、それがすべて正しいと思ってるのですか? 貴方はそんな人ではないと思っていました」
今の一言で雪の眉間に皺が寄り、私は彼を宥めようと彼の腕を掴んだ。しかし同時に頭の中にアリスの声が響いてくる。
(マリアを黙らせなさい。マスターへの暴言、許すことが出来ません)
(駄目だよっ、お願い堪えてっ!)
「みんなと同じことするのが悪いっていうのかよっ! お前は何様なんだっ、今まで虐められてたのはお前がみんなと違ったからだろっ!」
雪のデリカシーの無い怒鳴り声にアリスも私も彩音も固まった。勿論それは周囲にも聞こえてて注目を集めてしまった。
「もういいよ……ごめんねゆき君。私、小金原と智子に謝ってくるよ……」
明菜は泣きそうな顔をして、雪と彩音に割って入った。雪は彩音からプイと顔を背け彩音は明菜に話し掛ける。
「明菜、私も行きます。私ごときの土下座なんて役に立ちませんが、何としてでも許して貰います。だからお願いです、こんな約束は二度としないでください」
(何でそうなるっ! お姉ちゃん関係ないでしょっ!)
(雪乃、早くマリアを黙らせなさい。今の彼女の声はマスターを不快にしかしません。殺してしまってもかまいません)
あ〜面倒くさい! とにかく今はアリスを抑えよう、心配だが明菜の問題は彩音に任せるしかない……。
(ア、アリス……お願いします。おね……マリアを許してください。きっとマスターは彼女を嫌っていませんし、こんな喧嘩は人ならよくあることなんです。いちいち暴れてはマスターはもっと孤立してしまいますよ?)
アリスは結構彩音を気に入っていると思う。雪優先で物事を考えるから酷いことを言っているだけなのだ。それに自分が敬意を払えば彼女はきっと許してくれる。
(……さっさとマスターの不快感を取り除きなさい。それが貴方の役目でしょう?)
(分かりました)
アリスが引き下がってくれたので安堵する。後は自分が役目を果たせば大丈夫。
雪の腕を引っ張り「もう帰ろう? 彩音ちゃんも初めてみんなと遊んだから興奮しちゃってるんだよ」と宥めるように言うと、雪はつまらなそうに相槌を打った。まあ、家に着くまでには機嫌も治るだろう。
だけどそれは自分にとって最悪な事態を招くセリフとなってしまった。
帰ろうとする雪について行くしかない私はチラリと明菜と彩音に目を向けた…………二人は立ち止まって私を信じられないものでも見るような目で見つめていた…………
(あ……………………)
「雪乃、彩音に誤りなよ。私もあんたのこと勘違いしそうになったよ?」
明菜がすぐに手を差し伸べてくれた。もちろん失敗には気が付いてるし、後悔もしてる…………でも、今はその手を取ることができない…………そんなことしたら、次の瞬間明菜を怪我させてしまう可能性があるのだ。
私は彼女達から顔を背けて雪の腕を引っ張った。
「早く帰ろっ やっぱり私、ゆきちゃんと二人でいる方がいいよっ!」
今までの習慣だろう。とんでもない言葉が口から出てきた……
雪は驚いたように私を見るが、なにも気にしていないようにいつもの笑顔を作って見せる。
明菜達はそれ以上、話し掛けてこなかった。私は雪の手を力強く引っ張り、下唇を噛み締めてグラウンドを後にした。
*
家に着くまでの間、私は笑顔を絶やさずいつものように雪の腕に絡みついて色々話し掛けた。彼の機嫌はあまり良くなかったから、何もしないとアリスに怒られるのだ。
視界に入った店の事や今晩食べたいものなどなど、本当に些細な事ばかりだったけど、彼は次第に笑顔を見せてくれるようになった。よかった……今日はもう大丈夫だろう。
雪の家の玄関前で機嫌の戻った彼に「これから病院に言ってくる」と言われ、笑顔を作って「いってらっしゃい、気をつけてね」とお決まりの言葉を返す。
彼は嬉しそうに頷いて家の中に入って行く………………最悪な気分を殻に閉じ込めて、ドアが閉まるまで手を振って笑い続けた。
うん、人形の今日の行動はアリスの満足出来るレベルだっただろう。
*
──朝霧家
真っ先にリビングのソファーにランドセルを叩きつける。これも毎日やっている事だが今日はいつもより力が強めだ。
「楓ちゃんか……」
三枝楓。自分がいつか罰を受けなければいけない相手であり、私の雪への想いを奪い去った少女だ……やっとの思いで元気にした雪は今から彼女に会いに行く…………
(ねえ、アリス……私は本当にゆきちゃんのお嫁さんにも尽くさないといけないの? ゆきちゃんだけじゃ駄目なの?)
(まだそのような事を言っているのですか? マスターの選んだ方は私達にとって必ずお守りしなければいけない方なのです。貴方が選ばれれば問題無かった事でしたが、所詮は人形……どれだけ尽くしても人には勝てなかったと言う事でしょうね)
ちゃんと人形の役割を果たした……分かってはいても、やり場の無い悲しみに襲われる。
(ごめん……。今日も泣いていいかな? 私は人形だけど悔しいとか悲しいって感情があるんだよ。だってゆきちゃんの相手があの楓ちゃんなんだよ? 貴方にだって責任あるんだからっ!)
(……私には貴方がどうしてそんな感情を抱くのかが判りませんが、泣くのを認めましょう。確かに彼女とマスターが出会ったのは私が原因です。でも泣くのは一人でいる時だけですよ? マスターに気づかれてはなりません)
自分を憎む人の人形になったら自分はどうなってしまうのだろう……きっと今以上に心が壊されてしまう、粉々にされてしまう…………
心の殻をやっと身につけた自分だけど、どんなに頑張ってもその時が彩音とお別れの時なんだ……
三枝楓という恐ろしい存在の事と放課後の彩音達の事を考えると自然に涙が溢れてきた。
誰も助けてくれないのは分かってる。だけど自分がどれだけ惨めな存在かという事を、私だけは認めて哀れんであげるのだ。
母は仕事でいない。だからめいいっぱい泣き叫ぶ。──髪をクシャクシャに掻き毟り、相手のいない空間を殴り、しまいには躓いて倒れて手足をバタつかせた。
私は今日、大事なものを切り捨てた。さすがの彩音だって、付き合いの長い明菜だってもう私なんて相手にしない。これからは昔みたいに見ているだけなんだ。
**
突然電話が鳴った…………。感情が高まった状態で人と話なんてしたくもなかったが、人付き合いのあまり無い我が家の電話が鳴るのは珍しい。梓に何かあったのでは⁉︎ と慌てて受話器を取った。
「グス……朝霧です……」
鼻を啜って電話に出ると、「ガンッ」という叩きつけたような音と共に電話が切られた。せっかく気持ちを入れ替えて出たのにとんでもなく迷惑な相手だ、誰だか分かれば今すぐ会いに行って八つ当たりしてやりたい。
一度止まってしまった涙も昂っていた感情もすぐには戻ってこなかった…………。自分はソファーの上で膝を抱え頭を埋めてアリスに話し掛けた。
(ねえアリス、私はゆきちゃんを裏切らないよ? それなのになんで私が彩音ちゃんとお話する時いつも警戒しているの?)
(……貴方がマリアを認めたからです)
(認めた?)
(雪乃、貴方はマリアと鈴白明菜、それにマスターが瀕死だとしたら誰を助けますか?)
馬鹿馬鹿しい質問過ぎて逆に即答出来なかった。彼女は絶対に自分を馬鹿だと思っている。
(ゆきちゃんに決まっているでしょ?)
(貴方がそういうのならそういう事にしておきましょう。では二人助けられるとしたらどうですか?)
(……彩音ちゃん……)
明菜には申し訳ないが、彩音の存在は理屈抜きで一番だ。比べるなんて何の意味もない。でもアリスの考えていることが判らない、それを自分に言わせてどうするつもりなのだろう……
(貴方にとってマリアは特別ですね? 私は彼女の事が嫌いではありませんが、貴方が彼女を選んでしまった事が恐ろしいのです。ですから過剰になっているのだと思います)
? 何だろう今の違和感は………………そうだ、彼女はこういう時大抵《許せない》と言う。なのに今《恐ろしい》と言った……判らない、私なんて殺せるのに彼女は何を考えている?
(……そうですね、貴方は学校でマリアを見捨てて立派に役目を果たしました。その褒美としてある許可を与えます。但し次の質問を本心で答えることが出来たらです)
なんだろう…………いつもの嫌な予感がしない。彼女の心が一切見えない。
(では質問です。貴方がマリアに出会った時、彼女をどう思ったか答えなさい。あの時貴方が心を隠そうと小賢しい真似をしたのは分かっています)
殻の存在がバレてたっ⁉︎ でも彼女は怒っていない……見て見ぬ振りをしていたんだ。でもこれ答えて大丈夫なのかな? 殺されないのかな?
(じ、自分が王器だったら彼女に主になって欲しいと思いました。彼女は私をきっと大切にしてくれる。私も彼女を大切にしたいです)
(面白い……それでは実験をしましょう、とは言っても貴方には褒美です。マスターから許可をいただいた時に限り、マリアと時を共にすることを許します。その間、貴方が何を思おうと私は干渉しません)
(本当にっ! ゆきちゃんの悪口言うかもしれないよっ?)
(構いません。実は貴方がマスターのいない夢を見たと言った時、貴方に興味が湧きました。これは私にとって実験でもあるのです。でもあまり調子に乗ってはいけません、私の許容を上回る次元に達すれば考えを変えますからね?)
夢みたいだ。アリスは唯の悪魔じゃないっ、話せば分かる悪魔なんだっ!
(雪乃……全部聞こえていますよ……)
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!)
(喜ぶのはいいですが程々にしておきなさい。貴方はマスターの人形です。裏切ることは許しませんし、そうなったら目の前でマリアを殺すと言う話も取り下げていませんからね)
それでもこれは充分ご褒美だ。まさかこんな展開になるなんて………………でも、自分は嫌われてしまった。彩音も明菜も私のことをひどい子だと思ったに違いない。
ピンポーン、ピポピポピポピポピン……ポーーーーン
突然けたたましく呼び鈴が鳴らされた。こんな異常な鳴らし方をする知り合いはいない、変質者かもしれないと思ったら、怖くなって動けなくなった。
(ア、アリスどうしよう……出た方がいいかな?)
(悩んでいる意味が判りません。最悪の場合、通常モードで応戦すればいいだけの事です)
通常モードとは赤髪の力の事で、学校のみんなや雪はその姿を審判モードと言っている。確かに赤髪になれば誰にも負けない……でも今感じている恐怖は力でねじ伏せるとかそういうものでもなかった。
恐る恐るドアの鍵を開けると勢いよくドアが開かれた! ビックリした私は悲鳴を上げて頭を抑えてしゃがみ込む!
侵入者は容赦無く覆いかぶさってきて、仰向けに倒された! 黒髪のままの私は怖くて目も開けられず、手足をバタバタと動かすが、相手の力の前にその抵抗は何の意味もなく、侵入者に頬釣りを許してしまった。
(助けてアリスっ! 怖いっ怖いよっ!)
(いいのですか? これは貴方が喜ぶところではないのですか?)
(襲われて喜ぶ人間が何処にいるのよっ! ばかぁっ!)
「雪乃、良かった。なんともないんですね……」
聞こえてきた声に驚いて目を開けた。頬釣りをされていて相手の顔は見えなかったが甘栗のような濃い赤茶の髪が視界に入る。
うそ………………
(なんで? なんでお姉ちゃんがいるの?)
(…………マスター不在ですが致し方ありません、特別に今回は目を瞑りましょう…………好きにしなさい)
こんなに優しいアリスは契約してから初めてだ。なんか気持ちが悪い……
(ですから聞こえています………………私を怒らせたいのですか?)
(ごめんなさいっ!)
疑ってもしょうがない…………とりあえずアリスを信じて現実に戻ろう…………彩音はなんで私の家に来て頬釣りしてるんだろう?
「あ、彩音ちゃん? どうしたの?」
彩音は顔を話すと両手で私の頬を挟んだ。そしてグリグリと両手を動かし、頬は無意味に伸ばされる。
「どうしたの? じゃありませんっ! 貴方が泣いていたから飛んできたんですよっ!」
眉を釣り上げて怒っている…………放課後の事で腹を立てているのかな? 言葉と噛み合ってないよ。
「なんで知っているの? あっ、さっきの電話、彩音ちゃんだったのっ?」
「そうです! 仲直りしたくて電話したら泣いてるんですものっ、心配したんですよ⁈」
「な、仲直り? さっきの私を許してくれるの?」
信じられない、あれは完全に私が悪かった。それなのに彼女からそんな事を言い出すなんて思いもよらなかった。
「私が悪かったんです。あの時はショックでしたが、冷静に考えてみたら貴方がゆきくんの肩を持つのは当然ですものね?」
「と、当然?」
人形なのがバレてる⁉ この子も人の心が読めるのっ?
「だってそうでしょう? 貴方はゆき君のお嫁さんだもの、彼の味方をするのは当たり前で、私の味方なんかする筈ない。それに私は確かに浮かれていました。明菜に言ったら彼女も納得してくれていましたよ」
完全に勘違いだし、誤解されている…………でも我慢だ。この気持ちをアリスに悟られないほうがいい。納得してもらえたのならこのままの方がいい。
「ごめんね彩音ちゃん。あの時の彩音ちゃんの言ってることは正しいと思う。だけどゆきちゃんが言うように、ああ言う約束はよくあることだし、お互いが納得した約束だったんだ。だからゆきちゃんの言うことも間違っていないと思う」
「…………………………」
(これ以上、言ったら嫌われちゃうかな?)
彩音は黙ってジッと私を見つめている。何を考えてるのか知りたいけど覗くのはやめよう。
「ゆきちゃんはね、目立たつのが嫌なんだ。だからみんなと遊びたくても、言いたい事があっても、ああやってみんなのしてる事を見てただけなんだ………………もしかしたら、さっきだって彩音ちゃんと同じ事を考えていたのかもしれないんだよ」
確信は持てない…………でも、明菜は彼にとっても大切な友達だし、もし私があんな約束してれば彼の行動は違っていたかもしれない。
「雪乃? それはいけません。もしゆき君がそう思っていたのなら、自分に嘘をついてることになります」
本気で言ってるよね…………きっと今までずっと自分に正直だったんだね。
(なんて強いんだろう…………なんて眩しいんだろう…………)
(この子は確かに私の身内です。これほど欲に塗れた者はそういません)──アリス?
(欲? なんの事?)
(欲は自身の理想を実現する為に必要なものです。この子は自身の理想の為なら保身も考えません。私としては誇りに思うところですが、普通の人間には理解出来ない事でしょうし、それが当然だと思っているこの子にはマスターのお考えが分からないのでしょう…………もっとも私もマスターのお考えには中々苦悩しまています。逆らう人間など皆殺しにすれば良いだけです)
うん、無駄な知識だった。アリスの事は無視しよう、どうせ雪には逆らえない。
「あのね? 彩音ちゃんは自分の色や力を隠さずに堂々としてるよね? だけどゆきちゃんはそれが出来ないんだよ。あの人は持ってる力を嫌ってて、いつもみんなみたいになりたいって思ってる。私はそんなあの人をずっと見てきたんだ。…………お願い彩音ちゃん。ゆきちゃんを許してくれないかな? そうしてくれないと私、彩音ちゃんと仲良くなれないよ……」
(雪乃? マスターを庇わなくても私は何もしませんよ? 今の発言はおかしくありませんか?)
別に雪が好きとかそういうんじゃない。でも彩音に彼を誤解して欲しくない……
流されやすくて自分を隠して浮気性で人の気持ちも考えないどうしようもない人に見えるけど、私からもそう見えるけど、本当の彼はもっとしっかりした格好の良い男の子……の筈なのだっ! ……以前は本当にそう思っていたのだっ!
(ゆ、雪乃? 今までマスターの悪口を許していませんでしたが、マスターはそんなにも酷いのですか?)
(酷いけど酷くないって信じてるよっ! じゃないと昔の私が可哀想だもんっ!)
「ゆ、雪乃? そんなに悲しい顔をして泣かないで? 私、全然ゆき君を怒っていませんよ? だから安心してください」
本当は自分が情けなくなって涙が零れたのに彩音が勘違いしてギュッと抱きしめてくれた。嬉しい誤解なので撤回はしない。それにしても本当に暖かいなぁ……。
*
──朝霧家リビング
ジュースを準備している間、彩音はソファーに座らず立ったまま部屋の隅々をキョロキョロと見回していた。
梓は結構ガサツだが掃除だけはキッチリやる。だから色々見られても恥ずかしくないけど、彼女の動きはあからさま過ぎて結構気になる。
「あの……彩音ちゃん? うち、なにか変?」
彩音はビクッと身体を震わせると恥ずかしそうに頬を紅くして笑った。──そんな彼女も可愛いけど、もしかしたらもの凄い潔癖性なのかもしれない……少し緊張する。
「いえ、全然変では無いです。ただ私、お友達の家に来たの初めてなの……だから雪乃が此処で生活してるんだ。と思って色々見てしまいました。お行儀良くなかったですね、ごめんなさい」
「そういう事なら全然いいよ〜。良かった〜、なにか変なところがあるのかと思ってドキドキしちゃった」
彩音の隣に座って肩を寄せると彼女はクスッ笑って頭を撫でてくれた。だけど本当に不思議だ……こんなの明菜にだってした事が無いし、したいと思ったこともない。なのに今、私は恥ずかしげもなく平然としてしまっている。
「そう言えばさ……あの後、智子ちゃん達に謝ったの?」
「いいえ、謝りませんでした。あの後、智子が小金原さんの耳を引っ張って私達のところに来たんですよ」
「へえー、その様子じゃ智子ちゃん、約束の事知らなかったんだね?」
「ええ、智子は小金原さんの頭を押さえつけて、私達に「楽しい遊びを台無しにしてごめんっ」て逆に謝ってくれたんです。……ふふふ、智子はやっぱりいい人ですね。私と同じ考えだったんだ。ってすぐに判りましたよ」
嬉しそうだから言わないけど、絶対に違うと思う。
恐らく小金原香は桜井智子の真似をしていただけだ…………智子はあの遼子や香が慕うほどの人物でD小のリーダーだったと聞いている。私達が来てからは大人しくしているけど、《そういう性格》をしてるのは間違いない。
「そ、そうだね良かったね……じゃあ約束は無効で明菜ちゃんは解放されたって感じ?」
合わせたのに、突然彩音が頬を膨らませて唇を尖らせた。──こんな顔も出来るのかと感心しながら「んっ?」首を傾げる。
「明菜は少しおかしいですっ、せっかく智子が約束を取り消そうとしてくれたのに、あの子ったら約束は約束だって言ったんですっ」
「あはは、明菜ちゃんらしいよね〜。口にしたことを撤回するような子じゃないもん。謝りに行くって言った時、熱でもあるんじゃないかと思ったんだよ?」
彩音は撫でてくれていた手を止めて、頬っぺたをムギュゥと抓ってきた!
どうやら彼女の怒りを買った事らしい。「ごめんにゃひゃい、ごめんにゃひゃい」と必死に謝って許してもらった。
「グス……痛いよ……顔変わったかと思っちゃったよ。で? 罰はなにになったの?」
「今後毎朝一緒に登校する事ですって……それも小金原さんじゃなくて智子がですよ? まったく意味が分かりませんよ」
確かに意味が判らない、小学校が違っていたんだから家だって遠い筈だしなんでそこまで仲良しなんだろう?
「ま、まあそれぐらいなら良かったじゃない。今後明菜ちゃんがそんな約束をしなければ彩音ちゃん的には一安心でしょ?」
「ええ、それはそうです。でも良かったのでしょうか? さっきは興奮して言いたいことを言ってしまいましたが、私なんかが明菜に意見してしまいました……」
彩音は今までみんなに見下されていた。だからそんな事で悩むのだろう。
「いいんだよ。さっき言ったでしょ? 彩音ちゃんはどこも悪くなかったよ。明菜ちゃんが心配ならちゃんと言った方がいいんだ。今更だし、私が言ったら変なんだけど、さっきのお姉ちゃん格好良かったよ」
「格好良いだなんてやめて下さい…………それと雪乃? なんで私が姉なんです?」
う〜ん、また聞かれてしまった。
本人は無自覚だが、美しい容姿と強い心を持っている笹森彩音。彼女はきっと、朝霧雪乃を道具や人形やバケモノじゃなく、人として認めてくれる。私は彼女といつまでも一緒にいたい、それに私はみんなが一歳の時に作られたのだから、正真正銘年下なのだ。
だけどそれは殻から出していいセリフじゃない。さてどうしよう……。
「彩音ちゃんはさ……た、例えば雪乃を大事にしたいな〜、みたいに思ったりしない? ………………ごめん、聞かなかった事にして…………」
なに今の恥ずかしいセリフっ! ありえないでしょ普通にっ!
顔に熱を感じながらチラッと彩音を見ると、彼女は質問を理解出来なかったようでキョトンとしていた。それはそうだろう、自分が愚かだった。明菜に知られた日には絶対腹を抱えて大笑いされる。
「そんなのいつも思っていますよ? 貴方は特別なんです。今だって貴方が悲しんでると思って慌てて来たんですから…………」
えっ⁉︎
「へ、へぇ…そ、そうなんだ……じゃあ大変だよ? 明菜ちゃんなんてしょっちゅう泣いてるし……」
勘違いしそうになった………………
「えっ? ごめんなさい。私馬鹿だからよく分からないのですが、今って貴方の話でしたよね? 何処で明菜の話になったんです?」
あれ? 友達だから来てくれたって事でしょ?
(雪乃、心を読んでしまいなさい。無性にイライラします)
(駄目だよ。私は無闇にあの力を使わない、特にお母さんと彩音ちゃんには絶対に使いたくないんだ)
なんだろう…………悪い事したわけでもないのにドキドキしてる…………
「……ねえ、もう一度教えて?…………彩音ちゃんはもしかして、私だったから来てくれたの? 特別って言うのは私だけの事を指してるの?」
そんな筈は無いんだ。私は自分の事をなにも教えてないし、酷いことだって言ったんだ…………今の私は明菜に完全に負けてるじゃないか。
「そうですよ? 迷惑でしたか?」
頭で考えるより早く身体が動いて彩音を抱きしめた。──どうして? なんて聞かないでっ、理由なんて必要ないんだからっ。
(アリス! 私がこの人を特別に想う気持ちが貴方に分かるっ? この人がどんなに素敵な人なのか貴方に分かるっ?)
(………………約束です。今だけは見過ごしましょう)
知るか! 殺したければ殺せっ!
「それで良くさっきの質問出来たよねっ! お姉ちゃんじゃなかったらなんなのさっ!」
目を白黒させている彩音はきっと自分のとった行動や発言の意味が分かってない。──それでいい、なにも知らなくても彼女はこうして私を救ってくれるんだ!
(アリス、貴方が何を考えて私を自由にしてくれたのかは知らないけど、喜びなよ。お陰でお姉ちゃんがこんなに素敵な人だって分かったよ? この人だったら必ずゆきちゃんを格好良くしてくれるよ)
(それは楽しみです。貴方にこんな使い道があるとは……実験を続けましょう)
(ありがとう…………)
殻を強固にする…………普段のものではこの抑えきれない本心に耐えきれない。
アリス、この褒美を私にくれた事を後悔させてやる! 近いうちに絶対に押さえ込んで、お姉ちゃんの所有物になってやるっ!
彩音がくれるのは安らぎだけじゃない。私から死の恐怖や絶望を取り除き、立ち向かう勇気や生きる希望を与えてくれるんだ。