始めの一歩─3:始めの一歩
14.08.12:サブタイトル及び文章修正しました。m(_ _)m
四月二日(継続)
*
──Nエリア:D小学校
◆
ついにお友達が出来た!
夢でも勘違いでも無い。今、笹森彩音の両手は鈴白明菜と朝霧雪乃にギュッと握られている。
けれど恥ずかしい…………彼女達の笑顔は素敵だけれど、元々可愛くない私の笑い顔なんてだらしなく緩んでいるだけで見苦しいに決まってる。
下駄箱に着くと雪乃は黒磯雪を迎えに行くと言って別れ、私は明菜に手を引かれて保健室へ向かった。
本当はこれぐらいの傷なら何もしなくても完治する。だから治療なんかしてもらわなくても良いのだけど、明菜にもう少し甘えていたかった。私なんかの身体を気にしてくれた彼女の優しい気持ちを感じていたかった。
保健室は先生が不在だった。舌打ちをする明菜は行儀が悪いと思ったけど、機嫌を損ねたら大変だから何も言わないで笑っていた。すると後ろから一緒に来てくれていた杉崎康太が彼女の頭を「ベシンッ」とシッカリ音が聞こえる強さで叩いた。
「なにすんだっ!」
「彩音ちゃんの前で舌打ちすんな。下品なのが目立つんだよ…………ほら、彩音ちゃんだって目をまん丸にしてるぞ?」「!!」
「う…………」
確認する様に私を見る明菜に向かって首をブンブン振って否定する! ち、ちがう…………私が驚いたのは友達が友達に平気な顔をして手を上げたからだ。そんな野蛮な友達関係は桜井智子のグループ内だけだと思ってた。
このまま喧嘩になってしまうんじゃないかとハラハラしながら二人の顔を交互に見ていると、明菜が「そうだね、気を付ける」とやり取りはすんなり終了した。──終わった後の彼女達は何も無かったような顔をしてる…………どうやら友達という関係は叩いたりするのも会話の一つになる様だ。智子のグループがどうとかそう言うものでは無いらしい。
(私もこれから明菜と雪乃に叩かれるようになるのかな? どうしよう……叩かれるのは我慢できるけど私は言葉でお話がしたいな…………)
明菜の指示に頷いて、上履きを脱いでベッドの上に正座をすると、彼女はカーテンを閉めて私の服に手を伸ばしてきた。
意図はすぐに分かったから自分で脱げるって言ったのに、彼女の目はなんだかとても真剣で、恥ずかしかったけど甘えることにした。
ショーツだけは許してもらい、両手を組んで胸を隠しつつ下を向く…………いくら女の子同士でもこう向き合うと恥ずかしい。
「うわぁ………………」と漏れた声にビクッとする。──まだ傷や痣は治っていない。私自身はもう慣れている姿だけど、彼女だって汚くて醜いものを見るのは嫌に決まってる。
明菜に顔を上げるように言われ、勇気を出して上げる事にした。こういう時、どんな顔をすれば良いのか分からないし、作らなければ悲しい顔になってしまう。だから笑った…………。
明菜は泣きたい時には泣けば良い。と言うけれど、今みたいに落ち着いている時には中々難しい事だと思う。この笑顔の作り方は強制されて覚えたものだけど、こんな時には役に立つ。
明菜は私の笑顔に気がついていると思う。だけど広場の時みたいに怒らず、何も言わないで少し悲しい顔をしただけだった。私はホッとしたが、彼女の手に持っている物を見てすぐに緊張する…………。消毒液はとても染みると父から聞いた事がある。やっぱり私の身体でもそうなのだろうか?
「ひっ!!」
(な、なにこれ痛い!?)
初めて味わった刺激にビックリして目を白黒させると明菜が「ゴメン、やさしく塗るから我慢してっ」と笑ってた。だけどこの皮膚の内側からくるビリビリという痛みはとても我慢なんて出来ない!
何度も悲鳴を上げた結果、全身消毒液でコーディングされた…………皮膚が熱くてピクピクしてる。
(とんでもない初体験をしてしまったわ、次は絶対遠慮しよう。)
とてもすぐに服を着たくない。明菜達を待たせてしまうのは申し訳ないけれど、折角だから色々聞いちゃおう。
「そ、それにしてもよ、よくあんな場所に来ましたね?」
明菜達が来てくれなかったらもっと酷い目に遭っていた。あの姿で雪に挨拶なんかさせられていたら、彼は二度と私の事を見てくれなかっただろう。
「ああ、それな……」カーテン越しで康太の声が聞こえてきた。
「俺がゆきちゃんと喋ってたら突然雪乃ちゃんが審判モードになってさ、『急いで明菜を連れて校舎の裏に行けっ』て言ったんだよ……なんだ? と思って理由を聞こうとしたんだけど、今度はゆきちゃんが『頼むから今は行ってくれ』って言うから訳も判らず向かったんだ」
(雪乃? 私が桜井さんについて行ったのを見たのかな?)
「そ、そうだったんですか…………あっ、ゆ、雪乃と言えば、審判モードって何ですか? 二階堂さん達も言ってましたよね? 後、天使とか……」
「ああ、審判モードは雪乃ちゃんが赤い髪になった時の事だよ。普段の彼女は審判の天使って呼ばれてるんだ」
「審判の天使?」
明菜は黙って頷くだけだった。どうやらこの説明はすべて康太がしてくれるらしい。
「普段は明るくて凄く可愛いのに、あの髪になって暴れ始めるとその内容はとにかく酷くて見せられたこっちも忘れられなくなるんだ。ある時、あの大暴れは自分達への天罰だって言った奴がいたんだよ。それから赤髪になって何事もなければ無罪、大暴れすれば有罪って言われ始めて、あの姿を審判モードって呼ぶようになったんだ。だけど女子達が『普段の雪乃ちゃんは可愛いから彼女自身の呼び名も工夫しろっ』て言い出してさ、彼女自身を審判の天使って呼ぶようになったんだ」
なるほど、雪乃が笑うと確かに天使のようだ……それに明菜から聞いている雪乃が暴れた時の話もかなり酷かったからピッタリな呼び名なのかもしれない。
「でもまさかここまで酷い事になってると思わなかったよ。昨日、新井も言ってたけど、私はもう少し甘いものを考えてた……」
私の身体を見ていた明菜は雪乃の話題ではなく私の事を口にした。彼女はまた泣きそうになっていたけれど、それがとても嬉しくて彼女を抱き締める。
「も、もう泣かないで……さ、さっき明菜が桜井さんに言ってくれたから、も、もう虐められたりしない思うし、わ、私もこれからは抵抗するから…………」
す、凄い事を言っちゃった! 本当に抵抗なんて出来るのだろうか? また怯えるだけなんじゃないだろうか………………。
明菜は私の言葉を信じて、うんうん。と何度も頷いてくれている…………こ、これは嘘にするわけにはいかない…………
カーテン越しの康太はまるで状況が分かっているかのように静かで、保健室は明菜の啜り泣く声だけが拡がっている。──消毒液なんていらなかったんじゃないだろうか……だって彼女の体温が身体をポカポカにしてくれる。彼女の泣き声が心をポカポカにしてくれる…………これだけで傷なんてあっという間に治ってしまいそうだ。
突如「ガラッ!」と勢いよくドアが開く音がして誰かが駆け込んで来た。せっかくのポカポカ空間が壊れてしまった…………急病の人でも運ばれて来たのかな?
「彩音ちゃん! 怪我はどう!?」
カーテンを「ガッ」と開いた黒髪の雪乃が此方の状況を確認もせずに飛びついてきた! これには明菜もビックリして、「うわ!」っと雪乃をかわすように私から離れる! って見捨てられた!?
「彩音ちゃん彩音ちゃん彩音ちゃん」
私のショックを余所に全体重を乗せて腕の中に入ってきた小動物は顔を私に擦り付けて何度も名前を呼ぶ…………やはりこの姿を見ていると皆に恐れられているというのが信じられない。私はクスっと笑って彼女の頭を撫る。
「わ、私は大丈夫です……あ、貴方達が助けてくれたから……雪乃が二人に教えてくれたのでしょう? ほ、本当にありがとう」
「大変だったね? 昨日私言ったじゃない。貴方の待ち望んだ日がきたって……夢じゃないんだよ?」
またも心を全て見透かすような事を言ってきた。この子は本当に天使なんじゃないだろうか?
「ゆ、雪乃……あ、貴方は一体……」
「………………」
私の疑念に答える様子のない雪乃は胸に顔を付けて黙っていたが、暫くしてボソッと呟いた……。
「彩音ちゃん……私、彩音ちゃんの事好きだよ? 綺麗だし優しいし本当に大好きなんだ。でもね…………私達まだ五年生なんだよ? こんなに胸が大きくなってるのは、いろいろといけない事だと思うんだ……」
「んなっ!」
「なにいぃぃ」――バキッ!
一瞬で顔が熱くなり、慌てて雪乃を引き剥がして両手で胸を隠したっ。それと同時に康太と思われる影がカーテンに近寄るのが見えたが、それは明菜の正拳突きが火を噴いて沈黙してくれた。
(そ、そんな事初めて言われたわ……。どうしよう、恥ずかしいっ)
体育の着替えはいつも隅でコソコソとしていたから他の生徒と見比べた事なんて無かった。確かに雪乃も明菜もそんなに服が膨らんでいない。
「コホン……雪乃さん? そのような事、思っても口にお出しになったらいけないわ、淑女としての品格が損なわれましてよ?」
突然明菜が口に手を当てておかしな事を言だして、ショックを忘れて思わず噴出してしまった。すると雪乃が……
「あ―、彩音ちゃんのまね上手~」などと信じられない事を言い出した!?
「……え?」
雪乃は手を叩いて喜んでいるが、私は困惑の表情を浮かべる。──断じてそんな言葉を使ったことは無い。
「あ~、彩音って今私が使ったような言葉遣いがしっくりくるイメージなのよ。もし良かったら今後使ってくれて構わなくてよ?」
「つ、つかいません!」
初めての経験でドキドキする…………これはきっと二人にからかわれたのだ。嬉しいけれど、それ以上に恥ずかしい。
*
ヒリヒリも治まってやっと服を着れた私はみんなと校舎を出た。
──
雪乃と一緒に来た雪は私のボロボロの服装を見て怒ったように眉を吊り上げた。
慌てて「見苦しいものを見せてしまってごめんなさい」と謝ると、彼も慌ててしまって、「気にしないでくれ。こっちこそごめん」と逆に謝られてしまった。
理由が分からない私はポカンとしたけど、雪乃と明菜はそんな私を見て笑ってた。きっと普通ならちゃんと理由が分かる事だったのだろう。
──
視界で雪の腕にしがみついている雪乃と明菜が楽しそうに話しをしてる……。今の私はその話題についていけないけれど、必ず一緒に話せるようになって見せる。
(今日一日、嫌な事も沢山あったけど、かけがえのないものを手に入れた実感はある。なんて楽しいのだろう。なんて嬉しいんだろう。ゆき君とは殆ど話せていないけれど焦る必要だって無い、これから時間は沢山あるんだもの)
みんなの楽しそうなやり取りを見て心から笑っていた私は校門に視線を移した途端に凍りついた。
(な、なんで!? どうして!?)
校門には見覚えのある一台の車が停まっていて、手前に一人の女性が立っていた。
「うわ~、なにあの人、凄く綺麗~」
「芸能人かな? でも、あんなに綺麗なら一度見たら忘れるはずないんだけどな……ってあの色まさか……」
その女性の美しさに明菜と康太は感嘆の声を上げるが、二人はすぐに私に視線を向けてきた。
「お、お母さん………………です」
学校の生徒で母:笹森香奈の姿を見るのは、此処にいるみんなが初めてだろう。若すぎる容姿と甘栗の色を持つ母は人の視線を極度に嫌がる為、学校行事にすら出た事が無いのだ。
「「ええぇっ!」」
予想はできたが明菜と康太は同時に驚きの声を上げた………………は、恥ずかしい…………。
*
みんなと別れた私は母と車の後部座席に乗り込んだ。──我が家の車は管理局の局員が必ずの運転する事になっていて、父や母が運転しているのを見たことが無い。
「今日も遅いので気なって迎えに来ました。……《質問》は家に帰ってからにしましょう。良いですね?」
「はい、お母さん」
母の表情をチラッと窺ったが無表情でいつもと変わらない……でも母は絶対に気が付いてる…………多分昨日《嘘》をついていたのも知られていたんだ。
だって今までどんなに虐められて帰りが遅くなっても、迎えに来てくれたことなんて一度も無かったんだもの、こんなの絶対におかしい。
「ただいま」
「着替えたらリビングへいらっしゃい。その服は捨ててしまいなさい」
家に帰るなり母はすぐに指示を出してきて、私はすぐに頷いて自室に向かった。
(明菜達の家では子供がボロボロの服で帰ってきたら、理由くらい聞いてくれるのだろうか?)
着替えを済ませてリビングのソファに腰掛ける。向かいでは既に母が紅茶を飲んでいる。
(今日の私の答えはいつもと違う。いったい何が起こるんだろう? ………………落ち着け、落ち着け私!) と言い聞かせながら胸に手を当てて母が口を開くのを待った。
「では、いつもの質問に答えて頂戴」
(……始まった)
「はい、お母さん」
無表情で淡々と話しを始めた美しい母に対し、いつも通り顔を俯かせながら答える。
「今日、色のついた人は見ましたか?」
「…………はい、見ました」
「気になる人と出会いましたか?」
「…………はい。気になるというか、初めてお友達が出来ました」
「貴女の存在意義は何ですか?」
「私は……異界の人間の子供を産むために、育てられています」
「では、異界の人間に出会うまでに、貴方がしなければならない事は何ですか?」
「異界の人間に知識を与える為に、普通の人間と同様の生活を送り、様々な性格の人と知り合い、いろいろな経験を積むことです」
(……いつもなら、これで終わりだ)彩音は息を呑む、
「今日、誰かと触れましたか?」
「…………はい。お友達の女の子と、上級生の男子と女子に触られました」
「服をお脱ぎなさい」
「…………はい」
母の表情は変わらない、自分は言われるがまま服を脱いで彼女の前に立った。
「傷だらけですね?」
「上級生の男子と女子に……沢山棒で叩かれたり、蹴られました」
「触られたのはその時ですか?」
「はい」
「猥褻な事はされましたか?」
「いいえ、服を脱がされましたが、お友達が助けてくれました……後、私に触れたのは、そのお友達の女の子達です。助けてくれた後、涙を流して抱きしめてくれました」
「そのお友達は色のついた子ですか?」
「はい……色のついた子もいました」
「……身体は何ともないのですね?」
「はい」
(私は嘘は言っていない、視線を逸らす必要は無い)
凝視する母の視線は本当に怖かったが、下唇を嚙んでなんとか耐え切った。
「……質問は終わりです。前から言っていますが、辛ければ学校を辞めても良いのですよ?」
「っ! い、いいえお母さん! 私はやっとお友達に巡り会う事が出来たのです。この日の為に頑張ってきたのです! お願いです。もうそんな事仰らないでください!」
虐められて帰ってくるといつも母が言う事だったが、今回は裏で何かされそうな嫌な感じがして思わず叫んでしまった。
香奈はスっと立ち上がり自分の両肩に手を置いた。何だろう? と首を傾げると彼女は目を閉じて小さなため息をついた。
「目を閉じなさい」
そう言われて目を閉じると、突然左の頬に熱が走ったっ!!
かなり強い衝撃もあったが何とか踏み止まり、熱くなった頬を手で押さえて目を開ける。
母に平手打ちをされたのは初めてだった。それだけも充分ショックだったが、目の前の彼女の顔を見て更にショックを受けた。
なんと、いつも無表情な母が悲しそうに眉を寄せて涙を零していたのだ。
「貴方は昨日私に嘘をつきましたねっ!」
母の初めての怒鳴り声……怖い訳じゃなかったが、こんなに怒った母を見たのは初めてで無性に悲しくなってきた。
「はい……ごめんなさい……彼女達に何かするんじゃないかって恐かったんです」
『お腹を痛めた大事な娘を悲しませる事なんてする訳が無いでしょうっ!』
「え?」
怒鳴られた事にもビックリしたけど、信じられない言葉を耳にした…………
母は人じゃない。今の今まで彼女に痛覚なんてものは無いと思っていた。だからいつも無表情なんだと思っていたのに……
「い、痛めた……ですか? お母さん、痛みがあるんですか?」
「当たり前でしょうっ! 母をなんだと思っていたのですっ!」
(な、なんだと言われても王器としか……)
香奈は確かに自分を産んでくれた母だが、香月先生は母の事を父の装飾品だと言っている。
私は綺麗な母が王器と呼ばれる異世界の《もの》だと小さい頃から教えられていたから、彼女に痛みや感情なんて無いんだと今の今まで思っていた。
(なんだろうこの気持ち………………とても嬉しい。お母さん、私の為に痛い思いをしてくれたんだ。今も本当に私を怒って泣いてくれてるんだ……)
「お母さん……教えてください。今までみんなに叩かれて帰って来た私を見て何か思われていましたか?」
今なら自分の欲しい言葉をくれる気がして尋ねてみた。すると母は何も答えてくれずに私を抱きしめた。
「悔しかったに決まっています。何度お父さんに仕返しをさせていただきたいとお願いした事か……」
母が嘘をついた処なんて見たことが無い…………抱擁だってこんなに力強いのは初めてだ。
「ごめんなさいお母さん……。私は嘘をつきました。もう二度とこんな事はしません。お母さんを泣かせません……ごめんなさい……」
今日何度目の涙だろう…………
母は何も言わずにそのまま私を抱きしめてくれていた。(でも分かる。お母さんは私を許してくれている)
──雪乃と雪に対しての追加質問はされなかった…………色は重要だと思っていたのに違うのかな?
「夕食まで時間があるので先にシャワーを浴びてお部屋でゆっくりしていなさい」
「はい、判りました…………あっ」
暫くして私から離れた母の顔は普段の無表情に戻っていたが声は優しかった。嬉しくて笑顔で頭を下げた後、ふと思い出した事を尋ねてみる事にした。
「お母さん。一つ教えて欲しい事があるのです」
「何でしょう?」
「あの、今日お友達が口にしていたのですが、『ませえろがき』とは何なのでしょう?」
「『ませえろがき』……私も始めて聞く言葉ですが、それが名前だとしたら果物か貝の種類かもれ知れませんね。お父さんに聞いてごらんなさい」
「ありがとうお母さん、では、お風呂に入ってきますね」──緊張せずに話が出来た。
(今までだったら怒られそうで、こんな質問は出来なかったのに……)
嘘をついたのはいけない事だと自覚している。でも今回ついた初めての嘘は自分と母の関係に素敵な変化をもたらしてくれた。これは色を持った雪と雪乃のお陰だ。彼等は父の言うように私の未来を変えてくれるのかもしれない。
*
■
黒磯雪の住んでいる白世台町にはNエリア最大の病院《後楽坂総合病院》が存在する。
雪は一三〇六号室の前で立ち止まり、両手で自身の顔を引っ叩いてからドアを開けた。
「よう楓っ! 今日も元気か?」
この病室の主:三枝楓はベッドのリクライニング機能を使って上半身を起していた。
彼女は自分を見て一瞬笑顔を作ってくれたが、すぐに頬を膨らませて顔を背けてしまった。
──
楓は自分と同じ歳の少女で入学前に交通事故に遭い、左腕と下半身が動かせなくなってしまった。
長い間寝たきりの生活を送っているせいか、彼女の肌は石鹸のように真っ白で同学年の女子と比べると身体の線もかなり細い。彼女は自身の姿をまじまじと見られるのをとても恥ずかしがって嫌がるが、自分はそんなに気にしなかった。それどころか守ってあげたいとも思うし、何より彼女の小さな顔の中で自己主張している切れ長で少し垂れ気味の目はかなり好きでいつ迄も見ていたい。
──
「どちらさま? お部屋を間違えたんじゃないの?」
予想はしていたが、これはかなり怒っている。原因は間違いなく昨日見舞いに来れなかった事だろう……
「ごめん。昨日は家の事情で急に来れなくなっちゃったんだよ。僕だって楓の顔が見たかったんだ」
本当に家の事情だった。
──
自分はいつも出掛ける時に家族のような付き合いをしている朝霧家の家長:朝霧梓に一声かけるようにしている。以前何も言わずに一人で買い物に出掛けたら、彼女にこっぴどく怒られてとても反省したからだ。
昨日も病院に行くと梓に伝えに行ったのだが、とんでもない事情が発動した。彼女はまだ仕事から帰ってなくて娘の雪乃に伝言を頼もうとしたら、なんと雪乃が自室で泡を吹いて倒れていたのだ。
ビックリした自分は梓と父:幹彦に電話をした後、雪乃が意識を取り戻す明け方まで彼女から離れることが出来なかった。
雪乃はいろんな意味で危なっかしい…………怒りだすと恐ろしく強いくせに、一人にしておくと突然両腕両足を骨折していたり、顔を酷く腫らしていたりと、まるで誰かに虐待を受けたのではないか? としか思えない時がある。
彼女はいつも原因を教えてくれなくて、納得のいかない自分は梓を疑った事もあったけど、怪我をする時の殆どは梓が不在の時が多く、未だに何も分かっていない。
──
昨日の出来事を回想していると、突き刺さるような視線を感じた。自分はハっと我に返り、目の前の少女に頭を下げる。
「本当にごめんっ!」
「……したんだからね」
弱々しい声が少しだけ聞こえて顔を上げると、今まで怒っていた筈の楓が悲しそうに眉を寄せてポロポロと涙を流していた。
「楓?」
「ずっと心配してたんだから……雪君いなくなっちゃったんじゃないかって、とても不安だったんだからぁ……」
楓は右手で顔を隠し、嗚咽を漏らす…………自分は慌てて側に寄って彼女の動かない左手をギュっと握り締めた。
「大丈夫、僕は絶対にいなくならないよ。約束したろ? ずっと側にいるって」
一年生の時、自分は楓と出会った。その頃の彼女は絶望していて死を望んでいた。自分は彼女を助けたい一心で考え付く限りの嘘をついたのだ。
「嫌だよ? 絶対に一人にしないでね?」
「当たり前だろ? 僕は絶対に楓を一人にしない。だから泣き止んで笑ってくれよ」
楓はコクリと頷くと、無理をしているようだったがニッコリと笑顔を作ってくれた。──近くの棚からタオルを取り出し、彼女の顔を綺麗に拭いてあげる。
「ねえ? 昨日から他の学校と一緒になったんでしょ? どうだった?」
最近彼女は自分の昼間の生活に興味を示してくれるようになった。今までは自身を不幸に追いやった相手への復讐ばかり口にしていたから、これは大きな変化だ。
──そう……彼女は死ぬことを口にしなくなり、復讐の為に生きてきた。それは自分が生きる事を諦めさせない為にそう言い聞かせたからだ。
彼女が自分を求めているのは復讐を手伝うと約束したからだ。彼女にとって自分は友達じゃない、ただの協力者なのだ。
彼女はその復讐の事すらあまり口にしなくなった。最も一日最低一度はそれらしい事を言うが、以前に比べれば全然マシだ。
「ああ、一緒になったのがD小だって話はしてたよな? 最悪だったよあの学校…………」
「最悪?」
頭の中が自分に衝撃を与えた少女の事で埋まっていく…………
──
彼女の髪は綺麗な深みのある茶色で、身体の周りに自分達のような色を纏っていた。それに顔を拝む前に思いっきり殴り飛ばされた…………あんな強烈な拳を貰ったのは初めてだ。
あまりの痛さに頭にきたのに彼女を真正面から見た途端、怒りは一瞬で何処かに行ってしまい、身体が震えてどうして良いのか分からなくなった。
色に包まれる彼女は信じられないくらい綺麗だった。そしてなんと言うか…………見た目とは別に存在自体が真っ白だった…………。
別に自分は人の本質を色で識別できるような力は無い。普通に見た目でしか判断出来ない。だからこそ彼女は特別なんだと思った。体内の血だってのぼせそうなほど熱くなってたし、心臓だってドキドキだった。
手を上げるなんてとんでもない、話し掛けるだけでも彼女を汚してしまいそうで怖くなった。だからその時の自分は彼女の顔を見て話すことも出来なかった。
──
「雪君?」
「あ、ああ……D小の連中がさ、一人の女子にもの凄い虐めをしてたんだよ」
「い、虐め? 聞いた事があるけど、それって良くない事なんでしょ? 無視されたり、物を盗られたりしてたの?」
楓の知識では酷い虐めで想像つくのはその程度のものだった。
「楓、人っていうのは集団になるともっと酷い事をし始めるんだよ。だからみんなは自分が虐められないように、周囲に併せたり嘘をついたりして目立たないようにしたり、仲間に加わって同じ行動をとったりするんだ」
そう、自分もそうしてきた。虐めなんかはしないけど、出来る限り人と話さないようにして無口な性格だと印象つけてみたり、みんなから警戒されていた雪乃を盾にして人を近づけないようにしてみたり…………
自分はみんなと同じでいたい…………絶対バケモノなのがバレては駄目なんだ。
「そ、そうなんだ……でもその子良かったね? 当然雪君が助けたんでしょ?」
「ん? なんでそう思うんだ?」
「だってA小の同級生の中では雪君が一番強くて慕われてるんでしょ? それに貴方はこんな私の側にいてくれる人なんだもん、見てるだけなんてありえないよね?」
(ぐっ、康太の事を自分の事として話してたのが裏目に出た。確かにキレたけど結局何もしてないんだよなぁ)
「ま、まあ僕も出て行こうとしたんだけど、ほらっ、A小には前に話した鈴白ってのがいるだろ? あいつが助けちゃったんだよ」
ここは明菜の手柄にするしかない。
「ふ~ん、そうなんだ……。でもそれで良かった……のかな…………」
顔を綻ばせる楓を見ながら「何で?」と首を傾げると、彼女の真っ白な顔が火照ったように赤くなり始めた。
「な、何でもないよっ、女子は女子同士で助け合ったほうがいいのかな? って思っただけだよっ!」
怒鳴られる内容では無いんだけど…………。それにしても楓はいいな……嘘を結構ついてしまっている罪悪感はあるけど、今ではすっかりリラックスして会話が出来る。幼馴染の雪乃も落ち着くけど、あいつの場合、相手の心が読めるなんて特別な力を持っているから、たまに緊張する時がある。
そろそろ帰ると言って立ち上がると、楓は寂しそうな顔をして俯いてしまった。普段はもう少し明るく送り出してくれるのだが、昨日来れなかったから不安なのだろう。
「また、来てくれる?」
「当たり前の事を毎回聞くなよ」
彼女の頭を撫でながら笑って答えると、彼女は安心したようにニッコリと笑って頷いてくれた。
*
──笹森家
□
彩音の父:笹森武は香奈から今日の報告を聞き終えて大きく息を吐く…………時刻はPM一〇を過ぎている、彩音はもう寝ている時間だ。
「そうか………………香奈、こっちに来てくれ」
向かいに腰掛けていた彼女は黙って自分の隣に移り、手の上に自身の手を添えた。
(ここからは念話を使う。口に出すんじゃないぞ?)
この家には自分達を監視する為に数えられない程の盗聴器が設置されている。だから本心で話す時には必ず念話を使うようにしていた。
(はい。マスター)
(まず、色のついた子供についてだ……もう少し詳しく教えてくれ)
(はい、信じられませんが二人もいました。男子と女子のつがいで色は私と同じ朱色です。私が見たところ彼等に彩音への攻撃の意思は無く、あの子が言うように本当に友達のようです)
(本当に現れるとは思いもしなかった……。質問は気休めだったんだぞ? 外に色持ちなんている訳無いのに何なんだその子供達は……)
理解し難い……色は唯の人間である自分には無いし、《マージ》しないと見る事も出来ない。だいたい自分が知る限り色がついた人間は香奈と彩音を含めて四人しかいない。
《昔はあと二人いたが、既に死んでいる》
(お前が見たのなら間違いないだろう。で、その二人はお前と同類か?)
(判りません。しかし私は違うと考えています)
(どういうことだ?)
(私ももう一人の『祥子』も元々自我がありません。一人でいる時は表情が上手く作れませんし、感情のコントロールも難しいです。とても普通の……小学校での生活など出来ません)
(確かにな……でもだったらその子供達は何なのだ? まさか外に管理局の知らない王器が居て、彩音やミコトの様に生まれた子供がいたと言う事か?)
(二人は黒髪だったので、それも無いとは思いますが言いきれません…………それともう一つ気掛かりな事がありました。女子の方ですが妙な威圧感がありました)
(威圧感?)
(はい、彼女には逆らう事が出来ないような気がします)
(なんだそれは? お前は私にだけ忠実だと思っていたのだがな)
(私もそう考えていましたが、こんな感覚は初めてです。彼女にはあまり近づきたくありません)
(むう、解った……監視を頼みたいところだがやめておこう。それと今後彩音に色の質問はしないでくれ。管理局に何かしらの不信感を持たれたら厄介だ。今日の話も危険だったかも知れないしな…………)
誰かに監視をさせたいが、今人を動かすのも危険だろう。
(はい。その様にします)
(…………彩音にやっと友達が出来たか……長かったな……)
(はい、とても嬉しいです。あの子は本当に頑張っていましたから……。今日何人かと接触があったようですが、聞く限りではファーストコンタクトも発生しなかったようです)
(あの子にファーストコンタクトがあるなどとふざけた話、私はそもそも信じていない。あの子が誰かに忠実になるなど許せるか。そんな事より友達が出来たのなら、もう虐められる事がなくなれば良いのだが……あの子の気持ちは汲んでやりたいが、私にも我慢の限界はあるんだ)
(……私もです。毎日のように作ってくる傷は見るに耐えませんでした。まだ続くようでしたら、そろそろ了承して頂きたいです。すぐに相手の生徒と親族を処分いたします)
(ああ、考えておく……。なあ香奈、考えもしていなかった色持ちの子達は彩音の救世主になってくれるだろうか?)
縋れるものなら縋りたい。彩音を救える可能性を持っているのは、その不思議な子達だけだろう。
(……マスター、そんなお顔をなさらないでください。救世主など現れなくても彩音を守る為ならば、私はシンクロ率をも超える力を発揮して貴方の盾となり剣となります)
「すまないな、香奈。お前とは死ぬまで一緒だ」
「勿論ですマスター。私は死ぬまで貴方の妻です」
自分だけに見せる香奈の自然な笑顔は本当に芸術だ…………歳なんて幾つになっても変わらない、その顔を見る度に自分は恋に落ちているんだと思う。
*
四月三日
◆
朝食のスクランブルエッグを口に運ぶ笹森彩音は、昨日の件で何か言われるのではないかと向かいに座る父:武の顔色を窺う。
「彩音……」
父はどうやら私の視線に気がついていたようだ。はぁ……と疲れたような息を吐かれてしまった。
「は、はい!」
「そんなに人の顔をチラチラ見るんじゃない。美味しい食事が台無しになってしまう」
「ご、ごめんなさい。お父さん」
「何か言いたい事があるのかね?」
(あれ? 色の子が現れたのにいつも通りのお父さんだ。お母さんが言っていない筈は無いし、どうしたんだろう?)
「い、いえ私からは特にありません………………あ、お父さんに教えて欲しい事がありました」
昨日は先に寝てしまったから聞けなかった。良かった思い出せて……
「ん? なんだね?」
「『ませえろがき』とは何の事でしょう?」
「ん? 聞いた事がないな、それがどうかしたのか?」
(嘘っ!? お父さんも知らない言葉なの?)
「お、お友達の女の子がお友達の男の子に言ったのです。でも私には意味が判りませんでした。恐らく何かの例えなのかと思ったので──」
「エロガキのことかっ!」
話し終わる前に眉間に皺を寄せて怒鳴った父に驚いたっ。私にこんな顔を向けるのは珍しい、余程の内容なのだろうか?
「お、お父さん?」
「そ、その男子に何かされたのか?」
「いえ、女の子と一緒に虐められていた私を助けてくれました。これからはみんなで私を守ってくれると言ってくれました。………………それに私なんかの事を女神様って言ってくれました」
女神様……康太は何て恥ずかしい事を言ってくれたんだろう。そんな事を言われれば嬉しいけれど、人前でそう呼ばれるのはかなり抵抗がある。まだバケモノの方がマシな気がする。
「……その子が良い目をしているのは認めよう。でも、その少年に気を許してはいけないぞ? 『マセエロガキ』の意味を簡単に教えよう。お前は小さい頃から子供を生む為に異性の身体についても教えられているが、普通の子はまだ知らないものなんだ。もう少し大人になると学校で習う事になるが、同時に人は異性の身体に興味を持ち始め、いかがわ……エッチな事を考え始める。その子は小学生にして『好き』とか『嫌い』を通り越して既にエッチな感情を持っているのだろう……」
父の説明を聞いて驚きを隠せなかった。──アリスに教えて貰った康太の想いは軽かったが暖かかった。そんな彼が自分の身体にそんなにも興味を示しているとは思いもしなかった。
(そ、そういえば昨日保健室で私の胸を見ようとしてたわ…………)
明菜の拳を受けたのは間違いなく彼だった。どうしよう……
「いいかい彩音。もしその男の子にエッチな事をされそうになったら、本気で引っ叩きなさい。お母さんも絶対に怒らないから安心していい」
父の真剣な目を見て力強く頷く。──異性の身体の構造が違うのは子供を作るためだ。そして私には身体を捧げる相手がもういるのだ。
「私は男子の身体に興味を持った事がないのでエッチと言うのもが良く判りませんが、きっと身体を触ったりする事なんですよね? 大丈夫ですお父さん。私はライアンの子供を産まなければいけないんだもの、そんな人に身体を触れさせません」
解釈は間違っていないと思う。でも何故か父は悲しそうな顔をしてしまった…………どうしたんだろう?
「そ、そうだな……まあ、気をつけてくれ。あと学校が始まってから毎日帰りが遅いようだから、今日は早く帰ってきなさい。お母さんはああ見えて心配性なんだ」
(もう知っているわお父さん。お母さんは今まで私の事を大事に想ってくれていたんですよね?)
「判りました。今日こそ早く帰ってきます」
昨日の出来事は夢じゃ無い、もう虐められる事は無い筈だ。父との約束は絶対に守れる。
*
──D小学校
一時限目……教室は異様な空気に包まれていた。
黒板には大きな字で『自習』と書かれていて先生はいない。D小の生徒達は自分達を見ながら仲間内でヒソヒソ話をしていて、A小の生徒達は自分達を見ようともせずに無言で教科書を睨んでいる。
私は黒磯雪の席に座っている…………明菜に姿が見えない雪の代わりに此処に座っていて欲しいとお願いされたからだ。
「ゆ、雪乃? す、少しくっつき過ぎなのでは?」
「いいんだよ~、彩音ちゃん柔らかい~」
雪の席に座るなり隣の雪乃がすぐさま椅子をくっつけて来て、自分の腕に絡みついて離れなくなってしまった。嬉しいけれど、恥ずかしい。
──
一昨日の放課後の事件を知った先生達は雪乃の事を色々調べたらしく、昨日から彼女の席を雪の隣にした。雪の隣だった子は泣きそうな顔をしていたが、一昨日その場に居合わせていただけあって文句も言わずにおとなしく雪乃に席を譲った。
──
折角の機会なのに、笑うだけで何も話しをしないのは勿体無い。だけど同年代との会話経験が無い私には何の話をすれば雪乃が喜んでくれるのかまったく分からない。
懸命に話題を考えていると、一昨日から気になっていた事を思い出した。
「ね、ねえ雪乃? 貴方、私の事を『お姉ちゃん』って呼ぶ時があるけれど何故なの?」
雪乃はビクっと身体を震わせ、気まずそうに笑う…………
「う、う~んとね。私は彩音ちゃんの強さや優しさを尊敬しているし、私の心を見守ってくれるのは彩音ちゃん以外にいないって思ったの。それに本当は年下なんだもん。だからお姉ちゃんなんだよ」
(私が強い? 今まで散々虐められてきているのを知っているのに何を勘違いしてるのだろうこの子は……。それに今の話で疑問が更に増えてしまった。見守る? 年下? 意味が全く判らない。これは私がものを知らないからなのかな?)
「……ごめんなさい。私には難しくて判らない……貴方を大切にしたいって気持ちはあるのだけれど、貴方が言っているのとは違うのよね?」
頷く雪乃は困ったように笑っていて、本当に申し訳ないと思った…………彼女と自分の間にある知識の壁はとても高い………………
「今のは判らなくて当然だよ。これ以上詳しくは言えないけど、もう少し仲良くなったら少しずつ教えてあげるね」
雪乃は励ますようにニッコリ笑って元気をくれた。でも貰ってばかりは駄目なんだ……彼女や明菜ともっと仲良くなる為には昨日アリスに言われたとおり、自分も早く変わらなければいけない。それが出来て初めて《始めの一歩》が踏み出せるんだ。
(でも、変わるっていうのは難しい…………何をどうすれば良いんだろう…………)
結局会話を諦めて寄り添っていると、桜井智子が近寄ってきた…………何故か彼女の肩は震えていて、表情も緊張しているように硬い。
いつもと雰囲気が違うけど、私に何かするに決まってる。身体も同意見のようで、勝手に硬直して足が震えだした。
ところが彼女が私の前に立つ前に、イベントが発生した。──明菜が智子の行く手を阻むように私の前にスっと現れ、彼女に話し掛けたのだ。
「これからは彩音に指一本触れさせない…………」
明菜が自分を助けてくれようとしている…………夢じゃない、現実だ。
「……ごめん鈴白さん、少しだけ笹森と話をさせて欲しいのよ……」
(嘘っ!! あ、頭を下げた!? そ、そんな事出来たの!?)
深々と頭を下げる智子にビックリしていると、明菜はそんな彼女を睨みながら何秒か考え込む。そして道を開けて私の隣に立った。
「さ、笹森……」
目の前に立った智子はいつもの嫌な顔をしていない…………綺麗な顔だけに尚更怖い、これが一瞬であの恐ろしい顔に変わるのだ。
「は、はい……」
(どうしようどうしよう、なにか言いつけられるのかな? 怒られるのかな?)
声は弱々しい、表情もまだ変わっていないけど目線を合わせられない。合わせたら殴られる。
「い、今までごめんなさい!」
耳を疑ったが、またも深々と頭を下げた智子を見て聞き間違いじゃないと理解した。…………でも突然言われた予想外の言葉にどうすれば良いのか判らない。
「い、今までの事、許して……」
「………………」
智子から顔を背けた。
驚いた。本当に驚いた…………だけど考える事なんて何もないんだ。突然そんな事を言われても『はい、そうですか』とは言えない程我慢をしてきたんだ。
憎いとか仕返ししたい等とは思っていない、だけど許せるのとは違う…………ここで頷いてしまったら今迄の自分があまりにも可哀想だ。
「彩音? 駄目だよ。その態度は良くない」
横から明菜が優しい声で話し掛けてきた。
「桜井さんは、今すぐ全部許して貰おうなんて本気で思ってないよ。一日でこんな行動に出るなんてちょっと信じられないけど、この子の目は本気だ。本気でこれからはあんたをちゃんと見て行きたいと思ってて、今まで自分がしてきた事を謝りたいと思ってるんだ。でもこれはこれで勇気がいるんだよ。だからあんたはこの子の言葉を無視しちゃ駄目だ。許さなくてもいいんだ。ただ、ちゃんとこの子を見て何か返事をしてあげて……」
明菜の目は優しかった。彼女は私の為になる事を言ってくれている。
(明菜の言う事は正しいんだ。大丈夫…………明菜がちゃんと見ていてくれてる。逃げちゃ駄目なんだ)
智子に視線を向けて口の中に溜まった唾液を飲み込む。思った事を彼女に伝える為に勇気を振り絞る。明菜と雪乃の隣にいる為に、これは必要な事なんだと理解した。
「わ、私にはあ、貴方をすぐに許す事が多分出来ません。だって言葉でなにを言っても私は貴方が怖いもの……で、ですが、もし桜井さんがこれから私を人として見てくれるのなら、お、お願いします……」
頭を下げると智子は「ありがとう……それで充分……」と呟いた。その言葉を耳にして「ほっ」と気が抜けると、明菜に「えらいえらい」と頭を撫でられた。──思った事を口にして学校で褒められたのは始めてだ。
智子はそんな私達を見てクスっと笑うとそのまま教壇に立ってみんなに声をかけた。
「みんな! 聞いて欲しい事があるわ!」
D小の生徒達もA小の生徒達も今の自分達のやり取りを見ていたらしく既に智子に注目していた。
「今日からは、笹森を虐めるのやめて欲しいんだ」
『………………』
智子の一言に教室は静まり返った…………特にD小の生徒達はみんな目をまん丸にしていて智子に釘付けだ。
私には今日の智子の行動がまったく理解できない。昨日明菜に殴られておかしくなってしまったんじゃないのだろうか?
「あ、明菜? さ、桜井さんは今日変です」
「おい、これやばくないか?」
康太が静かに移動して来て明菜に耳打ちするが、彼女は彼に反応せずに智子をじっと見つめていた。
「いい彩音? 桜井を見ててあげて、これはあの子が決めたけじめなんだ」
明菜に手をギュッと握り締められたが、彼女が思っている事を共感することが出来なかった。けじめって何だろう? 智子はみんなにも何か悪い事をしていたのだろうか?
「──なに言ってんのあんた?」一人の女子が智子を睨みつけながら立ち上がった。
森田遼子だった。──彼女は智子のグループの一人で、いつも自分の虐め方を智子に耳打ちしている意地悪な子だ。
「笹森で一番遊んでたのは私らだけどさ、今じゃみんなで楽しんでんだよ。なに勝手に仕切ってんだよ」
「あ、俺聞いたぜ? お前、昨日六年生と笹森で遊んで鈴白と杉崎にやられたんだろ?」
いつも笑って見ている男子も立ち上がって智子に攻撃を始めた。智子は黙って下を向いて彼女達の話を聞いている。
「なんだよ? おもちゃ取り上げられちゃった。ゴメンナサイって話しかよ?」「ばっかじゃねーの? ウゼェよお前」「新井が黒磯に完全にビビッちゃったけど、笹森で遊ぶのおもしれーじゃねーかよ? だから昨日もやったんだろ? 俺達だって遊びてーよ」
次々にD小の生徒から罵声が上がり始め、教室の気温が上がり始めた。一方A小の生徒は沈黙を守っているが、罵声を上げている生徒に対し、苛立ちの表情を浮べていた。
「お願いします。笹森をもう二度と虐めないでくださいっ」
智子がみんなに頭を深々と下げると罵声は一旦静まった。そもそも彼女が人に頭を下げるなんて信じられない。D小の生徒達だって絶対驚いてる筈だ。
「智子あんた……笹森にお願いする時はどうしろって言ってたっけ?」
遼子がニヤニヤしながら智子に尋ねた。彼女の笑みを見てゾッとする……あれは私で遊ぶときの顔だ。
智子は下唇を嚙むと、ゆっくりと正座をして頭を下げた。
「お願いします。笹森にはもう手を出さないでくださいっ!」
「おー、ちゃんとおでこ擦りつけてんじゃん。えらいえらい……みんなぁどう思う? 智子の土下座なんて滅多に見られないよっ?」
智子に土下座をさせた遼子がみんなに意見を求めるが、帰ってくる内容は酷いものだった。
「ばっかじゃねーの? 意味判んないよ。智子っ」「そこまでやる? 杉崎君達に脅されてるのあんた?」「俺らのおもちゃが突然無くなるのもな~」「私もあの髪でモップやってみたかったのにな~」
「──まあ、笹森の代わりなんて誰も出来ないけど、おもちゃだけの役割だったら代わりがあるんじゃん?」
みんなを煽った遼子は最後に《おもちゃの代わりがある》と言ってみんなの言葉を止めた。
「ねぇ智子? あんた笹森守りたいんでしょ? 昔はあんたがバケモノだったもんね~、本気だったら出来んじゃないの?」
遼子はニヤニヤ笑いながら智子に近寄ると容赦なく頭を踏みつけた。智子は悲鳴も上げずにされるがままだ…………
目の前で起っている出来事が信じられない。まるで私と同じ扱いだ…………遼子は智子といつも一緒にいたから、親友なんだと思っていた。
(バケモノ? 桜井さんが? どういう事なの?)
遼子の発言はとても興味深い、でもそれを自分に教えてくれる人はいない。
「……………………」智子は身体をガタガタ震わせ、言葉を失っているようだった。──彼女の姿を見て身体が熱くなるのを感じた、みんなはこんなのを見せられて本当に楽しいのだろうか? 助けようとは思わないのだろうか?
「智子かぁ、いいかもね~、こいつが笹森にやらせてた事自分でやるんだから面白いかもね~」「ああ、いいんじゃねーの? 笹森よりは面白くないけど無くなるよりはマシだもんな」「黒磯君も言ってたジャン。笹森だけはって……こいつだったら問題ないよね」
(な、なにを言ってるの? この人たち…………)
「おい、みんなお前で我慢してやるって言ってるよ? 本気ならお礼でも言ってみせろよ」
遼子は智子の頭に乗せた足をグリグリ動かし、彼女に催促をした。頭を上げられない智子は震えているだけだったがみんなに聞こえるような大きな声を上げた。
「わ、わかりましたっ。私が今日から皆のおもちゃになりますっ。ありがとうございますっ」
智子が声を震わせながら自分の代わりになる事を宣言すると、教室内で歓声が沸き起こり拍手をする生徒まで出てきた。
(こんなのは馬鹿げてる! これが普通の人だって言うの? 私はミコトをこんな人達の中に入れようとしていたの!?)
開いた口が塞がらなかった…………これでは頑張ってみんなと仲良くなっても意味が無いじゃないか! 突然虐められるかも知れないじゃないか!
「な、なんで? どうしてみんな喜んでるの? 今まで桜井さんは仲間だったのよ? 桜井さんもおかしいわっ、なんであそこまでされて私を庇っているの?」
分からない! みんながなにを考えているのかまったく分からない!!
「桜井はさ、昨日本当に反省したんだよ。彩音ちゃんにしてきた事を…………で、今日からちゃんと君と付き合おうと思ってやってるんだ。あいつも普通じゃないよな、俺にはとても真似できないよ」
康太の話はあまり頭に入ってこなかった。もう智子が自分にとっての悪魔だった事なんてどうでもいい……。
(誰か桜井さんを助けてあげてっ! 次から次へと人を虐めるなんて間違ってるっ!)
「笹森ぃ~」──私の気持ちも知らずに遼子がニヤニヤと微笑みかけてきた。
「あんた、今日からA小専用のおもちゃなんでしょ? おもちゃの先輩として、智子になにか言うこと無いの? なんなら今までの仕返しをしてもいいんだよ?」
智子の惨めな姿を見ているのが耐えられない! 顔を背けようとしたら腕に絡み付いていた雪乃の腕に力が入るのを感じた。
「今逃げたらあの子達と一緒だよ。彩音ちゃんは違うでしょ? 『始めの一歩』を踏むのは此処なんじゃないのかな?」
ギョっとして思わず雪乃の顔を見た。(彼女は私の心を本当に読んでいるっ?)
「安心して、読んでないから…………。それよりほら、頑張ろうよお姉ちゃん。私に本当のお姉ちゃんを見せてよ」
(またお姉ちゃんって…………でも、言われた事は多分正しい。誰かじゃなくて自分が助ければいいのだ)
相手は今まで自分で遊んできた人達だ。傷付けないで済むのだろうか…………。でも決めたっ、私はこの場で生まれ変わる! もう一人じゃないんだっ!
大きく深呼吸をしてから席を立つ。そして雪乃と明菜に私の意思を伝えた。
「私の《一歩》、ちゃんと見ててね」
教壇に移動して智子と遼子の前で立ち止まる。自分を睨む遼子は相変わらず恐かった。自分なんかが意見して本当に良いのだろうか? とすぐに弱気が出てきてしまう。
「も、森田さん。さ、桜井さんから、あ、足をどけてください」
「仕返しでもすんの? あんたに指示されんのムカつくけどいいよ」
遼子は智子の頭から足を外すが、智子はそのまま震えていた。「もう大丈夫ですよ」と言ってあげたかったが、まだ私は何もしていない。そんな言葉を掛けられるような存在になっていない。
みんなの方へ身体を向ける。まずは話をしてみよう、こんな私の話しでも聞いてくれる人がいるかも知れない。
「み、みなさん、わ、私は今までいっぱい虐められてきました。それは私が……バ、バケモノだったからですよね? みんなもそう言ってたじゃないですか……な、なのになんでですか? どうして仲間の桜井さんを虐めて楽しんでるんですか?」
「──あんた本当に馬鹿だよね~」
女子の一人が呆れたように口を開き、身体がビクっと反応する。
(うううう…………此処まで黙っていたのだから、出てこなくてもいいじゃない…………)
小金原香が登場してしまった…………。楽しそうに私を見ている彼女は髪の短い可愛い子だが、遼子と共にいつも智子の側にいる危険人物だ。
彼女は気に入らないことがあると友達だろうが誰であろうがすぐに暴力を振るう。なにかの武道を習っていて、私はよく技の練習台にされている。
「確かにあんたは体毛と目の色違うし、とんでもなく頑丈だけどさ~、あんた鏡見たことある? 綺麗過ぎてムカつくんだよ。バケモノなんて誰も本気で思ってる訳ないじゃん。理由はみんな違うけど、私らなんかはその顔が歪むのが気持ち良かっただけなんだよ。まぁ、あんたにゃ負けるけど智子も綺麗だから、これからはこいつで我慢するけどさ」
「……………………………………………………えっ!?」
笑いながらの衝撃の告白に愕然とする…………よろめく身体を支えようと教卓に手を着く…………
(ちょ、ちょっと待って……。私、バケモノとして見られてたんじゃないの? みんなは人として見てくれていたの?)
「キャハッ!! 最高だよその顔、あんた自分がバケモノだって本気で思ってたんだね!? ねえ遼子~、やっぱ智子じゃ代わり無理じゃない? こんな面白い奴いないってっ!!」
私の表情に香が嬉しそうに大笑いを始めると、D小の生徒が一斉に私を笑い始めた。
あまりにも悔しくて目に涙が浮かんできた。身体がプルプル震えて治まらない。耳を塞いですぐにでも逃げ出したい…………
だけど教壇に手を着いたまま下を向いて我慢した。此処で逃げたり泣いたりするのは多分…………絶対に違うから。
「い、今、言われた通りです…………私は自分をバケモノだと思っていました。その為におもちゃにされてるんだとも思ってきました。痛かったです、辛かったです、悲しかったです…………みんなの言いつけで私から他の人に話し掛けるのは禁止されてました。いつも笑顔を作っていろと言われました。特定の日には汚れるからトイレに入るなと言われました。毎朝クラス全員に挨拶をして回るように言われました。もっともっといっぱい言いつけはありました…………。一昨日A小の人がこの学校に来ました。私と友達になってくれると言ってくれる人がいました…………昨日、遊ばれてる私を助けてくれました。私なんかを好きと言ってくれました。彼女達は初めから私を…………人として接してくれてました」
教室は静かだった…………香を含めた何人かは楽しそうにニヤニヤしているけど、こんなに沢山話をする私を見たことが無かった為か、他のD小のみんなは様々な表情を浮べていた。一方A小の人達はみんな真剣に聞いてくれていて、中には涙を浮かべてくれている女子までいる。
「──だから、A小のおもちゃになります。って話でいいんだろ?」
私の話は終わっていない…………だけど遼子が冷やかすように口を開くと、香達が声を出して笑い始めた。──別に驚かない。なんであろうと彼女達は私の事を見下していたし、今だって馬鹿にしていて、私の話なんて暇つぶしのようなものなんだろう。
本当に彼女達は分かっていない。私はもう貴方達に怯えてなんていない事をっ、外に出て初めて怒っている事をっ!
「そう思って貰ってもかまいませんっ! どうせ貴方に話したって無駄なのでしょう? 私は雪乃や明菜にこれからみんなが普通に知っているような事をいっぱい教えて貰います! 今までみんなが友達と覚えた事や遊びなんかもみんな教えて貰いますっ! …………私は自分がまともになるまで彼女達に縋ります。貴方達にどんな見られ方をしても構いません。ですがそのせいでA小の人達を馬鹿にするのは絶対に許しません。彼女達は貴方達なんかとは違う、今の桜井さんへの態度を見て判りました………………バケモノは私じゃなかった! 貴方達だったのよっ!」
「……お前、調子に乗り過ぎなんじゃないの?」
隣にいた遼子が私の胸倉を掴んで、悪意の籠った目で睨みながら顔を寄せてきた。
(こ、恐い…………でももう決めたんだっ、逃げない、躊躇わない!)
奥歯を噛み締めて遼子を睨み返す!
「……わ、私は貴方達のように人を傷付けたいと思った事はありませんし、争い事も大嫌いです。だけど貴方達は間違ってると思うから、私は今から桜井さんを守ります! 自分も守ります! だってそれは明菜達と肩を並べて歩んで行く為に必要な事だから!!」
右手を強く握り締めて高々と振り上げた。そして力いっぱい木製の教卓に叩きつける!
──パァァァァァァァァァァァァン!
音は予想していた重々しい低音ではなく、弾けるような甲高い音だった…………。遼子を含めた生徒達は私の初めての攻撃を見て硬直した。
みんなには音と同時に教卓が無くなったように見えたんだと思う。実際は粉砕しただけだから細かい木の屑になって、床に散らばっただけなのだが、破壊した瞬間は普通の人の目では追えなかった筈だ。きっと煙を上げて消えたと認識したに違いない。
ちゃんと例外もいた…………私の攻撃を曲芸とでも思ったのか、雪乃が一人だけ拍手をして喜んでいたのだ。私はその姿を見て一瞬気が抜けたが、すぐに気を入れ直して自分の胸倉を掴んでいた遼子を睨む。
「私が今まで我慢していたのは虐めの辛さだけではありません。抵抗して貴方達を傷付けないように自分も抑えていたのです。今のを見たでしょう? 一発でこうなんですもの……貴方達の身体はどうなってしまいますか? 今後も私に用があるのなら今まで通り言ってくださって結構です……ですが、もうバケモノの貴方達なんかに我慢なんてしません。教卓のように何も残らないでしょうから覚悟はしてくださいね? それと貴方達でも私の言葉が理解出来るのなら、桜井さんを虐めるのはやめてください。私は先ほどの光景を見るのが不快ですっ!!」
気持ちを込めてみんなに聞こえるような大きな声で言ったのに、目の前の遼子は硬直したままで反応してくれなかった。
『あ―あ―テステス……』
突然の校内アナウンスに遼子を含め、クラスのみんなは我に返った。遼子は震える自身の手を私から引き離し、その場でへたり込んだ。
(ゆき君? ど、どうしたのかしら。姿も見せないで……)
少し残念だった。頑張った姿を彼にも見て欲しかった。
『あ―あ―、皆さんこんにちわ~、五年三組の黒磯雪っていいます。A小から来ました。みんなこれからよろしく~』
(ゆ、ゆき君よね? か、軽いわ……まるで杉崎君だわ……別人かしら? き、きっとそうだわ!)
心の声に同意するように首を縦にブンブン振ると、遼子が小さな悲鳴をあげてブルブルと震えだした。
『えーっと、今、みんなは自習中だよな? 先生達はさっきまで職員会議をやってたんだ。それである連絡を帰りのHRで伝える事になったんだけど、お願いして僕から伝えられるようにして貰いました。だから今から言う事を絶対聞き漏らさないでください。…………五年三組に笹森彩音って美人がいるの知ってるかな? 髪が茶色い女の子だ。その子は一昨日、雪乃……審判の天使を審判モードに出来る人物と判明しました。彼女の為なら天使は一人で行動します。審判の天使を知らない生徒は、この連絡の重要性を含めてA小の連中に聞いてください……それと、笹森彩音にはもう二度と手を出さないで下さい。当人は確実に死ぬと思うし、みんなも巻き込まれると思います。 連絡事項は以上です…………ブツン』
「「「……………………」」」
校内連絡とは思えない内容に教室の空気は更に重くなった。自分の攻撃力を見せ付けた直後にこのアナウンスはあまり効力はなかったんじゃ無いだろうか?
後の事をなにも考えずに教壇に立った為、これからどうして良いのか判らなくなってしまった。…………困っていると、康太が出てきて私の隣に立った。
「彩音ちゃん頑張ったな。ここからは俺が仕切るから戻っていいよ」
彼を警戒して一歩距離をとると、自分の反応が理解出来ない彼は少し悲しい表情を浮かべた。でも、すぐに気持ちを切り替るようにして土下座を続けていた智子の横にしゃがみこんだ。
「桜井……頑張りすぎだよお前は……恐かったろ? 行動が直球過ぎて俺までビビッちまったよ。でも、今のお前見て、自分の悪さを認められるいい奴だなと思ったよ。良かったら俺と友達になってくれないか? 俺も彩音ちゃんと一緒にお前を守ってやるよ」
康太は智子に手を差し伸べたが、彼女は手をとらなかった──
「「「!」」」
康太自身を抱きしめた智子に絶句した…………今日の彼女はやっぱりおかしいと思う…………
「杉崎君……私、恐かった……恐かったよ……でもね、笹森にいつもこんな事してたんだよ……私どうしたらいいんだろ?」
「……そんな答えすぐに見つかんないよ。これからゆっくり彩音ちゃんをちゃんと見ながら考えていけばいいのさ……」
悪魔だった筈の彼女がとても可愛い…………本当の智子を殆ど知らない康太は嗚咽を漏らしている彼女の頭を気安く撫でているけど大丈夫なのだろうか? エッチな事をすれば多分殺されると思う。
康太達が注目を集めているうちに席に戻ろうと明菜と雪乃に視線を向けたら、そこでは更に驚くべき事態が発生していた。──な、なんと明菜がこちらに顔を向けたまま審判の天使の首を絞めていた!?
「あ、あ……きな……ちゃん? く、くるしい……くるしいよ…………」
雪乃が懸命にタップしているが明菜は気が付いていない。雪乃は本当に苦しんでる。
「おい明菜! な、なんて事してるんだよお前っ、は、早くその手を離せ!」
自分が近寄るより早く、近くに座っていたA小の男子がその事態に気が付いて、叫びながら明菜の手を雪乃の首から外してくれた。
「俺達を殺す気かよ! 自殺したいのならよそでやってくれよ!」
「あ、ああ……ゴメン……雪乃もゴメン……大丈夫だった?」
止めた男子が怒鳴っても明菜は呆けていた…………雪乃への謝罪にも気持ちが入っていないし、彼女らしくない。短い付き合いではあるがそう思う。
雪乃を一度抱きしめてから首を見ると、内出血でもしているのか真っ赤な手形が残っていた。こんなの絶対大丈夫じゃ無い。
「あ、明菜? どうしたの? 何があったの? 雪乃も大丈夫? 手形が付いちゃってるけど痛い? 保健室に行きましょう」
「………………」「は、初めて死ぬかと思ったよ……でも、もう大丈夫。手形もすぐ消えるから」
雪乃は首を撫でながら微笑んだ。とてもすぐに消えるとは思えないのに、彼女に言われると何故か大丈夫だと思えた。一方明菜は上の空で、康太の方を見たままだ。
「私の事なんかより、おめでとう彩音ちゃん。とっても格好良い《始めの一歩》だったよ?」
「えっ!?」
忘れてた…………確かに遼子やクラスのみんなに意見したし、教卓を壊して力を見せてしまった。今までの私には出来なかった事ばかりだ。
(踏んだんだ…………私は始めの一歩を踏んだんだ!)
震える身体を雪乃がギュッと包んでくれた。夢じゃない、この子の抱擁は暖かくて心強い。
(この子と明菜が背中を押してくれたからだ…………だから私は頑張れた)
「でも、彩音ちゃん凄いね? あんな事出来るんだ。私やゆきちゃんでも出来ないよ~」
「あんな事?」
雪乃が出来ない事を私がやった? 聞いた話ではこの子の力は教卓を壊すぐらい容易い筈なのに……
「あの教卓、《気》を全体に送り込んで壊したでしょ? ただ上から叩いただけなら下の方は残るし、あんなに綺麗に粉々にならないよ」
雪乃の説明に驚いた…………。私はそんな事を意識していない。
「《気》って能力に使うアレですか?」
「分かってないでやったんだ? 危ないな~、一昨日ゆきちゃん叩いた時にそれやってたら、ゆきちゃん全身が粉々になってたよ~」
雪乃はケタケタと笑うが、こっちは血の気が引く…………さっきはああ言ったけれど本気で人を叩くつもりなんてない。もし雪が教卓みたいになってしまっていたら、私は…………
(違う! 一昨日は軽く引っ叩いただけだ。今のとは全然違う!)
忘れよう…………一昨日のことは無かったことにするべきだ。
「そ、そんな事より、明菜はどうしたんです?」
「う~ん判からない……突然こんな風になっちゃったんだよね~」
ぼ〜としている明菜を見ながら二人で悩んでいると、みんなの救世主となった男子が話し掛けてきた。
「お前ら、本当に分からないのか?」
「「え?」」
男子は呆れるように私達を見ている…………こ、これは分かっていないといけない事なのだろうか? でも雪乃も分からないって言っていたし…………
「お前ら親友なんだろ? いいから康太を連れてきてみろよ…………って今は無理かな」
男子は智子に抱きつかれてる彼の様子を見て大きく息を吐いた。
「……まぁ、明菜は大丈夫だから、暫くほっとけよ…………天使は近づくなよ?」
明菜のこの状態にはちゃんとした原因があるらしい。彼も暫くすれば治るようなことを言っていたし、見守っていよう。
「──うぉあ! こ、康太っ、いくらなんでも小学生でそれは無いだろう!」
教室に戻ってきた雪が康太の状況を見て瞬時に叫ぶ。──ふふ、あんなふうに驚くのね……ちょっと嬉しいかも…………
「そ、それって何だよ? 違うよ! し、しかもお前にだけは言われたくねーよ!」
康太は真っ赤になって反論すると、智子に優しく話し掛けた。
「桜井? そろそろ大丈夫か? 心配すんな、お前は虐められないよ。彩音ちゃんがお前を守ったんだ。安心して席に戻りな」
康太の言葉に智子は頷いて、抱きしめていた腕に一度ギュッと力を入れると自分の席に戻っていった。
(やっぱり杉崎君は優しいわ…………そんなに不潔に見えないのだけれど、隠してるのかな……)
康太は私がなにを思っているのか知る筈もなく、私に手を振るとみんなに話し掛けた。
「あ―コホン……まぁみんな! この時間も色々あったけど、締めはさっきのゆきちゃんの放送でいいよな? まあ彩音ちゃんや桜井だけでなく、虐めは無しって事で本当に頼むぜ?」
D小のみんなは複雑な表情を浮べて私や智子をチラチラと見ているが、誰も反論を口にしなかった。──そして雪は教卓だったものをジッと見ていた。考えてみたら、事の成り行きを知らない彼が『私が教卓を壊した。』とだけ教えられたら、私は彼の中で暴力女と認識されてしまうんじゃ無いだろうか?
「明菜? どうし」──バキッ!
「う、うるせーんだよ! マセエロガキがぁぁぁっ!!」
近づいてきた康太は間違いなく様子のおかしい明菜を心配していた。それなのに明菜は罵声と共に拳を彼の顔に炸裂させた。
もしかしたらこの二人は友達じゃないんじゃ無いだろうか? 幾ら康太がエッチでも、今のはあんまりだと思う。
「あ、あきな? 女の子として、その顔はい、いけないわ……」
暴力の事は一先ず置いておいて、取り敢えず顔の事だけは注意した。だって特殊なメイクでもしたようなその恐ろしい顔は、とても女の子がしていいものでは無かったんだもの…………
彼女は数回肩で息をすると、元の顔に戻った。これは特殊能力なのだろうか? それとも自分が出来ないだけで普通は出来るのだろうか?
「ったく……あんたが女子に抱き付かれるなんて、一〇〇年早いのよっ!」
一方、雪も自分の席に着くなり驚愕の声を上げた。
「ど、どうしたんだ雪乃っ、その首っ!」
「おかえりゆきちゃん。ああ、大丈夫だよ。さっき明菜ちゃんに絞められだけだから~。凄かったよ? 初めて死ぬかもって思ったモン」
ケラケラ笑う雪乃は本当に大丈夫そうだ。だけど説明を聞いた雪は信じられないっと言った表情を浮かべて明菜を見た。
「鈴白……お前って本当に凄い奴だよ…………」
*
帰りのHRが終わり、私は明菜・康太と一緒に雪と雪乃の席に集まった。
「もう、彩音は大丈夫だね~、良かったよ本当に…………暫く他の連中とかちょっかい出して来るかと思ってたからさ~」
喜ぶ明菜に抱き締められて頬ずりをされる。恥ずかしくて頬が熱くなったけど、彼女の気持ちが嬉しくて暫く好きにさせようと思った。
「いや~ゆきちゃんも校内放送なんて良く考えたな? その前に職員会議って言ってたっけ?」
康太の質問に雪はクスっとなにかを思い出すように笑い始めた。
「ああ、今日の朝さ、雪乃の事で僕の父さんがお世話になってる人に学校へ連絡して貰ったんだよ。それで校長が緊急職員会議を始めて僕も呼ばれたんだ。先生達の慌てた顔、結構面白かったよ」
「そ、そうだったんだ…………。でも残念だったな? お前がいない間、彩音ちゃん凄く頑張ったんだぜ? 見せてやりたかったよ」
話しをしながら康太が軽く自分の肩に手を触れようとした。──もちろん私はさっとその手をかわす。
「「………………」」
康太は目を丸くして私を見てるけど、私は何も無かったように視線を逸らして雪を見た。
笑っていた雪は面白くなさそうに唇を尖らせていた…………もしかしたら雪は私が頑張ったところを見たかったのかな?
「ね、ねえ? 彩音ちゃん?」
康太はやり過ごしてくれなかった…………どうしよう、目が合わせられない。傷付けてはいけないし…………
「な、何ですか?」
「も、もしかして、俺、嫌われてる?」
「そそそそんな事! ああある訳がありません! わ、私も杉崎君の事は良いお友達だと思っておりますですよ? わわわわ私は貴方達の為だったら何でも……………す、杉崎君のご要望にはお応えできないかも……私まだ一〇歳ですし……決まっていますし……で、でも、それがいいって言う男性もこの世にはいるとかいないとか……」
駄目だ。なにを言っているのか自分でも判らない……。どんどん顔が熱くなってきて、その顔を見られるのが恥ずかしくて俯いてみたが、それでも場に耐えられなくて両手の指を弄って気を紛らわせる事にした。
「こ~う~た~。彩音に何したんだよ? 要望って、なに言ったんだよ?」
「い、いや……待て、待ってくれ……俺は何も…………」
明菜に睨まれた彼は両手を振りながら後ずさる………………。困った、私の為に二人が喧嘩をするのは嫌だ。
「本当にどうしたの? ちゃんと教えて? 康太は私が止めを刺すから安心していいのよ?」
「……じ、実は昨日、明菜の言葉で『壊れる』の他にも分からないものがあったので、お父さんに教えて貰ったんです……」
「そうだったんだ。ゴメンね、今度からはその場で聞いてね、ちゃんと教えてあげるから……それでなにが分からなかったの?」
私に向けられる明菜の声は優しいけど、悲しそうな顔をしてる。昨日私が誤解してしまった時の事を思い出してしまったのだろう。
「はい。先程も明菜が使っていたのですが、『ませえろがき』が分からなかったのです……」
「「「えっ」」」「あっそう言えば使ってたね~、あれ何なの? 私も知らないや」
明菜・康太・雪の三人は気まずそうな顔をして互いの顔を見ていたが、雪乃だけはワクワクしていた。
「そ、それをお父さんに聞いたの?」
「はい、最初はお母さんに尋ねたのですが、お母さんも知らなくて……」
明菜はすっと私から離れ、何故か廊下に一番近い場所に移動した。
「どうした明菜? 顔色悪いぞ? まぁもう少し彩音ちゃんの話を聞こうじゃないか?」
ムンズと明菜は康太に肩を掴まれた。明菜を睨む康太は何故か涙を浮べている。
「えとですね……お父さんに教えて貰ったのは──」
──父に教えて貰った事、言われた事を全て伝えた。
「「「………………」」」「きゃはははは、そう言う意味だったんだ~、でもお父さん優しいね? 引っ叩くだけなんでしょ? 私だったら多分大変だよ~ あ、でもさっきの教卓と同じ事すれば、引っ叩いても一瞬で粉々だね~」
三人は真っ青になっていたが、雪乃だけ顔を真っ赤にして楽しそうに大笑いをしていた。──私の話しで雪乃が楽しんでくれたのは嬉しいけれど、きっと喜ぶところじゃ無いわ。
「あ~き~な~」「ヒイッ」
明菜の胸元を掴んで、彼女に顔を近づけて睨む康太は泣いていた。
「良かったな康太。お前は笹森の両親に一番最初に覚えて貰ったクラスメイトなんじゃないのか?」
「た、確かにそうかもしれません……クラスメイトのお話なんて、お父さんとは初めてでしたから」
康太の涙は留まる事はなかった。
「なぁ明菜? お前は俺に何を求めているんだ? 土下座か? 服従か? これって虐めって言わないか? なんで彩音ちゃんを女神宣言したその日に、彼女の家族にエッチな同級生って覚えられなきゃならないんだ?」
「ゴ、ゴメン……ほ、ほら、私あの時完全にキレちゃってて……今でもそんな事言ったかなー? って記憶も曖昧なんだよね~、えへへ」
「えへへ、じゃねーよ! 今だってお前達と同じように肩に手を置こうとしちゃったじゃないか! 触ってたら親父さん公認で首飛ばされてるか教卓みたいに粉々になってたよ!」
二人のもの凄いやり取りを見て不安になる。自分が言葉を知っていれば…………
「あ、あの……お父さんの教えてくれた事って違うのですか?」
今の私に言葉の勘違いは結構辛い…………明菜はそんな私の不安に気がついてくれたのか、康太の手を無理矢理外すとギュッと抱きしめてくれた。
「違う! 大丈夫嘘じゃないよ。でもね彩音、康太はそんな奴じゃないの……私が言ったのは悪口なの。例えば馬鹿じゃないのに、相手の事を馬鹿って叫んでみたり……貴方が言われてたバケモノも悪口なんだよ? だってみんな、綺麗な貴方が羨ましくて悔しいから言ってただけなんだ」
「悪口ですか……言葉をそんな使い方されたら、私いっぱい誤解しそうですね……では、杉崎君はエッチじゃないんですか?」
「うん。彩音が慣れるまで出来るだけ言葉には気を付けるから、おかしいと思ったらその場で聞いてね? 康太のエッチは……まぁ、ゆき君もだけど五年生のみんなと同じぐらいだと思うよ? 年上の人のとは違うから安心していいよ」
「そうだったんですか…………良かったです。私を守ってくれるって言っていた人が、私をそんな風に見ている人なんだと思ってしまいました。朝お父さんに教えて貰った時、とても悲しかったです」
「あのさ、さりげなく僕の名前も出たんだけど、そう言う話は女子だけでしてくれないかな?」
雪が頭を掻きながら照れ臭そうに口を挟んてきた…………そう言うものなんだ。
「そ、そうだよね~。ねえ彩音? 今度クラスの女子が集まった時にこういう話とか男の子の話をしようっ」
「は、はい。明菜とゆき君がそう言うのでしたら……なるほど……そういうものなのですね」
良かった、康太はいい人だった……。安心するとなんだか可笑しくなってきた。
「ごめんなさいね杉崎君。私また誤解していたみたいです。改めて、これからよろしくお願いします」
「あ、うんよろしく。でも良かったよ……審判モードがある雪乃ちゃんと違って、覚悟も出来ずに突然首を飛ばされるなんて恐ろしいからな~。もし俺に不安を感じたら多分誤解だから、必ず明菜に確認してくれよ?」
「はいっ!」
康太の笑顔、明菜の笑顔、雪乃の笑顔、雪の笑顔……みんな私に向いている。私もみんなに自然な笑顔を見せている。
笑顔は作るものじゃない、悲しみを隠すものでもない、こうして笑うものなんだ。みんなといればいつだって今みたいに笑えるんだ。
(ミコト……お姉ちゃんはこの人達のお陰で《始めの一歩》を踏めたわ…………)
この人達は貴方を絶対に幸せにしてくれる。お姉ちゃん見捨てられないように頑張るから、楽しみにしていてね。