蒸気フリゲート艦ネメシス号はアンドレアと共に
習作です。
自分の好きなもの全部突っ込んだらこんな感じ。
戦列艦っていいですよね!
蒸気機関っていいですよね!
戦う女の子ってサイコー!
そんな勢いのお話です。
「艦長、まもなく変針点です」
アンドレアの顔を湿った風が当たった。彼女は濃い霧の中、海を見つめていた。
当直の交代を告げる鐘の音が静かに響き、交代の水兵たちが船倉から甲板上へと集まってくる。
アングリア海軍帆装蒸気フリゲート艦ネメシスは、煙突から低く白煙を吐き出しながら、大海原を悠然と進む。海はところどころ白く波が立っているが、彼女の経験から言ってもかなり穏やかだった。
三年前。
旧教再興の為だと愛国派の議員が言ってきたのはそんなに昔のことではない。連合法で信教の自由は保証されているとは言え、旧教見直しの機運が高い今でも「旧教」への風当たりは強い。
アンドレアは獲物の気配を感じていた。
先の湿った風。旧神がもたらす「声」だ。
ある者は魔法といい、ある者は軌跡だと言った。
忘れられかけている彼らの声なき声こそが彼女の最大の武器だった。
アンドレアは心の中で微かに気持ちが高ぶるのを感じた。
――三十分以内には接敵する。彼女の勘がそう告げていた。
初めて抱いた健気な高揚感。
フェアライト島の漁村で漁師相手に風を売っていた見習い祭司には戻れそうにないわ。
薄っすらと昔――時間の流れがゆっくりとしていたあの頃――を思い出す。
だから当直士官であるトンプソンの報告も聞こえなかった。
「艦長? 進路を東北東に」トンプソンが怪訝な顔つきで言った。
「ああ、すまない。下手回しの詰め開きだったな」
「進路、東北東、アイ・アイ・マム」
アンドレアは努めて海軍軍人たらんとしていた。
敵艦隊捜索の哨戒任務。与えられた海域を往復し、虱潰しに探していく。そのための変針だった。
掌帆長の怒鳴り声が響くと水兵たちはマストによじ上り、索具を動かす。
マストの向きが徐々に船体と平行になる。マストが風を掴むとネメシスは風を受けてゆっくりと旋回し、舳先が大きく傾いた。帆船がその姿を最も誇示する瞬間だ。
「舵中央」小さな操舵手が自分の背丈ほどある舵輪を回す。
「ミスタ・トンプソン、副長を起こしてくれ」
「また敵、ですか」
彼女が副長を意味もなく呼ぶことはない。そして、こんなふうに彼女が思い出したように副長を呼びつけるときは、大抵何かが起きる時だとトンプソンは短い航海の中で分かり始めていた。
「敵の匂いだ。海水の匂いが変わった。近い」
「アイ・アイ・マム」
しばらくして、副長のヴァンスが完璧な士官服の着こなしでやってきた。
「お呼びですか」
「ミスタ・ヴァンス、総員戦闘配置だ。右舷からしかける」
出し抜けに彼女は言った。ヴァンスは自分が彼女の神のお告げに付き合わされるのだと理解した。
「報告によると、泊地を出た敵艦隊は少なくとも百二十門艦一隻を含む戦列艦数隻で構成された強力なもので……」
二等海尉のトンプソンがすかさず『助言』するも、アンドレアはそれを制した。
アンドレアがトンプソンに黙れと言わんばかりに目線を向けた。彫りの深い顔のせいもあって女とは思えないほどの気迫だった。
陸で会ったなら素敵な女性だっただろう。しかし、今はネメシスの中で男に混じって指揮を執る謎多き艦長だ。
おまけに旧教では神々の子孫と呼ばれる人間とあってはますます近寄りがたいだろう。
ヴァンスは物分かりが良さそうに装うことにした。
「ミスタ・ヴァンスは艦橋に。ミスタ・トンプソン、君は下で砲の指揮を頼む」
「総員戦闘配置、アイ・アイ」
百数十名いる乗組員の全てが慌ただしく動き、各々準備を完結しようと必死に動き回っていた。ハンモックは全て丸められてマストの周りに縛り付けれられ、甲板上にはもちろん、通路という通路には滑り止めの砂が撒かれた。
両舷の副砲には砲手が各々張り付き、炸薬を破り、砲弾を装填し、信管を取り付ける。
「速くしろ! 合図があるまで誰も撃ってはならん!」
全ての人間が配置に付くとそれまでの喧騒はどこかに消えてしまった。まるで皆喋ることを忘れてしまったかのように押し黙り、不気味なまでの静けさがそこにあった。
雄叫びをあげようものなら、後でムチ打ちが待っている。よく訓練された水兵たちは死の恐怖を飲み込み、じっと耐えていた。
甲板上ではアンドレアがじっとマストを見つめていた。
「蒸気式弾道計算機関はどうだ?」
「ボイラー圧力は低いですが正常に作動しています」
伝声管を通して機関長が答える。
深い霧がネメシスをすっぽりと覆っていた。突然の戦闘配置から十分が経過したが一向に敵が姿を現す様子はない。
皆、アンドレアの「魔法」を目にするのは初めてだった。大半の人間は半信半疑だ。
旧教に由来するその力は、宗教の影響力が低くなった現在でも異端視されている。信者の最も多いと言われる国定新教ですら、その教義を厳格に守る人間がほとんど居なくなったのにもかかわらず。
時間が経つに連れて兵達に不信感が募るのも無理の無い話だった。
「艦長はやはり……」
「ばかやろう、黙ってろ」
艦内にひそひそ声が響く。掌帆長がたまらず鎮めた。
皆の視線がアンドレアに集中する中、彼女は自らの銀色の髪を一本引き抜くと、風に載せるようにそっと落とした。
髪が甲板に落ちるより先に一陣の風が甲板上に吹いてた。髪が霧の中に吸い込まれる。
風が吹くことによって前方の霧が晴れ、一マイル先まで見通せるまでになった。
「右舷前方にマストが見える!」
そのときマストの見張り台から叫ぶ声が聞こえた。
アンドレア以下甲板上の士官は望遠鏡を取り出し、そちらの方を見る。
「バタビア海軍旗!」
アンドレアの隣にいた二等海尉のブラウンが叫んだ。
霧にたなびくオレンジ・白・青のストライプ。
きりに紛れてはいるが間違いない。三本マストの喫水の浅い船体、特徴的な艦尾の装飾、そしてバタビア海軍旗。
むこうの甲板には水兵がマストを登っているのが見える。まだこちらに気づいてはいない。
アンドレアは敵の艦尾を見た。そこには通常、船名が記されている。
レユニオン、確かにそう読めた。間違いない。
「レユニオン号、バタビアの四四門フリゲート艦です」
ヴァンスが確認するように言った。もはや乗組員たちに迷いは無い。
「取舵一杯、右砲戦用意」
アンドレアの命令が下り、ヤードに戦闘旗が上がる。
「測距しろ。主砲攻撃始め。交互打ち方」
巨大な砲塔がゆっくりと回転して筒先を敵に向ける。煙突から一際黒い煙が大量に吹き出す。鉄の軋む音と、蒸気の漏れる音が響く。
この主砲は来たるべき一大海戦に向け、海軍がアングリアの持てる蒸気技術の全てを結集して開発したものだ。
揺れる海上で遠く離れた目標を正確に射抜くのはどんなに技量を積んだ水兵でも容易ではない。
そのため従来の艦砲は口径の比較的小さいものを両舷に多数配置することによって、個々の命中精度のばらつきをを補っていた。
そこで頼りにされたのは砲手一人ひとりの職人的技術だった。
だが、これはちがう。
弾道計算機関と連動することで、公算射撃が可能となった。距離と方向、彼我の速度さえわかれば機関が導き出す答えによって全ての砲が正確に敵を攻撃できるようになったのだ。
さらに、大口径砲の弱点の一つ、再装填時間の長さも半自動装填装置によってかなり短縮することが出来るようになった。
揚弾機が弾薬庫から砲弾を持ち上げ、主砲要員によって装填される。攻撃準備完了までに一分もかからなかった。
「主砲打ち方始め」
「よーい、てー!」
静寂を破る轟音。
砲声が辺りにこだまし、発砲炎が霧に反射して辺りを明るく照らす。放たれた四つの砲弾は流星のような軌跡を描いて、敵艦に吸い込まれていく。
数秒後、着弾。水柱が敵艦の手前に二本、艦首方向後ろ側に二本立ち上る。バタビア艦は水しぶきに洗われた。
「初弾で挾叉とは……」
聞いていた性能以上だ。ヴァンスはこれでは副砲の出番はないなと、望遠鏡の風景を眺めながら思った。
ネメシスからの発砲を受けたレユニオンは進路を反転風下に向かってどこまでも逃げる。
「追撃だ、第二射準備出来次第発砲してよし」
程なくして主砲が再び唸りを上げる。二発の砲弾が敵艦の右舷艦首寄りと、艦尾に命中した。メインマストが倒れる断末魔の音と、オーク材が爆ぜる音が聞こえた。
レユニオンは完全に行脚を止めていた。それはひとつの船の終焉だった。
今や、外洋でアングリアの装甲艦に立ち向かうことの出来る軍艦などどこにも存在しなかった。
産業革命はアングリア海軍の発展を加速させた。
産業革命以前、既に強大な海軍を誇っていたアングリアだったが、短期間での急激な造船計画によって、国内の木材が枯渇してしまった。その結果造船計画が滞り、船の就役も遅れるようになった。
そこに、新しく装甲艦が誕生した。
木材の消費は少なく、装甲は従来のオーク材よりもはるかに頑丈、そして風の影響を受けずに航海が可能な軍艦。海軍上層部はいち早くこれに飛びついた。
アングリア海軍は世界に先駆けて、従来の木造船を廃止するに至った。
外洋航海可能な装甲艦を纏まった数揃えているのはアングリアだけだ。長期の航海を可能とする良質な鉄鋼や、最新の蒸気機関。
なにより汽船は航海のたびに大量の石炭を消費する。その石炭を補給する港を世界中に持っているのはやはりアングリアだけだった。
それに対して大国と呼ばれる国でも装甲艦の開発は難航し、世界的に見ればまだまだ戦列艦の時代だった。
ここにアングリアの世界覇権は決定したのだった。
ネメシスはぐんぐんとレユニオンとの距離を縮めて近づいた。
「おめでとうございます。見事な勝利です、艦長」ヴァンスがいくらか形式的な祝辞を述べる。常勝が基本のアングリア海軍では戦の作法の一つだ。
「まだだ。これより敵艦を拿捕する。各自武器を用意しろ。右舷副砲の一斉射撃の後、突貫する」
甲板では小銃を手にした海兵隊員や縄梯子を準備する水兵でごった返していた。中には年代物のカトラスまで手にしている者までいる。みな勝利の報に沸き立ち、口々に、国王陛下万歳、とか艦長に勝利の栄光を、といった言葉が飛び交っていた。
だが、悪い知らせはいつも見張り台からもたらされる。
「本艦進行方向に敵戦列艦多数!」
見ると前方数ケーブルの所に敵戦列艦が戦列をり、追い風を受けてこちらの左舷に回りこもうと突進してきていた。
罠なの? アンドレアは顔を歪めた。
敵は今にも発砲してくるだろう。今から主砲を旋回させる余裕はない。そして副砲は両舷とも射程の短いカロネードだ。いくら旧式化したとはいえ、戦列艦の斉射を受けて無事で済むフリゲート艦などない。
おまけに風下のレユニオンを追っていたネメシスは、新たに出現した敵艦隊から見て風下に回ってしまった。
追う者が追われる者になった瞬間だった。
兵を乗り込ませる前に敵を発見できたのは幸いか。
いや、そもそも拿捕せずに沈めていれば……。
今は逃げなければ。撃沈は免れない。
「両舷前進全速!」
だが、その一瞬の逡巡が命取りだった。
「敵艦隊発砲!」
「士官以外は伏せろ!」
ヴァンスの叫び声がかろうじて間に合った。
左舷前方から無数の光が瞬くやいなや、あたりを砲弾が掠める鈍い音が響き、数秒と待たずに甲板上に最初の砲弾のぶち当たった。
左舷艦首から入った砲弾は船倉を暴れ回り、辺りの材木をひとつ残らず刺々しい凶器へと変え、連鎖的に犠牲者を産んでいった。
甲板上は血とうめき声であふれていた。
幸運にもヴァンスの声が届き、伏せることが出来た人間や、装甲に守られたは艦橋に居たものはほとんど無事だったが、遮るもののない甲板上には不幸にも逃げることが出来なかった犠牲者たちがそこら中に肉片をまき散らして横たわっていた。
アンドレアは自分を責めた。初の哨戒で意気込んでいた。自分の人智を超えた力も過信していた。
敵艦を拿捕したとなれば、自分の名誉も回復できるし、拿捕船回航時には副長を船長にしてやることだって出来た。拿捕船を連れて帰港することがいかに名誉な事で出世に響くかは皆知っている。
だが、今の自分は敵の罠にハマり、今にも沈みそうな船の艦長だ。
「私のせいで、私のせいで部下が……」
アンドレアはすっかり歳相応の淑女に戻ってしまったかのように落ち込んでいた。
アンドレアは膝の力が抜けて、がくりとその場にへたり込んでしまった。
「艦長しっかりしてください。アンドレア!」
「艦長、まだ戦えます! 次の斉射まで時間が多少あります。敵射程の外に出ればこちらの主砲でアウトレンジできます」
アンドレアの腕を支え、猛烈な水しぶきの音と砲声に負けないよう、ヴァンスが叫ぶ。
だが、ただの少女に戻ってしまった彼女には届かない。
――歌え、我が子よ――
誰かの声、金属の弾ける音と、怒号に混じって聞こえる……。
――思い出せ、海の支配者! お前の祈りによってアングリア千年の至福は約束された――
そうだ、私は願った。この国の繁栄と平和を。
その為に戦うと決めたのだ。たとえ、新教の者には理解されなくとも。
だから、もう迷わない。
だからさあ歌うんだ。
アングリア旧教祭司にして、大海の支配者、初代フェアライト・オブ・ノースショア女公爵アンドレア・フェアライト!
「風よ吹け、雲よ閉じよ――」
アンドレアはゆっくりと歌い始めた。
すると、彼女の歌声に呼応するかのように風が止み、やがて風向きが変わった。
「風向きが変わった……」
ヴァンスが信じられない物を見るような目で見ていた。海軍生活十年でここまで天候が急変することはほとんど無かった。ましてや、こんなに都合よく天候が変わるわけがない。
彼女の歌が韻を踏むたびに風が強くなっていく。大きな波がうねりを上げる。
突然の天候の変化にバタビアの艦隊は戦列を崩す。風向きが変わり失速したのだ。さらに海は大いに揺れ、砲の狙いも定まらない。
次に行われた斉射はネメシスの船体をかすめこそすれ、当たることはなかった。
彼女の頭から三角帽がこぼれ落ちた。
彼女の銀髪がみるみるうちに伸びてたちまち膝に届くまでになった。彼女の透き通った声は数マイル先まで届いていたと、後にバタビアの兵士も証言している。
その時の彼女の身に何が起こったのか誰にも分からなかった。
「艦長!」
「今度はこちらが風上、裏帆をうって失速している頃よ……。そろそろ暴風を受けて喫水線より下を晒し出すわ――」
アンドレアはコンパスにしがみついて唸るように言った。肩で息をしながらかろうじて意識をつないでいる有様だった。
蒸気機関を搭載した装甲艦ネメシスは風の影響を受けずに航行できる。こうなっては敵はこちらに近づく事も出来ない。
主砲塔が旋回し、敵艦に狙いを定める。
アンドレアが最後に見たのは、暴風で今にも横転しそうなほど傾く敵先頭艦の脇腹に、砲弾が低く弧を描いて吸い込まれていくところだった。
「守って……この船を……」
敵が悪あがきで放った最後の一斉射撃が水柱を作りネメシスを大いに揺らした。
アンドレアは気を失い、倒れこんだ。
どのぐらいそうしていたのだろう。アンドレアはもうとっくに自分は死んでいると思っていた。
気がつくと艦長室のベッドの上だった。軍医のキールがアンドレアが目を覚ましたのを見て安堵する。
「ドク、今度は腕? それとも足?」アンドレアが上体を起こしぶっきらぼうに聞く。
「外傷はありません。だからどこも切断する必要はありませんよ」
「そうか……」アンドレアはあからさまに安心してベッドに再び身を委ねる。
「……って、敵はどうなったのよ!」
アンドレアが急に怒鳴る。敗北の怒りと悲しみがこみ上げて、アンドレアは泣きそうになった。
そこへ副長のヴァンスがやってきた。三角帽に軽く手を当てて敬礼しアンドレアの耳元までやってくる。
「艦長、早速のところで申し訳ないのですが、敵が軍使を送って来ました。降伏を要求しています」
「それで私は海の精霊にならずに済んだのね」
海の精霊とはアンドレアのような旧教の人間が死後になると言われている存在だ。
「今は旧教の皮肉を言っている場合ではないです。『貴艦の勇猛果敢なる戦いぶりに敬意を評し、ここに名誉ある降伏を提案する』と」
ヴァンスはバタビア語で書かれた手紙を見せた。いかにもバタビア人らしい、芝居がかった手紙だ。
「ネメシスの状況は?」
「最悪です、マム。左舷に複数の開口部、メンマストもやられました。さらに我が方は死傷者多数です。海尉も三名戦死しました」
マストをやられては帆走できない。次の寄港地まで石炭が持つかどうかは未知数だ。さらに海尉を三人も失ったとなれば、指揮系統に支障が出ることは確実だった。
さらに戦いを続ければおそらく誰一人として帰ってこれないだろう。
「どんなことがあっても、敵に私のサーベルを預けるつもりはないわ」
ヴァンスがはて? 漏らした。
「どうやら、あなたは勘違いをなさっているようです」
アンドレアはどうも腑に落ちない。
「降伏するのは向こうの方ですよ。艦長」
向こうだって?数的有利は相手が握っていた。戦闘の推移もこちらの形勢不利だったような……
「あなたが倒れてから、戦闘はこちらが一方的に攻撃を加える形で推移して行きました」
ヴァンスは極めて冷静に状況を説明した。
「風向きが変わった後の五分間、我々は主砲で敵戦列を砲撃。結果、敵先頭艦および二番艦は喫水線下に主砲弾を浴びて撃沈。三番艦のリシュリューは舵に舵に直撃を受けて、停止。五番艦以降の艦は戦線を離脱しました」
なんという事なの……。
「つまり、私は単艦で敵戦列艦二隻を沈め、戦列艦リシュリューとフリゲート艦レユニオンを拿捕したというの?」
「大ざっぱにまとめるとそのように」
ヴァンスは肩をすくめた。
アンドレアは年頃の女らしい口調を直すのも忘れていた。
「私がいなかった間の指揮は?」
「私が取りました。艦長」
なんという事だろう。破滅しかかった艦を勝利に導いたのはこの眼の前の男なのか。
「改めて、おめでとうございます。海軍史に残る大勝利です。次の海軍詳報がなんと書くか楽しみです」
いつもどおり、顔色一つ変えず、極めて儀礼的に祝辞を述べた。
無関心と冷静さが同居した顔。だがそれが仮面であることを今のアンドレアは知っている。
多くの人にとって、模範的なアングリア海軍軍人とは彼のことだろう。だが、海戦の只中で彼が見せた表情こそが、本当の彼の姿なのだとアンドレアは思った。
アンドレアは、そんな事を考える自分が恥ずかしいような感じがして頬を染めた。
「君に頼みがある、その……、良ければリシュリューの回航は君に頼みたい。今回は君の手柄のような物だし」
「本当ですか。これ以上ない名誉です」
彼はこれで海軍内でも安心して出世コースに乗れるだろう。コネで館長になった、女の私よりも早く昇進するんじゃないかとアンドレアは思った。
「それとレユニオン回航の名誉はミスタ・トンプソンに。彼の言葉にもう少し耳を貸すべきだった……」
だがヴァンスは曖昧な表情を浮かべて答えた。
「彼は戦死しました」
「え……」
「最初の斉射です、彼は最後まで職務を全うしました」
アンドレアはいたたまれなくなった。彼の家族にはなんと説明すればいいだろう。彼だけではない。三十名近い死者、死にはせずとも四肢の一部を失った者。
私はアングリアを守るために戦っていたのに、結局アングリアの民を死なせてしまった。
五年続いた戦争はまだまだ終わらないだろう。
アンドレアはしばらく言葉も出さずに泣いた。
自分の当初の判断、敵の反撃、突然の暴風、そしてトンプソンの死。
航海日誌にはなんと書こうか。アンドレアには考える時間が必要だった。
その後ネメシスは根拠地であるリイドに寄港し、拿捕船を引き渡すと再び哨戒の任務につくのだった。