訓練の成果
「ザイエティ捜査官」
見た事もない青い花が描かれた白の陶磁器に、まだ湯気の立つ薬茶を注ぎ入れる。
口回りを金で縁取られた美しい茶器に、カリダは背筋を伸ばしたままふわりと包んでくる優しい香りに笑みを浮かべながら、紅く揺らめく水面を見つめ続けている。
声をかけられたアンシャは、そんな少女を複雑な表情で眺めていたが、ゆっくりとアネッロへと視線を上げた。
「何でしょうか」
「こういった物の作法は、教えましたか?」
「え、ええ。私の屋敷にいる間は、全てにおいて作法の訓練に当てておりましたから」
訓練と耳にして、カリダは楽しげに細めていた眼を見開き、緩んでいた気持ちを立て直すように、全身に力を入れた。
アネッロが一つうなずいて、カップをカリダの前に置く。
「どうぞ。東国にて摘まれた、珍しい茶葉を使用しております」
「そう、ありがとう。いただくわ」
とってつけた笑みを張り付けて、カリダが柔らかく返事をするのを見て、アネッロは小さく会釈をして少女から離れる。
だが、三人の眼はカリダに集中していた。
手が震える事もなく、優雅にカップを持ち上げると、そっと唇に寄せ――張り付けた笑みをわずかにひきつらせながら、カップを机に戻した。
「いかがですか?」
「……ごめんなさい。私のような子供には、まだお茶のおいしさが分からなくて。でも、分かるようになりたいわ」
アネッロを見て、眉尻を下げながら小さく首をかしげてカリダは微笑する。
しかし、そこからカリダの手は一向にカップへと伸ばされる事はなかった。
手持ちの中で、香りは華やかで素晴らしいが、一番苦味の強い茶を出していた。
その香りでモネータとアンシャは気づいたのだろう。わずかに表情を強張らせたものの、何も言わず、重圧すらかけずに見守った事が何よりもの証拠だった。
それでも元手下である紫の瞳の男と違い、カップに吐き戻すという失態をしなかった事は行幸だろう。ましてや吹き出すような真似も見受けられなかった。
「特訓の成果は出ている、という所でしょうか」
「ええ、当然です。ご指定を受けた夜会の主催に協力されている背後の面々を考えますと、何が起こるか分かりませんので」
「身に覚えが?」
「……詳しくは語りたくありませんわ」
カリダが浮かべた物に、そっくりな笑みを浮かべて、アンシャはそれ以上の追求を退ける。
モネータが投げ捨てられた靴を拾い、カリダの斜め前で片膝をつく。
差し出された靴を見て、さすがに少女が茶色の瞳を忙しなく動かしてから、アンシャに伺いを立てるように眼をやった。
「……当日は、どんなに足が痛くとも、靴を脱ぐような行為をしないようにしなさい」
「はい」
しょんぼりと項垂れて、モネータが差し出す靴に手を伸ばせば、あろう事か金髪の男はその手を退けた。
「モネータ……お兄様?」
さすがに怪訝な表情で目の前の男を見たが、モネータは再度靴を低い位置に差し出す。
「カリダ、足を」
「……は?」
みるみる内に、カリダの顔には嫌悪が表れたが、モネータは当然のように彼女の眼を見据えている。
「自分で履き直すには、ドレスが邪魔で見え辛いだろう。こういう時は、人の手を借りるものだ」
確かに、言っている事は利に叶っている。
何層にも重ねられた布地はボリュームがあり、貧相な腰回りを隠して、周囲の眼には、女性らしいふくよかさを見せていた。
現在の流行であろうそれは、座ってしまえば邪魔以外の何物でもない。
裾を掻き分けて自らの手で靴を履くとなれば、みっともない格好になるのは目に見えて分かっていた。
だが、カリダの中の何かが、それを許さないのだろう。
もう一度、アンシャに眼を向けたが、彼女はただうなずいた。
口を引き結びながら酷く顔を歪めて、アネッロへと視線を動かしてきたが、当然のようにうなずくだけだ。
婦女子が人前で靴を蹴り飛ばすように放り捨てるなど、もっての外である。
しでかしたのはカリダで、当然尻拭いも自身で行え。という事だと判断したのだろう。
カリダはあからさまにうなだれて、渋々両足を前に伸ばした。
「カリダ、片方ずつ……で……」
幼子がするような姿勢に苦笑したモネータだったが、その足を見て言葉を飲み込む。
唇を尖らせながら左足を引っ込めたカリダは、凝視したまま動かなくなったモネータに、眉を潜めた。
「モネータお兄様?」
「これは、靴が足に合っていないのではないですか?」
痛々しい表情を隠すでもなく、モネータが小さな足を下からそっと持ち上げる。
だが、思わず出てしまった不服の声に、アンシャは当然のように口を開いた。
「これでもカリダの負担は少ない物を用意致しました。男性には縁のない物でしょうし、女性に対して気楽に優雅さを求めますけれど。女性は見えない所で、常に我慢を強いられているものなのです」
「だから男がきちんとエスコートしないと、慣れない若造……えっと、お嬢様達はあっという間に壁から離れられなくなるんですってよ」
付け加えるように、カリダが言えば、モネータは険しい顔つきでそっと靴を履かせた。
なんとなく面白くなったのか、モネータを見下ろしながら、もう片方の足を差し出す。
「ほら下僕、こちらの足にも履かせなさい!」
その足に、伸ばしかけていた手が止まり、弾かれたようにモネータが顔を上げた。
その視線の先では、カリダが嫌らしく笑いながら、あごで早くしろと指図する。
「ほら、何をやっているのよ。早くなさい!」
「……モネータ、時間は有限だ」
「……女性を、待たせるものでは……ふふっ、ありませんわよ」
右手で口元を押さえ、肩を震わせる二人に眼を向けたモネータは、無表情で上下に揺らされている足を取っ捕まえた。
その時だった。ふと、カリダを見上げた彼は、わずかの後、麗しいと評判の微笑を浮かべた。
小さないたずら娘の茶色い瞳を覗き込むようにして、モネータはその足に恭しく靴を履かせる。
「失礼致しました。お嬢様」
あら。という声が他から聞こえたが、カリダの顔から余裕の色が消え、見るからに嫌そうな表情で、彼の手から足を引き抜いた。
「……おま……お兄様、それ素でやってるなら、本気で気持ちが悪いから止めた方がいい」
「お嬢様、そうは仰いましても……これでも評判は悪くないのですよ」
モネータは、カリダから眼を離す事なく苦笑して見せれば、カリダは凶器を付けた足を彼の腹目掛けて突き出した。
二人とも先に視線を外した方が負けだとでも思っているのか、表情は違えど、攻防は激しいものになっていく。
だが楽しげに対処するモネータを見て、アネッロは感心した。
「良い方に転がったようですね」
「……大変申し訳ございません」
恐縮して頭を下げたのは、アンシャだった。
何の事かと眼をやれば、その硬い表情に彼女の謝罪の意味を知る。
「ああ、礼儀作法としては落第ですがね。あれらが兄弟みたいになっている事が良い事だと言っただけですよ。これはまあ、息抜きとでも思えば問題はありません」
「兄弟、ですか」
アンシャは渋い顔を彼らに向けたが、カリダが来てからというもの、モネータはどのように対処したら良いのか分からず、戸惑ってばかりいた。
女であるというのに、妹というよりかは、弟に近い存在で。
隔離されて育ったモネータにとっては、子供と遊ぶ事すらない身の上で、狼狽えるしかなかっただろう。
それが上手い事、折り合いをつける事が出来ている。
「モネータ」
声をかければ、二人とも我に返ったのか攻防の体勢で硬直する。
しかしすぐに立ち直ったのはモネータだった。即座に立ち上がり、アネッロの方を向く。
「時間を取り、申し訳ありません」
そう言って頭を下げている間に、カリダが乱れたスカートを直しながら、アンシャから眼を逸らして両足を引っ込めた。
「いえ、構いませんよ。お前がスカートを乱しながら足を出す女性に、構わず遊ぶ余裕が出来た事を喜んでいるだけです」
アネッロの言葉の内容を、頭に取り込んだのだろう。血の気が引いていく彼を見て、アネッロは楽しげに笑った。