根拠の有無
アネッロは窓へと一度眼をやって、わずかに息を洩らす。
「ただ、さきほどの今では少し間が悪い。騒ぎが落ち着いてから声をかけます。もし誰かに、ガトに何を言われたのかと聞かれた場合は、包み以外の事を、嘘偽りなく話しなさい」
「話していいの?」
眼を見開き、声を裏返したタッシェに、アネッロは軽やかに笑った。
「もちろんですよ。あの場にいた者達と話が食い違う方が良くない。というよりも、これの他に隠すべき事はありませんからね」
小さな包み紙を見せれば、少年は納得したのか何度もうなずく。
「……うん。ありがとう、ジュダスの旦那」
「それと、繰り返し言いますが。取り立てに情を挟んではいけませんよ」
「取り立てに、なるのかな? でもうん、わかった。気を付けるよ」
酷く真面目な顔で、神妙にうなずいたタッシェだったが、堪えきれずに吹き出して、子供らしい笑い声を上げた。
アネッロは本気で忠告しているのだが、しつこさを感じたのか、もしくは冗談だとでも思ったのだろうか。
アネッロも仕方なく苦笑して、立ち上がりながら包みをベストの内ポケットにしまう。
「さて、タッシェ。今日の夜は空いていますか?」
「今日? ……ああ、うん。陽が落ちる前には用事終わるから大丈夫だよ」
「では迎えを出しますので、出来るだけ暗い色合いの衣装でお願いしますよ」
「……なんだか、悪い事しに行くみたいだね」
そう言って、ゆっくりとタッシェの瞳に陰りが落ち、小さな少年は自嘲して眼を伏せた。
「何を言っているんですか。悪い輩に、見つかりにくくするためですよ」
どこか寂しげに見えていたタッシェが、一瞬間を置いてから、勢いよく顔を上げる。
やはり何か言いたげに力強い瞳をこちらに向けていたが、その口は引き結ばれたままだった。
数度口を開き、閉じた時に眉間にしわを寄せながら眼まで閉じて、首を捻る。
好きに葛藤させておきながら、アネッロは鍵の束を取り出した。
「……ジュダスの旦那?」
ためらいながら口にした問いかけに答えるわけでもなく、小扉の前に屈む。
特に拒絶されたわけではないと感じたのか、タッシェが意を決するように息を大きく吸い込んだ音が背後から聞こえた。
「えっと……あのさ、迎えって金髪の兄ちゃん?」
本来の質問は、諦めたのだろう。タッシェはそれでも渋々といった調子で問いかけてきた。
彼に背を向けたまま、口の端を持ち上げながら、同意してやる。
「そうですよ? なにより、お前の母親はあれが気に入りでしょう。夜に大事な息子を預かる事になりますし、彼女にとっても良い見舞いになると思ったのですがね」
「……お気遣い、どうも」
明らかに不貞腐れた声を出すタッシェに、くつくつと笑うと、小さな少年が低く呻いた。
鍵を二つ開け、立ち上がりながら扉を外に押し開けてやれば、膨れっ面のタッシェがアネッロの横を通って外に出る。
扉を閉めかけた時、ああとタッシェが思い出したように声を出した。
「ジュダスの旦那、もう一つだけ噂になってる事があるんだ」
「噂ですか。お前の顔を見る限り、あまり良い話ではなさそうですね」
身を屈めたままタッシェを見れば、少年は歯を見せるようにして楽しげに笑った。
「そうでもないよ。なんでも、ジュダスの旦那は白猫だって広まり始めてるよ」
考えもしていなかった答えに、アネッロはさすがに言葉を返す事が出来なかった。
思わず扉近くの壁を確かめるように眼をやれば、タッシェは右腕を口に当て、笑い声を殺している。
それを見て、アネッロは苦笑いを浮かべ、人差し指でタッシェの眉間を強めに突く。
いてえと声を上げた少年は、不服そうに唇を尖らせた。
「嘘じゃないよ! ちゃんとこの耳で聞いたんだ!」
自分の小さな耳を引っ張りながら、形の良い眉をつり上げて、タッシェは自分の正当性を主張した。
しかし、すぐに困った顔で小さく笑う。
「たださ、それが真実かどうか、あいつら確かめようがなくて。本当なのかどうか誰か確認してこいよって、ちょっとした押し付け合いになってるんだよ」
「私が、白……ねえ」
どこでどうそうなったのか。カリダの一件もあるだろうが、それだけで『ジュダスは白』と決めつけるのは早計だ。
それは孤児達が一番分かっているはずである。
金をやって、外で過ごさざるを得ない子供達を眼の代わりにしている事は確かだ。
だが、仕事も与えず、無償で何かをしてやった事など、一度もない。
金を受け取った上で、仕事など知らぬという態度の者には、与えた金を丁重に返して貰い、残金が足らないとなれば、身ぐるみを剥いでやった。
あれは、冬の只中だった。少年が履いていたブーツは新しく、高く売れたものだ。
それを孤児達とて分かっているからこそ、信じられないのだろう。
しかし、本当に信じていないのであれば、アネッロが白猫だと言われて揉め事など起こるはずがない。
「噂はガセだったって、言っとくよ」
アネッロは、表情を動かしたわけではなかったが、タッシェはやはり困った顔で笑いながら、肩をすくめた。
「放っておいていい。私の家壁に落書きをしたり、私に物をねだるような度胸のある者など、いないでしょうからね」
「もし、来たらどうするんだい?」
どうしてそう食い下がってくるのか。しかし顔を見れば、面白がっているだけだと知れる。
興味本意の質問に対して、アネッロはただ笑みを浮かべてやれば、タッシェはあっさりと両手を肩の辺りまで上げ、一歩後ずさった。
「冗談だよ? ジュダスの旦那」
「ええ、私もですよ」
そう言ってやれば、タッシェの眼が面白いくらい泳ぎ、いつもの去り際に言う文句もそこそこに、慌てて走り去っていった。
小さな背中が、通りへと消える。それを確認し、アネッロは扉を閉め、鍵を三つかけた。
食器を洗い場に入れ、上の棚から陶器で出来た青色の瓶を取り出し、包みを入れた。
陶器で出来た蓋を乗せて、外れないように紐で括り、元あった場所にもどす。
洗い物を済ませ、茶を入れ直し、ポットと茶器を手に事務所への階段をのぼる。
扉を開ける前に、中からカリダのものだろう、金切り声が上がった。
アネッロが下に降りていた時間は、タッシェを引き入れていた時間を考えても、そう長くはない。
中に入れば、脛を押さえてうずくまるモネータが先に目に入った。
次に膨れ面をしたカリダと、その細い首根っこをつかんで眉を吊り上げているアンシャを見る。
ローテーブルに、手に持っていた物を置いている間、誰も言葉を発しなかった。
「……それで?」
腕を組み、三人を見下すように眼を細める。
なんという様だ。と捉えたのだろうモネータが、三度脛を撫でてからゆっくりと立ち上がった。
報告すべくカリダの首をつかんでいた手を離し、教官の前に立つ騎士のように姿勢を正したアンシャが、言葉を発するよりも早く、カリダは高い踵を床に叩きつけるように踏み鳴らした。
「もうやめる! こんな事する意味がわかんねえ!」
「意味、ですか。まあ私の我儘とだけ言っておきましょうか」
カリダをまっすぐ見下ろして微笑すれば、彼女は一瞬怯んだものの、すぐに虚勢を張って顔を上げる。
「はあ? だったら、自分で行けばいいだろ!」
「私は、顔が割れていましてね。例え、招待状があったとしても入る事が出来ないのですよ」
「自業自得じゃねえか! もう降りる! 決めたからな!」
カリダは足を痛めていた靴を放るように脱ぎ捨てる。
動揺したモネータが目配せをしてきたが、気づかない振りをして、部屋の端まで飛んでいった靴に視線をやった。
「では、カリダ。ドレス、靴、装飾品にかかった代金。今までお前がここで生活してきた食費、衣類などの生活費。全て含めて、今、この場で返済お願いしますよ」
「は?」
怒りに赤く染めていた顔から、みるみる内に血の気がなくなっていくのが分かる。
「お前を引き取った時の理由を、忘れましたか?」
「それは……だって、あれは――」
アネッロに言い募ろうとして、ふとアンシャを振り返る。
七日ほどではあるが、アンシャと過ごしていた中で、彼女が第一級犯罪捜査官だという事が分かったのだろう。
ここで、盗みを働いたから捕まっただの。アネッロの温情――だとは思わないにしても、それでここにいる現状を語る事など出来ない。
そう思ったからこそ、カリダが口を閉ざしたのだと確信した。
「……汚いぞ」
「どっちがだ?」
アンシャから視線を外し、カリダが下唇を噛んで呻いた。
モネータとて、口を挟む事もないため、アンシャだけが不穏な空気に眼を細める。
「何の話ですか? カリダを引き取るにあたって、何か問題でも?」
「ないです!」
思わずだろう、アンシャに向かって叫んだカリダだった。
間髪入れずに返答した少女に、当然、彼女は訝しげに見据える。
「カリダ?」
明らかに不自然に直立したカリダが、軍人のように声を張った。
「あまりにも足が痛すぎて、おかしくなっていました! 頑張りますので、ご助力お願いします!」
下手くそな言い訳に、アネッロは嘆息したが、アンシャに問い詰められて困るのは、カリダだけではない。
カップに茶を注ぎ、カリダを革張りの椅子に促す。
「では、少し休憩しましょう。カリダ、まだ酒が飲めない年齢なのですから、茶を飲む練習もしておきましょうか」
「はい!」
カリダの表情が明るくなり、嬉々として椅子に腰かけた。
足が痛いというのは、真実だったのだろう。あんな高い踵の靴では慣れていなければ、歩く事すらままならない。
こんな拷問紛いの靴など履いた事のないカリダが、七日でここまで動く事が出来るだけでも称賛に値する。
惜しむらくは、誤魔化し方が幼稚であるというだけだ。
ただ、アンシャが納得しないだけ。そしてこれも当然ではある。