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御用聞きの恩人

 どこをみているのか分からないタッシェに、アネッロは出してやった飲み物を彼の目の前に動かしてやった。

 少年が葛藤したのは、一瞬だけだった。子供だが痛々しく荒れた両手でカップを包み込む。

 顔を寄せて甘い匂いを嗅ぎ、強張った表情を和らげて小さく息を吐いてから、そっと口をつけた。

 それを見計らい、アネッロは左手を伸ばして彼の頭を手荒く掻き回す。

「タッシェ、お前は良い判断をしたんですよ」

「うん……なあ、アネッロの旦那」

 髪の毛をめちゃくちゃにされたにもかかわらず、タッシェは泣きそうな顔をしながらも、小さく笑った。

 ガトがジュダス商会にいた頃、よくそうされていた事を思い出したのだろう。

 タッシェは鼻をすすり、縋るように茶色の瞳をアネッロに向けた。

「ガトの旦那、死なない、よね」

 ガトがそんな状態に陥った事態を鑑みれば、大人であっても凄惨だと思われる現場の光景が、タッシェの脳裏に焼きついてしまっているのだろう。

 死の間際の人間に最後に触れたのだ。心が死に引きずられても、おかしくはない。

 アネッロは分かるように息を吐き、肩をわずかに竦め、苦笑して見せた。

「あれは、無茶をしますからね」

「……前は、アネッロの旦那が無茶させてたんじゃないのかい?」

 タッシェは泣きそうな自分を見せまいとしたのか、唇を尖らせて冗談めいた口調で返してくる。

 アネッロは、もう一度彼の頭を掻き回してから、二度軽く叩いてやった。

「私が? 聞き捨てなりませんね、あれがそう言っていたのですか?」

「え、あの……いや、今の冗談なんだけど」

「私もですよ」

 頭の上に乗せられたままの手が気になるのか、それと分かるほど眼を泳がせて身動ぎした。

 それとなく手を外させようとしているのだろう。ゆっくりと右へ左へと揺れる頭の動きに合わせ、手を乗せたままでいれば、タッシェは文句あり気に小さく呻いた。

「配達代は、ガトから貰っていますか?」

「は?」

 何を言っているのか分からなかったのだろう。タッシェは、手元の飲み物へと視線を落としてから、怪訝な顔をしてアネッロを見る。

 これじゃないのか、と言いたげな顔をした小さな頭から手を離し、笑みを浮かべれば、タッシェがわずかに身を引いて口を引き結んだ。

「それは外で何があったのかの情報を持ってきた対価ですからね。配達大はガトから受け取るように」

「は? え、でも……」

「仕事を託した者が、それを確実に果たした者に対して支払うべき賃金を、踏み倒すようにしつけた覚えはありませんので」

 眼も口も大きく開いて、更に離れるように頭を少し後ろへと引いたタッシェを見て、アネッロが笑みを深める。

「ジュダスの、旦那?」

「死んでも払うのは、鉄則です。あれも骨身に沁みているはずですよ」

 アネッロは自分のカップを取り上げて一口含み、口内を潤すようにしながら、ゆっくりと飲み下した。

 完全にカップを置いたタッシェが、両手の指をテーブルに引っかけ、眉を下げて押し黙る。

「何か、おかしな事でも?」

 茶色の瞳は、酷く物言いたげにしているが、何かを口にするわけでもない。

 アネッロは彼が何を言いたいのかを分かっていて尚、疑問として投げかけた。

 陽の光が雲に遮られ、部屋が少し暗くなり、また陽が差し込むだけの時間がゆったりと流れてから、タッシェは困ったように口を開いた。

「……死んでもって。死んだら、どうにもならないんじゃないかな」

「何を言っているのです。どうとでもなるに決まっているじゃありませんか」

「……どう、とでも?」

 タッシェは、心底聞きたくない、聞いてはいけないとでも言いたげに眼を細めたが、言わずにはいられなかったのだろう。

 それについて、当然であると示すべく、しっかりとうなずいてやる。

「受取証を渡しましょう。あれが死亡した場合、代金に見合う金か物品を、あれの荷物から受け取る権利をしたためておきますよ」

 そう言って立ち上がろうとすると、タッシェは慌てて両手を横に激しく振り、アネッロの動きを遮ってきたため、わずかに浮かせていた腰をまた戻す。

「いやいやいや! ちょっと待ってよ、ジュダスの旦那! だって、そんな……死ぬ事が前提なんて。そんな話……」

「最悪の事態は、常に頭に置いておくべきですよ。もちろん生き残った場合でも、それをガトに渡せば踏み倒させない証明書にもなりますので。どう転んでも持っていた方がいいでしょう」

「ガトの旦那は、踏み倒すなんてした事ないから、必要ないよ」

 タッシェは孤児ではないが、病弱の母親を少年一人が背負っている。

 身体を壊す前のタッシェの母親がしていたに運びの仕事は、小さな彼にはまだ難しいため、住民の手伝いと称してわずかな手間賃を貰い、町中を駆け回っては薬代と家賃を稼ぐ。

 そのやり方を教えたのは、ガトだった。

 税金を払うほどの稼ぎは生み出せないが、他で発生する支払いは出来るだけ自分でなんとかするという約束の元、領主に生きていくための支援手続きを申請し、厳しい審査を受けた後、親子ともども死ぬしかないという所から、脱却出来たのだ。

 だからか、タッシェはガトに対して全幅の信頼を寄せている。

 アネッロはそれを分かっていて、敢えて余計な一言を口にした。

「外的衝撃を受けた後、そのあたりの記憶が曖昧になる事など多くありますから」

 その時の状況が頭を過ぎったのだろう。

 顔を強張らせながら、それでもタッシェは首を縦には振らなかった。

 一瞬だが人の出す音が消え、ストーブの薪が小さく爆ぜる音が大きく聞こえる。

 揺るぎない眼差しでアネッロを見たタッシェは、背筋を伸ばした。

「それなら、それでもいいよ。おいらは、ガトの旦那に返しきれないくらいの恩があるから」

「人情と金勘定とは、切り離して考えた方がいいのですがね」

 そう言ってやったのは好意からだったのだが、タッシェの表情は変わらず、強い意思がその眼に宿る。

 小さく肩を竦めれば、呆れたようにみえたのだろう。

 タッシェは明かり取りの窓へと顔を向けて、降り注いでくる陽の光に眼を細めた。

「……ジュダスの旦那。おいらみたいのが様子を見に行っても、いいのかな」

 拾い光を浴びているタッシェの声は、アネッロへと問いかけているように見えて、こぼれ落ちただけにも思えた。

 どこか返事を期待していない空気を身にまとっている。

 いや、返事を期待していないのではない。どれだけ兄のように慕っていたとしても、ガトの家族ではない。

 死の瀬戸際にいる男の傍らに立つ事が出来るはずがないと思っているのだろう。

 確かに、意識のない人間の周りに余計な人間が多く集まる事は――それが慕っている者達であれば悪くはないが、死者から金目の物を盗る輩がいないわけではないため、死者を見送る役割は、やはり家族が主立っている。

 だが、ガトには身寄りがない。

 ジャック医師とて、わけの分からない者を近付けはしないだろうが、彼はラクルスィ領でのガトの役割を知っている。

 そして、変わり者ではあるが頑固者ではない。断固として家族以外にはあわせないし、例外などないと言い張る狭量な男ではない。

 そう、例外を作る事は容易だが、それは誰しもが出来る事ではない。その者に近しい者が認めれば、彼は他者を受け入れるだろう。

「私も包みの件がありますから、一緒に行きますか?」

 その問いかけに、すかさず縋りついてくるだろうと思えば、そうでもなかった。

 生きたい気持ちは多大にあるだろうが、部外者だという気持ちの方が強いのだろう。

 木の椅子の上で尻をもぞもぞと動かし、すっかり冷めてしまっただろうカップを両手で包みながら指を忙しなく動かしている。

「タッシェ、一日に一度ガトの様子を報告するという、私からの仕事を与えましょう。報酬は十ソルド硬貨を一枚。なにぶん私も忙しい身ですからね。ジャック医師には話を通しておきます。耳元で、届けた分の代金をよろしく。とでも囁き続ければ、あれも仕事熱心ですからね、早く目が覚めるでしょう」

 タッシェはあんぐりと口を開き、何事かを言い返そうと開閉を繰り返していたが、やはり何を語るでもなく残っていたカップの中身を一気に呷った。

 そして、カップをテーブルに戻した勢いのまま、タッシェが立ち上がる。

「代金よろしくはともかく、一緒に連れてって欲しいです!」

「お前が言わなければ、私が言うだけの話ですがね。ああ、その方が目覚めが良いかもしれませんね」

「それは……どう、なのかな。そう、なのかもね」

 アネッロの言葉に、さすがにタッシェは顔を引きつらせながら、微妙な顔つきでうなずいた。



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