手に入れた物
ストーブに薪を入れ、水を入れた小鍋を上に乗せる。
石壁の向こうからでも分かるほど、鋭く吹き鳴らされる警邏隊の笛が聞こえ、すぐに遠ざかっていく。
その近さに、アネッロは顔を上げた。
天井付近に取り付けてある明かり取りの窓を見上げたが、中庭には人の気配はない。
笛の音が、酷く切羽詰ったものに思えたが、非常事態であれば町中に散らばっている手の者達が対処するだろう。
火にかけたばかりで、湯気すら立たない鍋へと眼をやったが、自身を落ち着かせようとしたように思えて、小さく息を吐き出し、眼鏡の蔓に右手をやった。
眼鏡をテーブルに置き、流し台に背を預けて腕を組み、湯が沸くまで眼を閉じて耳を澄ませる。
何が聞こえるでもないが、意識して情報を遮断した。
寝ようと思ったわけではなかった。しかし、沸騰した泡が弾ける音を聞いて、意識が浮上した。
何を見る事なく、少しは眠れたのだろうと思う。珍しい出来事に、うんざりした。
これでまた、この日この時の出来事が記憶に張り付いてしまう。何故、こんな中途半端な時間に寝るなどと――
アネッロは右手で顔をなで、小鍋に入れた水の量と沸騰具合を見て、どれだけ時間がたったのかを知る。
それを火からおろし、茶葉を入れたティーポットへ流し込んだ時だった。
路地裏に繋がっている小扉が慌しく数度叩かれる。
周囲にも聞こえるだろうその音に、手の者ではないと判断したが、そこまでする人間に心当たりはない。
「タッシェの御用聞きだよ! ジュダスの旦那、いるかい?」
あれだけ激しく叩いてきたにもかかわらず、少年は周囲を気にしているのか、小さな声はいつもより硬質で、どこか急いているようにも聞こえた。
「ああ、少し待って下さい」
鍋を置き、鍵の束を取り出す。
常ならば、小石をこつりと扉に当ててくる少年に、何かあったのだと鍵の束をわざと音を立ててやれば、扉の向こう側で後ずさるように砂を踏む音がした。
ゆっくりと鍵を選びながら、アネッロは世間話でもするように声をかける。
「タッシェ、傍に誰か?」
「……いるよ」
それを聞いて、アネッロは素早く鍵を三つ開き、扉を押し開ける。
落ち着かない様子で一人佇んでいたタッシェの襟首をつかんで引き入れ、素早く扉を閉めた。
室内に放り込まれ、たたらを踏んだタッシェには構わず、アネッロは鍵を二つかけた。
アネッロから教えられていた事を忠実に守ったタッシェは、その扱いに文句を言うでもなく、少しばかり呆気にとられた様子で見上げてくる。
「緊急時の合図って、いつ使うんだって思ってたけど……本当に使うとは思わなかったよ」
感心した声音で呟いたタッシェに、鍵をかけ終えたアネッロは立ち上がり、厳しい眼を向けた。
明かり取りの窓があるとはいえ、さほど明るくもない部屋で、タッシェの顔色はいつもよりも白く見える。
切羽詰った叩き方をしていた事から、タッシェ自身が何かに巻き込まれ怪我を負ったわけではなさそうだ。
全身に不必要に力が入り、その小さな見のうちには背負いきれないほどの衝撃を受けた事が知れる。
ただ静かに見つめていれば、ぎこちなく歪に笑っていたタッシェの顔から、表情が抜け落ちた。
椅子を引いてやり座るよう促せば、躊躇しながら眼を泳がせて、それでも小さな声で礼を言いながら浅く腰掛けた。
小鍋に残った水を捨て、ヤギ乳を入れてストーブの火にかける。
沸くまで流し台に腰を預けて腕を組んだが、今度は眼を閉じなかった。
薪の爆ぜる小さな音が時折聞こえてくるほど、静寂に包まれていた。
その静けさが居た堪れないのか、居心地が悪そうにタッシェは尻を動かし、何度も座る位置を微妙にずらす。
石造りとはいえ、これだけ物音一つない空間には、もう笛の音はどこからも聞こえてこない。
白い光の中で、タッシェはぼんやりと顔を上げ、天井付近の壁に取り付けられた横長の窓から外を眺めていた。
いつも明るく振舞い、地に足をつけて働いているタッシェは、普段から大いに気を張っていたのだろう。
今では、どこか頼りなく線の細いその身体は、折れてしまいそうなほどだと感じた。
それはおそらく、精神的に重圧がかかったからだろう。
そうでなければ『緊急の合図』を使い、アネッロに助けを求める少年ではない。
すぐにヤギ乳が沸き、カップに移して蜂蜜を二掬い入れてやる。
覇気のない眼をして、顔を上げていた少年の前に置いてやれば、酷く驚いた顔がカップとアネッロを何度も行き来する。
その様子が少し面白く、口の端を持ち上げれば、彼の表情は更に恐縮したものへと変わった。
「……その、ジュダスの旦那とはいえ、誰からも施しは受けないって決めてるんで」
「施し? 私がそんな無駄金使うとでも? これは正当な対価ですよ」
「……対価? なんの?」
甘い匂いにタッシェののどが鳴るが、少年は湯気で顔を温めるかのように寄せ、その香りで灰を満たしながら眉をひそめる。
――いったい何のために顔色を悪くし、大慌てで来たと言うのか。
少し呆れた顔をしてやれば、はたと思い出したようにタッシェが眼を丸くし、罰の悪い顔をして笑った。
腹の辺りのボタンを外し始め、そこから小さな紙包みを取り出す。
「これ。ガトの旦那に、頼まれたんだ」
近づいて手を差し出せば、その手の平にタッシェが包みを乗せ、わずかに俯いて口を開いた。
「広場の近くで……乱闘が、あったんだ」
それだけで、何となくだが状況は分かったが、アネッロは無理に話を進めさせるでもなく、少し出すぎた茶を入れたカップを机に置き、流し台の近くにある椅子に座る。
タッシェは、思い出しながらゆっくりと周囲を見回した。彼の眼には室内ではなく、広場の風景が広がっているのだろう。
小さなのど仏がゆっくりと上下し、重い口を開いた。
「路地で……ううん、広場で喧嘩だって声が上がって。路地に入って行ったって、誰かが言ってた。人だかりでよく見えなかったけど、誰かがガトの旦那を襲っている連中、皆ナイフを持ってるぞって。人の足の間から、倒れてる男が何人か見えて」
両手の平を前に少し出して、タッシェは瞳を揺らし、その手をゆっくりと硬く握りしめ、机に押し付けた。
「警邏が来て、襲ってた奴らは捕まってた。ガトの旦那が刺されて。旦那は、酷い顔色してて、背中から血が……止まらなくて。ジャック先生のとこに運ばれたよ」
運ばれている途中で、タッシェは偶然その最前列に出る事が出来た。
その傍を通ったガトが突然眼を開け、胸倉を掴んできたのだと言った。
その時の事を思い出したのか、机に押し付けた両手に眼を落としてから、アネッロをまっすぐ見る瞳は、もう揺れてはいなかった。
「力、入らないみたいだったけど。運べって、言われたんだ」
その時の状況を再現するように、少ししわになっていた胸元を、タッシェが苦しそうな顔で握りしめた。
「それで?」
黙りこんでしまったという事は、ガトの容態は酷い状態なのだろうと推測出来る。
もしくは、死んでいる事も考えられた。
だが、何の感情も載せず、アネッロはあごで先を促すと、彼は一度眼を固く閉じてから、震える息を吐き出した。
「旦那の手から力が抜けてさ、死んだ……みたいに、動かなくなって。ガトの旦那の方が運ばれてるのに、運べって何だと思って。そしたら、腹に何か入ってる感じがしてさ。警邏か捜査官に渡そうかとも思ったんだけど……これ、多分、ジュダスの旦那宛じゃないかなって思ったんだ」
小さな手がシャツから離れ、彼はその手が自分の物か確かめるように見つめる。
その眼は、どこか虚ろに見えた。