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闇を行く者

 警戒はしていた。殺気もなく、背後に人の気配などなかったはずだった。

 決して油断していたわけではないが、失態だ。自らに対する怒りに頭の中が煮え立つ。

 即座に背後の男の腕を掴み、それ以上食い込ませず、下手に刃を捻る事がないように押さえ込む。

 焼けるような痛みに歯を食いしばり、顔だけで振り返れば、背後に張り付いて立つ男は、息を荒げたまま笑い声をこぼした。

「て……めえ……っ」

 頬のこけた優男風の男は、人を刺した事などないかのように複雑に顔を歪ませながらも、暗く澱んだ瞳をガトと合わせ、また楽しげに笑う。

 握った腕を潰す気持ちで渾身の力を込めれば、背中の筋肉も使われているのか、刺された箇所が激痛を訴える。爪が相手の皮膚に食い込む感触が伝わり、更に抉るように爪を立てる。

 背後にいたのは、姿形を変えているとはいえ、見覚えのある男だった。

 醸造所からの逃走で別れたきりになっていたノーチェフが、そこにいた。

 あそこで造られた薬物でも盛られたのだろうか。焦点が合わない瞳を濁らせ、引き攣った笑い声を漏らす。

 ただ、それが本当に薬に侵されているのか、全てを欺く演技なのかは、この男に関して言えば分からない。

 分かっている事は、任務において、手段を選ばないと言う事。それが仲間であれ、必要とあらば殺す事も躊躇わない。

 自分もそうではあったが、ここまで徹底している者は数名だけだ。

 それが、自分の番になったという事なのか。

 そこまで考えて、ガトは嘔吐感に逆らえず、吐き出したのは血であった。思っていた以上のその量に、奥歯をぎりと鳴らす。


 ――殺してやる!


 そう言おうと口を開いたが、唇はただ凍えたように震えただけだった。

 白い薄幕が視界を覆っていた。碌な死に方はしないと思っていたが、こんなにも無様に死ぬのかと思う。

 あれだけ燃えるように熱を持った身体から、それが急速に失われていく。焦燥に近い何かを感じた。


 ――いつかのように。また何も出来ず、何も残せずに死ぬのか。


 ガトの腰に刃を残したまま、力の入らなくなった手を振り払い、ノーチェフは幽鬼のごとくゆらりとガトから離れる。

「……俺が、俺がやった! 犯罪者を野放しにする馬鹿を! この、俺がっ!」

 この男から、聞いた事もない狂気染みた叫びと、けたたましい笑い声を聞きながら、ガトは全身に走っていた激痛が、膂力を失っていく中で感じなくなっていく。

 耐え切れず、地面に膝をついた。

 ノーチェフの言葉に、半分がその場に留まる事を躊躇し、半分が好機と捉えナイフを握りなおすのを、薄幕のこちらから見止めた。


 ここで、死ぬわけには行かない。まだ仕事を成し遂げていない。

 いつの間にか取り落としていたナイフを、震える手で拾い上げる。

 揺らぎ霞んでいく視界の中だというのに、敵が足を踏み出してくるのがはっきりと見えた。

 あれだけ煮え滾っていた頭は、落ち着きを取り戻し、澄み切っていた。

 だらりと下がったままの自分の腕を、どこか違う所から見ている感覚に、不思議と気持ちは落ち着いていた。

 背後の男は、何がそんなに楽しいのか、少しはなれた所でまた笑っている。

 砂を踏む音、薄汚れた靴が、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。それに引きずられたか、他の者達も近づいてくる。

 関わりたくないと思ったのか、少数がガトに背を向けて走り出した。

 細い路地を覗き込むようにしていた野次馬達に向かって、愚かにも毒の刃を振りかざす。

 しかし、逃げた男達が目にしたのは、野次馬達の驚愕ではなかった。

 鈍い音と、人間が出しているとは思えない声に、ガトに向かってきていた男達は、慌てて振り返る。そこで凄惨な状況を目の当たりにする事になった。

 ガトの背後で笑っていたはずの男が、逃げた男達の正面で待ち構え、二人を即座に殺していた。

 地面に突っ伏している一人は、頭があり得ない方向に捻じ曲がっており、もう一人は両目から血を流し、断末魔でも上げるかのような形相で、背を壁に当て座り込む形で絶命していた。

 ノーチェフが口を大きく横に広げ、血塗れの手を横に振るう。

「逃げたら駄目じゃないか。わずかでも悪に手を染めた人間は、裁かれなければならない」

 残った三人がその狂気にあてられ、その中の誰かが小さく悲鳴を上げる。


 残された道は、死しかない。


 それを、彼らは本当には分かってはいなかったのだろう。

 ガトに一番近い男が、振り返り、見下ろしてくる。その眼には、ガトを殺し、二人を盾にして自分だけでも逃げ切ろうと思っている事が、はっきりと伝わってくる。

 眼にしている景色が揺れている事を不思議に思うが、それは自分の頭が揺れているのだと、少しして気がついた。痛みは、消えていた。ナイフを持つ手には、力はさほど残されていない。

 敵の振り上げられた腕を、ゆっくりと頭を上げて紫の瞳に映る。

 世界の全てが、急速に時が進むのを遅らせていくように思えた。

 何もかもが、緩慢な世界。静寂に包まれ、自分の鼓動だけが聞こえる世界。

 ガトは、ゆっくりと振り下ろされてくるナイフの歪んだ閃きを見上げながら、自分の腕を男の腹へと真っすぐ伸ばした。

 何かを抉る感触はなかった。だが、男は眼を見開いて、喚くように口を動かして後ろにいた男に持たれかかり、泡を噴き白眼を剝いて動かなくなる。

 突然の出来事に、寄りかかった男を突き飛ばし、血相を変えて何かを叫んでいた。

 ガトはその様子に、わずかに首をかしげた。

 何をそんなに驚く事があるのか、何をそんなに怖がる事があるのかが分からなかった。

 男達が望んでこの場にいるのだ。自分だけは死なないとでも思ったのだろうか。

 確かに、ガトは襲ってきた者達に対し、武器を使わず殴り落としていた。昏倒はさせたが、殺したわけではない。

 だからだろうか、殺されはしないと高を括っていたのかもしれないな。と、ぼんやりと思う。

 差し出すように伸ばしていた腕を、だらりと元の位置に戻す。

 何を躊躇っていたのかが不思議なほど、心は凪いでいた。

 死に至る武器を持ち、襲い来る者共を、どうして殺してはいけない?

 そんな奴らなど、今まで散々討ち果たしてきたではないか。どうしてここで手を抜く必要があるのか。

 捜査官である。という声は、現状にそぐわないためか、酷く遠い。

 何の感情も湧いてはこなかった。ただ、いつもそうしていたように、自分へと向かってくる者に反撃するだけだ。

 残りの二人が、必死の形相で挑みかかってくるのが見えた。

 傷一つ負っていない手練の男と、あと一押ししたら死ぬ男を天秤にかければ、ガトに向かってくるのは必然だろう。

 ガトはそれを狭まっている視界の中で、至極納得した心境で眺めていた。

 だが、その凶刃がガトに届く前に、なだれ込んで来た男達が二人を押し倒す。

 たちまちの内に制圧された男達へ視線を落とせば、制服の一人がガトへと顔を向けてくる。

 知った顔だろうか。白い薄幕だったそれが、色濃くなってきていて、よく見えない。

 警邏に紛れた敵という可能性もある。

 自分の生きる証になった仕事を、せめて最後までやり遂げなければ――気付けば眼前に地面が迫っていた。

 指一本、動かすことが出来ない中で、それを防ぐ術は持っていなかった。

 顔面から落ちた気もするが、何も感じられない。

 痛くないって、悪い事ばかりでもねえな。胸の中で独り言ちて、ガトは笑った。


 ――いつの間にか、眼を閉じ、意識を飛ばしていたようだった。

 ふと眼を開いて、自分がまだ死んでいない事に違和感を覚える。男二人に抱えられているのだと知った。

 痛々しい顔をしながらも、興味津々とした雰囲気を隠す事のない野次馬どもが取り囲む中、運び出される自分が酷く恥ずかしい。

 どうして今、眼を開けてしまったのか。最悪だ。

 死んでいたら、まだこんな羞恥の渦に投げ込まれる事などなかっただろうに。

 洒落にもならない事を考え、再び睡魔にも似た、強制的に意識を根こそぎ持っていかれる感覚が支配する。

 ガトは抗う事もせず、眼を閉ざそうとした。ただ、また少し眠るだけだと。

 しかし、眼を閉ざす前に、酷く狭まった視界の中で見知った顔を見つけ、わずかだけそれに抵抗した。

 気付けば彼の胸倉を掴んでいた。自分の口が動いたか分からない。

 驚いた顔をした彼はうなずくでもなく、青ざめた顔で口を引き結んでいたから、声は出ていなかったのかもしれない。

 薬物の包みを手の中に隠し、誰に見られる事もなくシャツのボタンの隙間に捻じ込んでやった。以前、アネッロが自分にしたように。

 とりあえず、抱えている案件は手放す事が出来た。

 全てではないが、仕事の一つは終わった。やるべき事は、あと……まだ――

 そこまで考えて、自分の腕が思うように動かなくなる。力なく落ちていく事だけが、ガトが感じ取れた最後のものだった。



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