町の中の猟場
少女の食べっぷりは、相当なものだった。
全て手づかみという点は、今回だけは見逃した。痩せ衰えた獣のような者を、今は人間にまで引き上げなくてはならない。
人間とりあえず腹が満たされれば、考えにも余裕が出るものだ。
襟のついた白いシャツに、薄茶色の少し丈の足らないズボンを身につけたカリダは、一見して少年そのものに見える。
アネッロは流し台に腰を預け、彼女の背後で腕を組み眺めていた。
「これからは食事の支度を、カリダに任せましょうか」
その言葉に、カリダの口から卵が少し飛び出し、テーブルに散らばった。もったいないと言いながら、テーブルに落ちた残骸を拾ってまた口に入れたカリダに、アネッロは眉間にしわを寄せた。
「汚いですね」
「もったいないだろ?」
当然だろうと、頬に物を詰め込み振り返ったカリダは、アネッロの表情を見て固まった。
「いや、だって……」
「口から物を吹き出したり、あまつさえそれをまた食べるなんて事は、今後一切ないように」
「そんなの、ボスが吹き出させるような事言うから!」
「何を言われ動揺しても、私はそんな汚い真似はしませんよ」
あんた自身が、汚い存在じゃないかという言葉を、カリダは必死に飲み込んだ。
アネッロに対して、今までの言葉使いを変えるというのも複雑で。金髪男のように、アネッロ様とは気恥ずかしくて呼べず。だが、命だけは惜しい。
言って許される事と許されない事を、手探りで進んでいる状態だったが、こればかりは飲み込むべき事柄だと、学のないカリダにでも分かる。
「……気を付けるよ」
「食事も終わったようですね。片付けたら出かけますよ」
「え、もう暗くなるけど」
「借金取りは、これからが忙しくなるのですよ」
アネッロの顔は、笑顔であるというのにゾッとする冷たさをはらんでいた。
最後の一片を、惜しみながらも飲み込んで。カリダは皿を水に入れた。
「出かけますよ」
「うん。あ、違った。はい」
横目で見下ろしてくる暗い色の瞳に、カリダは慌てて訂正した。
アネッロが衣類の山から、黒の上着を引っ張り出し少女に手渡すと、二人は裏路地に続く扉から外に出た。
陽の沈んだ町は、山間でもある事から、ひんやりとした澄んだ冷たい空気に包まれている。
暗がりに、アネッロの持つランプだけが暖かい光を帯びていた。
「悪い奴が、夜を好むっての。分かる気がするよ」
辺りを警戒しながら、アネッロの後にくっついて歩くカリダが言えば、アネッロはうなずいた。
「そうですね。黒い人間は、夜が似合う」
カリダは、振り向きもしないアネッロの後頭部を見上げた。
それから少しだけ顔を背け、アネッロに気付かれないようそっと息を吐き出す。
予告なく立ち止まったアネッロの背中にぶつかりそうになったカリダは、声を上げた。
「危ねえな!」
文句を口にすれば、後ろ手に口をふさがれる。
前方から、走ってくる男の姿がアネッロの眼に入った。
大きな鞄を抱え、巨体を揺らしながら息を切らす男。
カリダに路地に入るよう手で合図して、アネッロはゆっくりとランプを胸の辺りまで持ち上げる。
「おや、ダニーさん。お急ぎですか?」
アネッロに気がついたダニーは、顔を引きつらせて立ち止まった。
昼間からモネータに見張らせていた、花屋の店主。それが今、目の前にいる。
丸々と太った男は、脇に抱えた鞄をさりげなく背中側に回した。
「こ、これはアネッロさん。ええ、ちょっと急いでましてね」
「そうですか。誰かに追われでもしているかに見えましたが」
「い、いや。そんな事は……ああ、すみません。本当に急いでいるもので。これで失礼しますよ」
アネッロが左肩をひいて道を譲る。背中を丸めて、通り抜けたダニーは、鞄を胸で抱えなおした。
緊張と安堵が綯い交ぜになり、ダニーは振り向きもせず息を吐く。
「口が、笑ってんぜ」
壁を越えたと思った瞬間、痩せた子供が目の前にいた。
「なんだ、お前は! どけっ!」
「やましい事があると、人間大きな声を出しがちになると聞きます」
至近距離で声がして、巨体が小さく震えた。
慌てて振り返れば、冷たい眼をしたアネッロがランプをダニーの顔に突きつける。
「どこに行こうと?」
暗がりに慣れた目には、蝋燭の火とはいえ、眩しく映る。
目を瞬かせダニーが後ずされば、手で押しとどめられた。小さな子供の手ではない事に気がつき、大きな身体を強張らせた。
「モネータ、上出来です。追い込むのがうまくなってきましたね」
「ありがとうございます」
カリダとダニーの間に割って入るようにして、モネータが立つ。
大きな背中に守られたと感じたカリダは、眉を吊り上げて金髪男のふくらはぎを蹴飛ばした。だが微動だにせず、振り返りもしない彼に、少女は気に入らねえ、と口にした。
前後をふさがれ、ダニーのへりくだっていた態度が一変した。
「何の用があるってんだ! こっちは急いでるんだ!」
「決まっています。私が来たとしたら、用件は金ですよ」
「そ、それは……今からなんとかしようと思ってるんじゃないか」
「具体的には?」
ランプをおろしても、ダニーは歪めた顔を元に戻さない。
カリダが砂を踏みしめた音を耳にして、ダニーが思いついたように胸を張った。
「花の、買い付けだ」
「それは正しい決断ですが。こんな日暮れに馬車も呼ばず、密かに店を抜け出す理由になりますか?」
「そんなもん、後ろの奴に言ってくれ! 外に出た途端、追い立てられたんだ!」
まくし立てるダニーに見えるよう、腰から短い鞭を取り出し、地面に向かって振りおろす。
暗くとも、風を切る音が聞こえたのだろう。怯えた顔をして後ずさるが、またモネータに背中を押さえられた。
「ほ、本当なんだ! 悪いのは、こいつだ!」
「私の部下が、そんな初歩的な間違いを犯すとでも?」
アネッロが一歩踏み出した。
ランプの光が近づき、それぞれの影が白い壁に、ぼんやりと映って揺れる。
下がるに下がれず、ダニーは光が近づくにつれ精神的に追い詰められていく。
「来るなっ!」
武器を持っている目の前の男につかみかかるわけにはいかず、若い男と子供がいる方向を選んだ。
奇声をあげ、抱えていた鞄を振り回し、貴婦人方に人気の高い顔にぶつけた――つもりだった。
動きを読んでいたモネータは一歩下がり、鼻先の距離で避けていた。
振り回した勢いに負け、安定を失った男は大きな音をたててひっくり返る。
鞄が手から離れ、慌てて起き上がろうとした時には、アネッロが鞄に足を乗せていた。
「この……!」
身体を起こし鞄に手を伸ばせば、容赦なく鞭が振り下ろされた。
おもわず手を引っ込めると同時に、背中に大きな衝撃を受け、ダニーはくぐもった呻き声を出して地面に突っ伏す。
左腕をねじり上げられ、少しでも動けば激痛が走る。背中は膝で押さえつけられているようだった。
動けなくなった事を見届け、アネッロは鞄から足をどかす。中をあらためると、ソルディ紙幣が乱雑に詰められていた。
「買い付けにしては、金を雑に入れていますね。まるで、夜逃げでもするようだ」
「俺は財布なんざ、持ってないもんでね」
下卑た声で笑う男の腕を、モネータが遠慮なく締め上げてやると、悲鳴をあげて大人しくなった。
そちらを見る事なく、勘定を始めたアネッロは、すぐに嘆息した。
「やはり、足りませんか」
「た、頼むよ。その金がないと、遠くに住んでる俺の娘の治療が出来なくなるんだよ」
悲痛な声を出した男に、眉間にしわを寄せたモネータが、アネッロを見る。
しかしアネッロは、それを無視した。
「だから、何だと言うのです? 借金返済の期限は、とうに過ぎているのですよ。最優先に考えるべき事は、借りた物を返す。しっかり働いていれば、治療費とて生み出せるほどの金利のはずですがね」
「娘が心配で、仕事が手につかなかったんだ!」
「本当に治療費が必要で出稼ぎに来ていたのなら、それこそ身を粉にして働いているはずでしょう」
手を緩めかけていたモネータは、さきほどよりも強く男を地面に押し付けた。
呻き声すら嘘臭く聞こえ、男の腕が折れそうなほど軋む。
「腕一本くらい折っても、こいつきっと変わらねえと思うけど?」
カリダが、さすがに呆れた声を出せば、やっとモネータが少しだけ力を緩める。
アネッロは、ただ一度目をやっただけで、鞄を持って立ち上がった。
「これは回収させていただきます。店と居住地も差し押さえます」
「ど、どうやって生きていけばいいってんだ」
必死に声をあげたダニーに、凍てつく眼を向ける。
「調べれば、お前を追っている人間がいくらでもいそうですし、連絡をとってやってもいいのですよ」
完全に抵抗しなくなった男を放すよう、モネータに合図すれば、不服そうな表情を浮かべながらも腕を離し、立ち上がった。
ダニーはのろのろと立ち上がり、丸々した身体をゆすりながら、暗がりに消えていった。
「アネッロ様、私兵に突き出しては?」
「放っておけ。あいつはもう、どこにも逃げられませんよ」
帰りますよ。と声をかけて、アネッロは路地を入っていく。
腑に落ちないながらも、後に続くモネータを眺め、カリダは首をすくめた。
「……こわっ」
小さく呟いた声に、夜空に広がった星が同意するかのように瞬いた。