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戒めるべきは

 水を入れたグラスを盆に乗せ、モネータが戻ってきたのを見計らい、アネッロは小さな頭から手を離した。

 ようやく解放された自分の頭に、カリダは手を伸ばす。

 可愛らしく結われたカツラの下に両手を差し入れ、痛めた頭を揉み始めた。

 あまりにも淑女レディにはあり得ない光景に、モネータは眼を瞠り、息を呑む。

 アネッロも見咎めて眉間にしわを寄せれば、気付いたアンシャが慌ててカリダの細腕を取り引っこ抜く。

「おやめなさい! 見苦しい。カツラだと分からないよう振る舞いなさい」

「はい……あの、頭がかゆくなったら? どうしたらいいですか?」

「堪えなさい」

 その言葉に、カリダは途方に暮れたように眼を細めた。

「堪えられないくらい、かゆくなったら? 男の人も、耐えるのですか?」

 堪えろばかりで、反抗したくなったのだろう。

 挑むような目つきで見上げたカリダに、アンシャは艶やかに笑むと、少女は顔を引きつらせ背筋を伸ばして直立した。

 よくしつけているな。と、アネッロがうなずいたが、モネータは複雑な顔をしていた。

 昨日言っていた、自分ではどうこうという考えが抜けないのだろう。悔しいという気持ちがあるのは、良い事だ。

 嫉妬出来るならば、まだ人間を捨てていないし、強い感情を無駄に持てる体力があるという事だ。

 それでもモネータは、自分の感情を制御し、姿勢を正して負の感情を即座に顔から消した。

 人を羨み妬む感情や、怒りを排する事は、決して簡単ではない。

 表面上を取り繕うのは、最も感情が高まってさえいなければ容易に出来る。

 モネータが元々抱えている怒りからしてみれば、こんな些細な事は、わずかに滲む程度だろう。だからこそ、簡単に胸の内から消し去れる。

「カリダ。ご婦人達には許されなくとも、殿方には許される事が多くあると、言いましたわね?」

 アンシャの言葉にも、すでに彼は反応しなかった。

 化粧を施し、可愛らしく作られた顔が嫌悪に歪む。

 アンシャが、ゆっくりと歩を進め、カリダの正面に立つ。

 より緊張したのか、少女の細い体は力が入り過ぎていて、突発的な何かが起こったとしても、対処出来る状態ではないだろう。

 続く説教に、さすがにモネータが不憫の色を宿し、壊れた人形のように頭だけを縦に動かし続けているカリダを見た。

 ふと何かを見つけたモネータが、彼女の足元へと視線を落とし、持っていた盆を接客用のテーブルに盆を置く。

「失礼、お足元に扇が……」

 声をかけつつ身を屈めたモネータを追うように、少女の澱んだライトブラウンの瞳が一瞬動いた。

 ドレスの裾近くにあるそれに手を伸ばし――ほんのわずか、裾が動いた瞬間、モネータは素早く手を引いた。

 木の床に穴が開いたのではないかと思うほどの、硬質で鋭い音が一度ではあったが部屋に響く。

 小さな破壊音すら掻き消すほどのそれに、モネータが青ざめ、信じられない物を見る眼で割れ飛んだ扇の持ち手へと視線を落とす。

「カリダ!」

 悲鳴に近い声を上げたアンシャに、カリダの澱んでいた瞳に光が戻ってくる。

 足をそっと上げ、元の位置に戻したカリダは、顔を強張らせ、恐る恐る見下ろした。

 そこには破壊され使い物にならなくなった扇と、床に着いた細い踵の窪みがしっかりと残されていた。

 床材として使用した木材は、傷のつきにくい非常に硬い物を使用していた。

 アネッロは腕を組み、執務机に腰を当てながら、無表情に彼女達を見やる。

「……これは、故意ですかね」

 三名が、それと分かるくらい、小さく肩をびくつかせた。

 居た堪れないほどの張り詰めた空気の中、先陣を切ったのは、モネータだった。

「……嫌な気配を感じ、手を引きましたが。本気で潰すつもりだったとは」

 呻くように呟いたモネータが、無事だった右手の甲を左手で労わるように撫でる。

 女二人は、その言動にも同時に身を竦めた。

「わ、悪い。兄ちゃん、無事、みたいで……その、ごめん」

「モネータさん、アネッロさん。申し訳ございません。自衛のためにもと思い、私が強く矯正しなかったばかりに、傷害未遂、そして器物破損を起こさせてしまいました」

 頭を深々と下げたアンシャに続くように、慌ててカリダも同じ姿勢をとった。

 顔を引きつらせながら、扇を破片ごと拾い、モネータは立ち上がる。

「いえ、無事でしたので。お気遣いなさらず」

 ダンスが未熟なために足を踏まれるのとは、格段に違う。

 カリダのとった行動は、明らかに攻撃だった。

「まあ、この床材はかなり特殊な物を使用しているのですが、仕方がないですな。今回は、眼を瞑りましょう」

 アネッロの言葉に、頭を上げた女二人が顔を引きつらせる。

 モネータ含め、ジュダスにかかわっている者達は鍛えているから、すんでの所で避けられるだろう。

 だが、これが貴族連中の集まる、浮かれた夜会の場であったなら。

 カリダに近づいてきた男共の足は、ことごとく無意識の攻撃に粉砕されてしまう。

「やはり、少し問題はありますか」

 口元へ手をやり、さすがに酷い事態になると気付いてうな垂れるカリダ、それを見て苦笑しているモネータを眺めると、アンシャが驚いた顔をして、アネッロを見た。

「やはり、このままでいる事は無謀でしょうか」

「そうでしょうな。これでは、夜会が血の海になってしまう」

 今回の目的は、夜会への潜入だ。麗しき場を、阿鼻叫喚の事件現場にする事ではない。

 面白いが、仕方がないかと呟けば、アンシャも残念そうにうなずいた。

 それを耳にしたモネータは、何か物言いたげな顔をしていたが、吹っ切るように一度眼を閉じる。

 次に、その青い双眸を見せた時には、何の疑問も映してはいなかった。

 思い出したように置いた盆を手にしたモネータが、給仕から飲み物を受け取る練習をと、さりげなくカリダに近づこうとし、アネッロが右手を上げて止める。

「若い令嬢と話がしたい男の役で渡せ」

「……はい」

 アネッロの他三名が、お互いそれぞれをぎこちなく見回し、微妙な空気が生まれた。

 さっきの今だ。当然の事だろうが、カリダを慣れさせるには、回数をこなすしかない。

 モネータも意を決して盆を置き、グラスを取り上げる。

「可愛らしいお嬢さんですね。アンシャ様のお知り合いですか?」

 カリダよりも少し前に回り、モネータはその美貌を穏やかに綻ばせながら近づき、グラスを少女へと差し出し――自身の身体よりも後ろへと腕を引いた。

 差し出していたグラスのあった場所に、横に振り払ったカリダの手が勢い良く通過していく。

 部屋を押し潰しそうなほどの沈うつな静けさが、四人を容赦なく包み込む。

「……カリダ」

「…………いんです」

 アネッロが眼を細め、呻るように声をかければ、下唇を噛んでうつむいたカリダが弱々しく呟いた。

「カリダ、はっきりとおっしゃい」

 アンシャの教官たる声音に、カリダは顔を上げ、はっきりと宣言した。

「気持ちが、悪いんです!」

「……は?」

 反応したのは、誰でもない、モネータだった。

 衝撃を受け、立ちすくむモネータを見もせず、カリダは頭を抱えて苦しげに身を捩らせる。

「おれに近づいてくる男は、おれの何もかも奪ってく! 触ってくるヤツほど、碌なヤツじゃねえし! なんだよ、話しかけてくんじゃねえよ。近寄ってくんじゃねえよ! 全員、ぶっ潰してやる、えぐり取ってやる! 男である事を心底後悔させてやる!」

 結われたカツラを掻き乱し、それを引っ剥がして床に叩きつける。

 金切り声を上げ、カリダは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、口汚く散々悪態を吐いた。

 しばらくそれを眺め、肩で荒い呼吸を繰り返し始めた頃に、やっとアネッロは静かに口を開いた。

「話はそれだけか? 明日の昼までに克服しろ。モネータ、続けろ」

「アネッロ様! 少し休憩を……」

「混乱している時ほど、辿らせる道を刷り込みやすい。私が良しと言うまで、間を空けず繰り返せ」

 指示だけ与え、アネッロは机から腰を離した。

 苦い表情のまま、カリダの前に立つモネータに、今度はアンシャから檄が飛ぶ。

「それでは、カリダの抱えている物を引き出す事が出来ないわ。あなたが思う、気に入らない貴族の態度を思い出して」

 その言葉に、モネータから殺気が漏れる。すぐに制御していたが、彼の眉間には深くしわが刻まれていた。

「出来ないのであれば、私がお相手を致しますが? 小さな淑女レディ

 アネッロが、モネータの横に立つ。

 ただ、それだけ。負の感情など、一切見せていないというにもかかわらず、カリダは蒼白になって背筋を伸ばして直立した。

「まずは、モネータお兄様に、お願いしたいと思います!」

 簡単に手の平を返したカリダが、了承しろと強く訴えかける眼でモネータを凝視する。

「つれない事を仰る。私では、参考にならないと?」

 モネータが返事をするその前に一歩近づき、右手で小さな手を取って身を寄せ、至近距離からわざと寂しげな声を出してやる。

 男など潰す、抉ると喚いていたカリダは、抵抗するどころか見て分かるくらい全身を強張らせ、竦み上がっていた。

「いえ、わたくしでは、まだ未熟、過ぎますので……っひ!」

 耳元で息を吹きかけるようにして小さく笑ってやると、カリダの首筋や頬、手の甲にまで鳥肌が立った。

 慣れない事に恥ずかしがり、顔を赤らめるどころか、猛獣の檻に放り込まれ死を覚悟した悲壮感に打ち震える。

 アンシャがうっとりと熱い息を吐き出し、うらやましいとその息に言葉を乗せた。

 カリダもモネータも、それに構っている余裕はなく、当然アネッロも聞かなかった事にする。

「ぼ、ボスのお相手が務まるくらい、お兄様に教えを請い、真剣に勉強させていただきます」

「そうですか。では楽しみにしていますよ?」

 ふわりと笑い、左手で頬を優しく撫でてやれば、ますますカリダに死相が浮かぶ。

「はい」

 反射のみで返される言葉に、アネッロは楽しげに笑い、カリダから手を離した。

「所要を済ませてきます」

 モネータへと振り返れば、彼の上がっていた肩が緩やかにおろされていくのが分かった。

「克服出来るよう、叩き込みます」

 いつも通りの畏まったモネータが、いつになく物騒な物言いで、アネッロを送り出すために頭を下げた。

「任せましたよ」

 そう言って部屋から出れば、扉越しにカリダの悔しげな叫びが聞こえてくる。

「なんでもハイハイ言う事聞いてんじゃねえよ! って、もう兄ちゃんの事とやかくいえねえ!」

 アネッロは、階段を下りながら、それを聞いて苦笑した。



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