小さな淑女の最終確認
先に上りきったアネッロが、事務所の扉を開けずに階下を見下ろせば、彼女は扇で隠しきれていない目元を吊り上げていた。
モネータが支えるように腰に手を添えれば、カリダは一瞬だが身体を硬直させていた。
羽根扇が風を受けたのか、わずかにふわりと靡いて、強張って上がっていた肩が落ち着きを取り戻すかのように違和感のない位置にまで下がる。。
手助けを拒むよりは、利用してやろうとでも思ったのだろう。
慎重に階段を踏みしめているカリダの足には、踵の高い靴。
慣れていなければ、その痛みと不安定さに転げ落ちる可能性もある。
腰にあてている側のモネータの腕に、力が入ったから間違いはない。
事務所に入った所で、三人はカリダを取り囲んだ。
正面にアネッロ。左後ろにはモネータが立ち、右後ろではアンシャが眼を光らせる。
最終確認だと判断したのだろう。
カリダは顔の下半分を隠しながら、身動ぎ一つしなかった。
少女に声をかけるでもなく、アネッロは立ち居振る舞いが崩れないかを、ただ眺めていた。
カリダにとっては、遥かに長いと感じるだろう時間、わずかな動きすら見逃さないよう、眼を逸らす事はない。
「……緊張した時ほど、肩を意識して下げろ」
コルセットで締め上げられている事もあり、ただ観察されているだけの立場に、息苦しさが増したのだろう。浅い呼吸になってきたカリダの肩が上がってきていた。
声をかければ少女の目が僅かに見開かれ、上がりかけていた肩が力を込めて下げられる。
「頭が前に出ているわ。肩ばかりに意識を向けては駄目。一つを意識したら、全身を見直しなさいと言いましたわね?」
「……はい」
アンシャから注意が飛べば、カリダは掠れた声で素直に返事をした。
使い慣れていない筋肉が七日間酷使され、コルセットの絞りが更に身体に負荷を与える。最初の三日間は、息をする事すら辛かったはずだ。
筋力の鍛錬や、走り回らせていた事で体力はあり、多少の筋肉もついたきていただろう。だが、ただ姿勢良くしているだけの筋肉は、やはり別物だ。
コルセットで背筋を支えられている事は確かだろう。
しかしそれは、常に姿勢悪く、背を丸くしていたカリダからしてみれば、支えというよりも矯正になる。
緊張と筋肉疲労で、のどが渇ききっているのだろう。
それに気付いたモネータが、アネッロへと視線を送ってきたため、小さくうなずいてやる。
一礼して出て行ったモネータに、カリダは振り返りもせず、前進を軽く揺するようにして姿勢を正した。
「不恰好な動きをしてはいけない」
「……若輩者ですので、ご教授頂けますか?」
アネッロの言葉に、カリダが困ったように眉を下げて見せる。
小さな淑女が恥らいながらも頼ってくる姿は、確かに興をそそるだろう。
だが残念ながらその声は、挑戦的にも戸惑ったようにも聞こえるため、表情と一致はしていない。
彼女が必死に取り繕おうとしているのは窺えた。
好色な者ならば、形が多少一致していなくとも、手を差し伸べる範囲ではあるだろう。
「これは、ザイエティ殿の経験から?」
「ええ、カリダは特に十二満たないようにも見えますから。こういった者に頼られる事がお好きな殿方は多くいらっしゃいます」
アンシャの言葉に、カリダの眼があからさまにげんなりとしたのが見て取れた。
では『そのような者』がやりそうな事を。と、アネッロがカリダの持つ扇に指を引っかけて顔を出させると、少女は明らかにうろたえて眼を泳がせる。
「教えて差し上げますから、お顔を見せては頂けませんか。可愛らしい淑女」
わざとからかう声を出し、柔らかく笑んでやったが、カリダは顔を赤らめるどころか息を呑み、更に緊張を高めて硬直した。
アンシャが少しだけ身構えるように動いたが、助け舟を出す事もなく、カリダの判断に任せる事にしたようだった。
「ご教授、賜りたいのではなかったのですか?」
「え、ええ。ごめんなさい。こういった場所に、まだ慣れていないものですから」
数度眼を瞬かせてから、笑顔を張り付けたカリダは扇を閉じ、穏やかに両手を腹の辺りで組んだ。
「そう。姿勢を整えたい時は、同じ格好のまま直すので違和感を生む。今したように、別の動きを取り入れると不自然さは消える。意識して立て直せ。配慮しろ」
どこか硬い所があった顔が、晴れやかなものへと変貌する。納得できる何かがあったのだろう。
それを確認して、アンシャが安堵して胸に手を当てたのを、アネッロは見逃さなかった。
「ザイエティ殿、何か思うものがありましたか?」
そう声をかけたアネッロから眼を逸らしたのは、アンシャではなくカリダの方だった。
見られていたのかと苦笑しながら、アンシャはカリダに向けていた眼を、アネッロへと動かす。
「え、ええ……その、ジュダスさんでしたら、大丈夫だったとは思いますが。様々な状況を踏まえて練習をした際、カリダに手を出そうとした相手は、ことごとく……その、酷い抵抗に遭ったものですから」
「例えば?」
「多くは、金的への蹴り上げ。背後から抱きすくめられた際には、腹部への肘内や、相手の顎に後頭部で頭突き。してはいけないと教え込みはしましたが……」
アンシャがちらりとカリダを見たが、少女は誰の眼からも避けるように顔ごとそっぽを向いている。
それを見て小さく笑い、アンシャはとても爽やかな笑みで、アネッロにうなずいて見せた。
「私のしてやりたかった事を、こんなにも清々しくやり遂げるカリダを、妹にしたいくらいですわ」
アネッロは、沈黙した。
何かしでかしたのだろうとは思ったが、かなり大立ち回りをしたようだ。
まるで音が消えてしまったかのような部屋の中は、居た堪れない空気で埋め尽くされている。
カリダは唇をとがらせて、何を言うでもなく、壁を見つめたまま顔を赤くしている。
それを見て口元に手をやり、笑いを堪えていたが、ついにアネッロは耐え切れなくなり声を上げて笑った。
練習相手は、おそらくザイエティ家が抱えている執事や下僕達だろう。
彼らがされた事を思えば、申し訳ないが笑いが込み上げてきて仕方がない。
通常の女子であれば、怯えて動けなくなるか、腰に回された手を抓『つね』るか、踵の高い靴で酷く踏みつけるくらいだ。
それでも、踏みつけたらどうなるかが分かっている女は、よほどの事がない限りしない。
ましてや小さな女の子が、淑女ではあり得ない情け容赦のない攻撃をしてくるなど、誰が考え付くだろうか。
アンシャに、こうしろと命令されるたび、彼らは決死の覚悟で挑んだだろう。
飼い主としては真実、大変申し訳なく思ってはいるのだが、心の底からおかしくて仕方がない。
さすがに笑い過ぎたのか、カリダが勢い良くアネッロへ顔を向け、耳まで赤い顔をして睨み付けてきた。
「そんなに笑う事、でしょうか。わたくしだって、身の危険を感じたら抵抗くらいします!」
「それが、頭突きや金的ですか。さすがですが、自重するように」
アネッロはなんとか笑いを収めたが、カリダは納得出来ずに顔を歪めている。
「……どうしたら、いいのですか? むざむざと相手の手に乗らざるを得なくて、喜ばせるなんて我慢出来ません!」
「慣れていない人間を見つけて、わざとちょっかいかけて相手の反応を見て喜ぶ輩が多いという事ですよ」
「はあ!? いい大人が? クズじゃねえ……く、クズじゃございませんこと?」
慌てて取り繕ったカリダだったが、彼女の後ろでアンシャが額に手を当てて嘆息した。
アネッロは口の端を持ち上げて笑い、少女の小さな頭を右手でわしづかむ。
「語尾だけそれらしくしても駄目だとは、教わらなかったようだな」
「お、教わったよ! じゃあ、クズって他になんて言ったらいいんだよ!」
「言うな、飲み込め」
じわじわと締め付けていく手を、カリダは武器にもならない扇を床に捨て、両手で引き剝がそうとしてくる。
「理不尽だ! やられたら、やり返すのが当然だろ! なめられた時点で負けなんだよ!」
アンシャは、それを聞いて吹き出す。
アネッロの腕に、明らかに傷をつけようと爪を食い込ませてくるカリダの手には構わず、じっくりと指先に力を込めてやれば、少女は悲鳴を上げて降参した。