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 事務所の鍵をかけ、軋む階段に悲鳴を上げさせながら下ると、大扉の鍵をかける。

 すりガラスは黒く染まり、外には人の気配はない。

 小扉を開けば、嗅ぎ慣れた野菜とベーコンのスープの香りが漂い、薄暗い廊下の先に暖かな光が揺れる。

「アネッロ様、準備出来ています」

 大きめの器に盛ったスープをテーブルに乗せ、顔を出したアネッロにモネータが直立する。

 アネッロが席に着いてから、モネータも遅れて席に着いた。

 それを見計らって、スプーンを取り上げながら、アネッロは口を開く。

「明日、カリダが戻って来ます」

「……そうですか」

 モネータはスープを掬い上げていた手を止めて、ゆっくりと器に戻した。

 眼を落としたまま黙り込んだモネータに何かを感じ、アネッロは彼に黒い瞳を向ける。

 何度かアネッロに眼を向けてから、モネータは大きく息を吐いて、上げ下げしていたスプーンを諦めてスープ皿に沈めた。

「アネッロ様。私は、カリダを教える事が出来るのでしょうか」

 苦い顔で、モネータはアネッロを見た。

 眼の前の真摯な眼差しの男が言いたい事は分かっている。カリダは、どれだけ教えてもちゃんとした食事を作らなかった。

 教えられた事の枠から、必ず横に逸れようとする。料理ならば、教えられた時間や調味料をわざとずらしたり、違う物を使おうとした。

 掃除も片付けも、眼を離せば誤魔化そうとする。

「私やモネータが一緒に居過ぎているせいで、カリダに甘えが出ているのかもしれませんね」

「甘え、ですか」

「ええ。あれは、私を怖がっているようで、どこまでしたら怒られるか追い出されるかを確かめているようにも見えます」

 どこか卑屈な態度を取りながらも、少女のその眼は、常に二人を観察していた。

 アネッロが口元を緩めると、モネータは驚いたように口を引き結ぶ。

「まあ、ザイエティ殿がどうにか出来るかもしれませんし、彼女にもどうにもならないかもしれない。カリダを教育出来る誰かが、どこかにいるのかもしれない」

「私は、カリダに必要ない。と?」

 悔しそうにモネータが呻くのを聞き、アネッロは呆れた感情を抑えて、静かにスープを口にする。

「……自分に従わない事が、気に入らないのか」

「は?」

「どうして従わないのか、考えた事は?」

「あります。ですが、結論が出ません」

 スプーンから手を離しているモネータは、真っすぐアネッロを見ている。

 行儀は悪いが、アネッロは目の前に置かれているスープを、大きく円を書くようにスプーンを動かした。

「カリダを見てきた上で、お前の見解はどうだ」

「……カリダは、だらしがなく、いかに手抜きをするかを常に考えているように思います。ただ、自分に利益のある事に関しては、非常に貪欲になる。いつ追い出されてもいいように、生きる術だけを読み取ろうとしているのではないかと」

 思いつく限りを、モネータは語る。

 それを聞いて、アネッロはスープを口にした。眼だけで先をうながせば、彼は少し押し黙ってから、重く口を開く。

「私は、料理も身の回りを整理する事も、生きる事に繋がると思っています。カリダと違い、外で生きた事は数日しかありません。ですが、追われないために自分の痕跡を消す。それは身の回りを整える事にも繋がるし、料理の手際を最低限に抑える事も必要になる」

「お前達は、自分の生きてきた術を話し合いましたか?」

「……いえ」

 モネータは、自分の生い立ちを思い出しているのか、顔を強張らせて眼を伏せた。

「全部を話せとは言いません。カリダも言わないでしょう。教える事のみに固執していないか。言わなくても分かるだろうと、必要な会話を怠っていないか。本当に相手を理解しようと努力しているか。もう一度よく考えてみる事です」

「はい」

 神妙な顔でうなずいたモネータは、やっとスプーンに手をやり、冷めたスープに取りかかった。


  *


 明くる日の朝、ザイエティ家の紋章が刻まれた、美しく磨かれた二頭立ての馬車が、ジュダス商会の前に止まる。

 アネッロとモネータは、それを出迎えるために、大扉の前で立つ。

 大通りには、店の準備をする人々が眼を丸くして、それを興味深げだが遠巻きに眺めていた。

 御者が降りてきたが、馬車の扉を開けるでもなく、ただ何かを待っていた。

 モネータが不思議そうな顔をしたが、アネッロが黙っているので、特に何か口にする事はない。

 しばらくすると、中からコツリと扉が叩かれ、そこでやっと御者が扉を開ける。

 落ち着いた色のドレスを身につけた少女が、土の地面に降り立った。

 あごを引き、凛と背筋を伸ばし、軽く前で揃えた指先は違和感なく美しい所作だった。

 アネッロは、頭の先から足元まで、値踏みするように眼をやる。

 立ち居振る舞いに違和感がないかを確認するためだが、一瞬周囲からざわめきが消えた。

 愛らしく化粧を施した少女に眼を奪われているようだった。

 誰かが、感嘆の吐息を吐き出した時、やっと空気が動いた気がした。

「……こ、れは」

 モネータが掠れた声を絞り出しきれず、息を呑んだ。

 目の前にいる麗しい少女は、笑おうとして失敗したようだった。片方の頬が引き攣るように痙攣し、笑う事を諦めたカリダに、アネッロは、軽く笑い声を上げる。

「なるほど。詰めは甘いが、上々の出来ですね」

「お褒め頂いた。と、受け取らせて頂きますわ」

 後から降りてきたパンツスーツの女性、アンシャは眼を細めて口の端を持ち上げて見せた。

「では、お嬢様。我が商会へお越し頂き、感謝致します。むさ苦しい所ではございますが、どうぞお入り下さい」

 恭しく頭を下げれば、カリダは頭の中で何かを切り替えたように、可愛らしい笑みを浮かべた。

「ええ、そうさせて頂くわ」

 アネッロはモネータに大扉を開けさせると、まず自分が中に入り、カリダを促した。

 そこでカリダが少し眉を顰め、持っていた羽根扇を広げると、口元を隠す。

「こちらでは、男性がエスコートをなさいませんのね」

「これは失礼致しました。狭い所ですので、行き違うのも難しいのが現状です。階上の扉を開ける事を考えますと、こうせざるを得ませんで」

 そこで勝手知ったる場所ではあるが、一足中へと踏み出してから、カリダはわざと興味深そうに周囲を眺め、小さく息を吐いた。

「……そのようですわね。いいわ、平民の規則というものもあるのでしょう?」

「ええ、ご不便をおかけして」

「いいのよ。なんだか新鮮で、面白いわ」

「そう言って頂けると、助かりますな」

 アネッロが柔らかく笑みながら、どうぞとうながしながらも、先に階段を上がる。

 踵の高い靴を履いているのだろう。カリダはそびえ立つ急な階段をゆっくりと見上げ、整えられた眉がつり上がった。

 顔を半分隠したカリダが、アンシャへと振り向こうとした時、大扉を閉めたモネータが助け舟を出す。

「お嬢様。私のような者で申し訳ありませんが、どうぞお手を」

 カリダの右側から手を差し出され、変な事を言うなと怪訝な眼で背後を見やれば、アンシャが静かに声をかけた。

「このような狭い階段は、通常では在り得ません。ですが、この場合では、男性は女性が足を踏み外した場合を考慮して、支えられるよう背後に立つ場合もあるのですよ」

 それを聞いて、カリダは納得したのだろう。

 小さくうなずいて羽根扇を左手に持ち直すと、モネータの大きな手に自分のそれを躊躇いがちに重ねた。



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