夢が映す真実 2
兄はライアンの父親である、その当時のラクルスィ領主に頼み、呆然として表情をなくしたアネッロの記憶力から、両親を取り囲んでいた男達の顔を描かせた。
今、行われているかのような生々しい情景を見渡しながら、幼いアネッロは少しの歪みも、わずかなズレも許さず、完璧な犯人像を描き上げさせた。
それは、胸から上の絵と、立ち絵にはその者の雰囲気がはっきりと伝わってくる。
着ている服のしわから、髭のはね方、さすがに陽が落ちてからの事だったため、全ての色合いは暗いものになってしまったが。
そして見せつけるように掲げられていた三枚の旗があった。
どれも同じ物だったが、それを描かせた時、ラクルスィ当主が低く呻いた。
それは、見知った物だったのだろう。そして暇さえあれば、全ての姿絵と旗を頭に叩き込むように凝視していたのは、他でもない兄だった。
兄がラクルスィの騎士に混ざり調練を始めたのは、保護された次の日からだ。
部屋に籠り続けていたアネッロだったが、その一週間後、兄と共に身体を鍛える事から始める。
二人を支えているものは、憎悪と復讐に他ならなかった。
生きろと最期に口にした父が、二人の子供ならざる顔つきを知れば、望んでいないと叱りつけただろう。
だが、愛情を注いでくれた二人を目の前で殺された兄弟に、ラクルスィの当主夫妻や奔放を地でいくライアンでさえ、あまりにも痛々しい様子の彼らに止めろとは言えなかった。
二年たった頃、みるみるうちに体つきが変わり腕を上げた兄は、ラクルスィの騎士にならないかと打診されていた。
しかし、兄は断っていた。
誰が犯人なのか分からない状況で、当主は二人を匿ってくれ、新しい名まで与えてくれた恩は計り知れない。
だが二人の目的は、穏やかに静かに生きる事ではなかった。
二年半過ぎたある深夜、硬い表情をした兄が、アネッロを静かに起こしに来た。
ああ、いよいよだ。
やっと父様と母様の無念を果たしに行くんだ。
暗く厳しい青い瞳に、アネッロは、はっきりとそれを読み取っていた。
兄ほどの腕はなかったが、十歳になったアネッロは歓喜のような高揚を感じながら、傍らに立てかけていた剣へと手を伸ばす。
しかし、それは兄の手に遮られた。
「お前は、ここに残るんだ」
静かに囁く兄に、アネッロは食ってかかろうと声を上げる前に、兄はもう片方の手でそれを塞ぐ。
「お前は、俺より聡い。分かるか? 今のお前では、奴らには到底勝てない」
兄の手を振り払い、少年は怒りに顔を引きつらせながら、静かについて行くと繰り返す。
だが、兄は少年の薄い肩をつかみ真直ぐ見つめると、彼はアネッロを力強く抱きしめた。
「いいか、あの場にいた奴らを殺すのは俺に任せて、お前は外から全て潰せ。何年かかってもいい、二度と再興出来ぬくらい徹底的にやれ。ラクルスィ様が、手を貸してくれるはずだ。蟻一匹通す隙すらない策を、お前ならば考えられるだろう」
嫌だ、ついていく。溢れる涙を抑える事をせず、兄の背にアネッロは小さな手を回し、彼のシャツを握りしめる。
絶対に、放さない。彼がいなくなってしまったら、誰も、いなくなってしまう。
兄は、生きる事を捨てていた。例え二人で乗り込んだとしても、多勢によって捕まり、両親のような殺され方をするだろう。
兄は、感情の籠らない声で滔々と話す。
「最期のあの日、父様は言った。お前達が人としての生を全うするためには、ほんのわずかだろうが、人の血を口にしてはいけない。と」
何を言っているのか、分からなかったよ。
そう言って、身体を離した兄は酷薄に笑った。
少年は、背に冷たい何かを感じて小さな身体を震わせる。
その時は分からなくとも、今はもうその理由が分かっているのだと、言外ににおわせていたから。
アネッロは、その時に見たものを、信じたくはなかった。
呆然と、ベッドに座り込んだまま動けなかった。兄は、昔見せた柔らかな微笑を浮かべ、アネッロの頭に優しく手を乗せた。
頭の形を辿るように、それを滑らせて、細い首に手がかかる。
それは、酷く冷たいものだった。少年の高い体温ですら、彼の手を温める事はない。
「お前は、人として生きて欲しいんだ」
離れていく兄の手に追いすがろうとしたが、彼はいつの間にか消えていた。
――、俺を恨んでいい。お前だけは、染まらないでくれ。
新しく与えられた名ではなく、両親から貰った名前を伝えてくる。
少年は、取り残された部屋の中で、顔を枕に押し当てて泣いた。
一瞬でも、兄を恐ろしいと思ってしまった事が、伝わってしまったのだ。
彼に対する畏怖ではなかった。それを、誤解させたまま、兄を死地に行かせてしまった悔恨に心臓が締めつけられる。
父と同じ青い眼をしていた兄が、最期に見た父と同じ色をしていたから。
もし兄が戻って来なかったら、父と同じ事になってしまったのだろう。と、分かってしまうから。
兄は、父の死に際を待たず、弟を抱えるように引っ張って逃げた。
だが、アネッロは見ていた。父の首が刎ねられたその時、立派な体躯をしていた父はその原型を留めず、黒い塊になって、灰のように崩れて舞った。
自分も兄も、いつかは同じ運命を辿るのか。
恐怖に、身体が震えた。自分の中に、得体のしれない者がいる。
いや、中ではなく、自分そのものが――
――階段をのぼってくる音に、アネッロは眼を開ける。
ほんのわずか、眼を閉じているだけで、長時間寝る必要がない事。
兄は、あれから戻って来る事はなく、一人の薄汚れた青年が小さな小瓶に詰められた灰を持って、ラクルスィの門を叩いた。
絶対なる神を讃えた城が、ある一夜を境に潰えたと伝えられた。
机に置いていた眼鏡をかけ、机に置いていた木箱を開け、中から書類を取り出す。
扉を叩かれ、モネータが外から入室の是非を問う。
アネッロは右手で顔を一撫でした。体温を感じる。自分はまだ、人間でいるはずだ。
その体温は、自分が感じているように、他人は同様に感じるものなのだろうか。
ふと、一つ息を吐いた。
「入れ」
そう声をかければ、相変わらず畏まった声で返事をし、入室してくるモネータが夕飯の準備を終えたと報告してくる。
食事は入用としている。
だが、必要の有無は分からないが、父も兄も食事を摂取していたから、それでは判別がつかない。
「アネッロ様?」
「これが終わってから下に行きます」
「分かりました」
優雅に一礼し、モネータは疑う事なく踵を返す。
この男から、アネッロの体温が尋常ではなく冷たいといった言葉は聞かない。
自分の血は関係あるのか分からないが、他人の血すらも口に入れた事などない。
どれだけ厳しい戦闘を行おうと、それだけは気をつけてきた事だ。
自分の慟哭が耳に響き、小瓶を前にして、ライアン少年と当主が酷く顔を歪めていた。
兄も、死んだ。
だが、一人になってしまったはずの自分に、何故か眼を輝かせたライアンが付きまとった。そして他にも、決して自己主張をしない誰かが常にいるのだと分かった。
そして、それは増えている。その全てを自分が守る位置にはいないが、それでも――
アネッロは黒く染まった窓ガラスに眼をやった。
蝋燭の灯を消す。部屋は真っ暗になったはずだが、それでもうっすらと何がどこにあるのかが見える。
これが普通の事なのかは、分からない。誰に言う事でもない。
アネッロは数枚の書類の角を揃え、闇に染まる部屋の中を、危なげなく扉へと足を向けた。