夢が映す真実 1
明日、カリダを一度ジュダス商会へ戻す。とザイエティ家から下男が伝えに来た。
それを満足気に送り帰した後、アネッロは一人、美しく掘られた背もたれに背中を預け、眼鏡を外した。
陽は中天を過ぎ、いずれ山に落ちていくだろう。
小さな窓と扉があるだけの部屋は、すでに薄暗い。
階下では、モネータが動いている音がする。ゆったりとした足音は、焦りのないもので、カリダがいた時の騒々しさは皆無だった。
窓から差し込む白い光に、机が照らされているのを眼にしながら、アネッロは腕を腿に下ろし眼を閉じた。
下には、部屋が二つある。
モネータに一つを与え、もう一つはカリダがここに来る前でも、空けてあった。
身体を横たえて休んだのは、覚えもないくらい前の事だった。
そのまま、意識を浅く沈める。
何かあっても、すぐに対処出来るようにという意味もある。
だが、それよりも――
――アネッロの視界には、緑に覆われ、美しい湖畔に建つ屋敷があった。
夢の始まりは、いつも同じ所からだった。
むせ返るような緑の匂い。鳥が楽しげに囀り、空の色は深い青が広がり、雲は白く高い。
屋敷から出てきた七歳になる少年は、シャツを羽織っていても分かるほど鍛えられた父親の腕に抱え上げられ、楽しげに声を上げていた。
隣に並ぶ母親と十六歳になったばかりの兄も、小さい弟と父が言いたい放題している冗談だらけの会話に吹き出して、軽やかに笑っている。
父親に担がれて奇声を上げては屈託なく笑う少年は、アネッロ本人だ。
外から見ている状況に、最初はとまどったものだ。自分の記憶の反映であるのならば、父親の腕に腰掛けて笑う少年の視点になるだろうと思ったからだ。
眼にしたすべてのものを、忘れる事なく記憶しているならば、この位置に立つ自分はおかしい。
だが、この話をした時のライアンは、夢だからなと笑った。
反論のしようがなく、自分は押し黙るしかなかったが、それを見たライアンはまた笑った。
目の前の光景は何度も繰り返し見ているもので、懐かしいと思う感情はすでにない。
ここに立っている理由も、分からなくはなかった。
視線の高さは違うものの、この場所から見る景色と、陽の光に白く輝く屋敷を見るのが好きだった。
絵を描いたり、兄と駆け回ったり。陽が落ちても戻ってこない子供達を、使用人ではなく父や母が自ら声をかけに来てくれるのが嬉しかった。
この後、父と兄と三人で馬で遠乗りに出かけるのだ。母は笑顔でそれを見送る。
アネッロは父寄りかかるようにして、彼の前に乗せられ、兄は一人で乗れる事が得意で仕方ない顔をしていた。
何度も、見た。もう見たくないと、幼い頃は思っていたが、どうせ忘れる事は出来ないのだ。
陽が中天を過ぎた頃。屋敷に戻ろうと、父が言う。
兄も自分も膨れっ面をして、もう少しと父に引っ付いて懇願する。
領地の視察や仕事で飛び回っている父は、滅多に遊びに連れ出してはくれない。
だからだろうか、駄目だと言いながらも、くっついてくる子供達を嬉しそうに撫で、二人を担ぎ上げては自分を軸に回転する。
子供達は甲高い声を上げて笑った。降ろされた所で父に尻を軽く叩かれ、また声を上げて笑いながら馬へと向かう。
幸せだった。そう、幸せというものを、自分は知っていた。
この光景に、いつも思い知らされる。自分は人間でいたいのか、それとも――
ここで振り返ると、景色は一変する。見たくはないが、見ておかなくてはならない。
自分の敵を、自らに深く刻み込むために。
早足で駆ける馬の上で、男同士くだらない事をさもあったかのように話し、嘘だと笑いながら屋敷に向かう。
気付いたのは、兄だった。燃える匂いがすると、顔色を変えた。
すぐに父と兄は馬に踵をあて、走り出す。
もうすぐ屋敷が見える手前で、父は兄に馬を止めさせた。
父が先に地面へと降り立ち、私を馬から降りる。手綱を握らされ、何が起こっているかも分からない少年は、ただ呆然と立っている。
父は硬い顔で兄にも降りるよう命じる。混乱しながらも、それに従った兄を父は抱きしめた。
小さな声で何かを語っていたが、聞き取れなかった。
ただ、父の背中に回された手が小さく振るえ、大きな背中を覆う白いシャツを握りしめる。
父は、兄の背を何度か撫でてから、厳しい表情でアネッロに向かってくる。
そう、いつもここから傍観者である事を許されず、アネッロは少年の視点に立つのだ。
片膝をつき、父は私を抱きしめた。強張ったその腕に緊張を感じて、私は震えながら父にしがみつく。
兄の言う事を、しっかり聞くように。
そう言って身体を離し、怖がる私の頭を大きく硬い手で優しく撫で、私から手綱を取り上げた。
ここを動くな、何があっても声を出すなと厳命して、馬に跨った。
怯える二人を馬上から見下ろし、柔らかく笑った父は、もう戻ってはこないのだと知る。
涙を流す兄が、自分の胸に手を当てたのを見て、アネッロも父を見ながら兄の真似をして、自分の胸に小さな手を当てた。
父は一瞬、泣きそうな顔をしたが、同じように胸に手を当て、愛していると呟いた。
小さな声だったのに、それは小さな兄弟の心深くに刻み込まれる。
父が走り去ったしばらく後、遠くから上がる複数の怒号が聞こえてきた。
耳を押さえたくなるほどの、人々の怒りや恐怖による叫びに、アネッロは走り出していた。
兄の背後から制止する声が聞こえてくるが、細い足は止まる事はない。
浅はかだと思う。先で待ち構えているだろう者達に、敵う術を一切持ち合わせていないチビの子供が出来る事など、無駄死にくらいだ。
それでも、アネッロは行く先に待つ何かを見ずにはいられなかった。
だが、茂みから先には行く事が出来なかった。
酷く広範囲が燃えている匂いに怖気づき、枝葉の隙間からそっと覗き見る。
――無残な光景が、広がっていた。
屋敷は火をかけられ、窓という窓からは炎が噴出し、周囲は黒い煙と燃え盛る炎で煌々と照らされている。
あれだけ美しいと思っていた湖には、歪な黒い山が築かれており、眼を凝らしてよく見るとそれが人だと分かった。
朝、明るく笑い合った、昔から良くしてくれている使用人達が血に塗れ、開いたままになっている虚ろな眼には、大火の光に濁った光を揺らめかせている。
悲鳴を上げかけたが、アネッロは小さな両手で口を押さえつける。
父様は? 母様は、どこに?
馬をどこかに繋いできた兄が、横に並び、同じように口を押さえているのに気がついた。
ある一点に、眼が止まった。おそらく兄も、同時に気がついていた。
二人は、溢れ出てくる涙を抑える事をしなかった。声を上げなかったのは、奇跡だろう。
巨大な炎の前には、ならず者共が取り囲むように立ち、舐めるように揺らいだオレンジ色の光が、二人の姿を浮かび上がらせている。
両手を後ろ手に括られ、彼らの前に跪いている二人の男女。
伯爵である父親は、この土地を守る当主であり、領民からの信も篤い。
こんな事が起こるわけがない。
父が出かけた先で、何か恨みを買うような事があったのか。逆恨みによるものだとしか、アネッロには思えなかった。
他に考えようがなかったのだ。
とにかく、涙を袖で拭き取りながら、男達を眼に焼き付ける。
この頃から、自分の持つ眼が、それに伴う記憶力が他とは違うのだと分かっていたから。
父と母の前に、見た事もない槍をそれぞれ持つ男が二人立つ。
それは、槍の刃から持ち手まで、銀色の金属で出来ているようだった。
父が何かを訴えている。だが、男達は炎に照らされて鈍く輝く槍を低く構え、躊躇いなく、父と母の胸が貫いた。
おもわずだろう、兄が息を吸い込むようにのどを振るわせたが、歓声を上げる男達に掻き消された。
飛び出さんばかりの兄に、アネッロはしがみついて止める。
振り返れば、母の首を刎ねるのが見え、眼を見開いた。
首は、身を屈めた父の前に転がり、父の口からは悲痛な声ではなく血が吐き出された。
肺に血が入り息も出来ず、声を出すにも血が溢れてきてしまうのだろう。
母の身体が、ゆっくりと横に倒れ、父の腕に寄りかかっていた。
兄の身体から力が抜け落ち、二人は支えあうようにお互いの身体にしがみつく。
血を吐き出した父は顔を上げた。炎を背にしているため表情は見え難いが、燃えるような眼を赤く光らせ、周囲を睨みつける。
次は父の番だとばかりに、母を殺した剣を振り上げていた男は、小さく悲鳴を上げてたたらを踏む。
父の怒りに燃えた赤い眼が、呪いをかけるように見渡され、茂みに潜む二人を見つけて止まった。
驚きに眼を見開いたが、父は笑ったようだった。
怖気づいていた男は、それでも剣を持つ手に力を込めて振り上げた。
父の口が小さく動くのを、アネッロは見逃さなかった。
兄が泣きながらアネッロを連れて逃げた。絶対に同じ目に遭わせてやる! と、常に呪詛を口にしながら、ラクルスィに保護を求めた。
父に頼まれたのだそうだ。若い頃から交流の深いラクルスィの領主ならば、無下にはしないと。
安全を保障され、やっとその時、父が何を呟いたのか。その口の動きを辿る事が出来た。
――生きろ。
それが分かった時、アネッロは暗い部屋の中、柔らかいベッドの上で泣いた。
眼を閉じても浮かび上がる凄惨な光景から逃れられず、悲鳴を上げてのた打ち回り、七歳の自分は心を荒ませていった。