淑女の憂鬱
ガトが消え、カリダが救出されてから五日がたった。
カリダに至っては、事件の後アネッロの元に戻るでもなく、結局アンシャの屋敷で世話になっていた。
アネッロが提示した条件に、アンシャは呆然とした。
七日後に開かれる、モント家主催のパーティに参加出来るだけの礼儀を身につけさせろ。
モント家といえばシェーンの生家だが、いまや王都にも名を馳せるほど、商売で成功していた。
貴族にも覚えがめでたく、商売に関係している業者ともに繋がりを強化するため、定期的にパーティを開催している。
近隣の貴族として、アンシャの元にも招待状は届いているのは知っていた。
領主から捜査を任命されているアンシャだが、手に職を持っている女は、非常に生き難い。
無駄に噂されたり、嘲笑や嫌味を直接ぶつけられる事が普段から多々あるため、精神的に疲弊する有象無象が集まるパーティに参加する事はほぼなかった。
だが、その場所へカリダを連れて行き、叩き込んだ淑女教育の成果を見せろ。と言う。
貴族として、参加させろという事だと気づき、アンシャは猛抗議した。
貴族でもない彼女を潜り込ませるなど、下手をしたらザイエティ家に害が及んでしまう。
そう言えば、アネッロは柔らかく笑んだ。
「そうならないよう、叩き込めと言っているのですがね」
「カリダを、貴族の養子にでもしようと言うのですか」
「……さて、また話を繰り返す気ですか。ザイエティ捜査官殿が断られるのであれば、それでも構いません。ですが、困りましたね。他に依頼を出すとなると、ヨルン男爵の奥方か、もしくはヤナーシャ子爵のご令嬢辺りが妥当ですか」
さらりと告げられたその名前に、アンシャは眼を剝いた。
今、アネッロが名前を挙げた者達は、女に――特に少女に対しての悪い噂が両手ではおさまらないほどにある。
「正気、ですか」
「今から仕込むとなると、彼女達に任せるのが順当だと思いますがね」
「何が、順当なものですか! 彼女を、カリダを何だと思っているのです!」
「うちの働き手ですよ。十四だが、何も学んでこなかった子供だから、タダ飯食らいでいさせろとでも? 家事もろくに出来ず、出るのは悪態ばかり。最初に説明しませんでしたか? 我々では、女性らしさは教えられない」
引き受けざるを、得なかった。
いや、それでも断る事は簡単だった。
だが、眼の前での誘拐、そして犯人が見えているにもかかわらず取り逃がすという、失態という失態を重ねていた。
アンシャは眉間にしわを寄せ、持っている細い木の枝で自らの手を打つ。
アンシャの実家の一部屋で、執事が眼を向けてくる。
ザイエティ家を取り仕切っている執事に、カリダへダンスを教えるため相手をさせながら、アンシャは一つ一つの動きに眼を光らせていた。
なんでもないわ。と首を振り、続けさせる。
踵の高い靴をはき、カリダは歯を食いしばりながら笑みを浮かべるという、微妙極まりない表情になっていた。
慣れていても、足指には相当な負担がかかる。初めてカリダに履かせた時、彼女は悲鳴を上げて靴を脱ぎ飛ばしていた。
知識を突貫で叩き込まなければならないが、カリダは十四歳とはいえ、十歳にも見えない事もあり、何か聞かれても分からない振りをする事も可能だろうと判断した。
今から、政治的な知識を植えつけるのは、不可能だ。
しかし、出来る限り――と思って彼女に座学を強いていた所、執事に止められた。
外から見ていると、カリダはうなずいてこそいるが、理解しているようには見えなかったのだと言う。
それよりも、何を言われても乗り切る言葉と対応の仕方を、出来るだけ多く実地で教えた方が有効ではないかと助言を受けた。
そこで観察してみれば、アンシャの言葉に、確かにカリダは真剣そうな顔でうなずいてはいる。
だが、手元にある教材として渡した用紙には、眼を落としている素振りがない。
文字が読めないのかと聞けば、カリダは一瞬眼を見開き、開き直るようにへらりと笑った。
アンシャは、しばし眉間に指を当てていた。
七日しかないのだ。五日で取り繕えたらと思っていたが、出来る事は限られている。
カリダを救出した時、彼女は何事もなかったかのように、けろりとして見えた。
内容は、把握している。あんな事があったにもかかわらず、カリダは気丈に前を向いていた。同情する素振りを見せれば、彼女は黙れと睨みつけてきた。
連れて来た日。夜に一人になった時、泣いたり不安定になる事だろうと、カリダにつけた使用人にしっかり見ているよう指示を与えていたが、何事もなく、ぐっすり眠れたようだ。
外で暮らしていたと聞いている。泣いている暇など、なかったに違いない。
根性はあるのだ。学ぶ力も、ないわけではない。
そして、パーティに文字は必要ない。
アンシャは一つ息を吐き、もう一度カリダに眼を向ければ、少女は唇を尖らせてそっぽを向いた。
そこでアンシャは、座学を捨てた。
「よろしいでしょう」
ドレスのすそを華やかに舞わせて、まだぎこちなさは残るが、それでも足元を見ずに踊れるようになっていた。
アンシャが声をかければ、二人は動きを止めた。
執事が柔らかく微笑し、カリダの指先にキスを落とす。
それを受けて、カリダは顔を引きつらせながらも口角を必死に持ち上げながら、膝をわずかに屈伸させた。 ドレスが小さく膨らんで、そして元通りになる。
ダンスをしてくれた相手への、一番簡単な返礼だ。
練習当初、手を持ち上げられ、キスされそうになった時の彼女は見物だった。
ぎゃっ、と声を上げたかと思ったら、執事の頬を張り飛ばしていた。
驚きに眼を見張ったのは、アンシャもそうだが、昔から良くしてくれている執事もだった。
あんな小さな手で叩かれた所で、さほど被害は出なかったが、彼があれほど楽しげに笑い声を上げたのを初めて聞いた。
そこで、男性からダンスの礼を受けた時は、返礼をしなければならない。と教えた時の、絶望に満ちた少女の顔を見て、彼はまた笑った。
カリダが絶望したのは、何もわずかなキスだけではない。
執事を目指す若い下僕達にも協力を仰ぎ、貴族達が言いそうな美辞麗句を、カリダに向けて時には甘く顔を寄せ、時には身振り大きく賛辞を述べ。
初めて目の当たりにしたカリダは、うろたえて後ずさりしたが、彼らは面白がって、カリダとの距離を詰める。
社交界に出立ての慣れていない少女に、そういった態度をとる貴族は多い。
退屈を紛らわすためならば、対処法を教えるという名目の元、それと分からないようにおかしな行動を取る者もいるのだ。
最初はどういった対処をするのか見ていたアンシャは、またしても眼を瞠った。
――いや、なんとなく、そうなるだろう。とは感じていた。
部屋の角まで追い詰められたカリダは、何度か小さく呻いた後、突然甲高い奇声を上げた。
怯んだ男の隙を見逃さず、彼女は容赦なく目前にいる敵の股間を蹴り上げていた。
ただの練習でお願いしている下僕の彼には、さすがに申し訳なく思う。そして、壁際で並んでいる数人の男達を振り返れば、彼らは硬い顔で微動だにしない。
思わず「よくやった!」と高揚してしまった事は、彼らの顔を見れば言えるわけもなかった。
まったく、あの貴族どもに、何度そうしてやりたかった事か。
若干、胸が空いた思いに気分を良くしながら、暴れ足りないカリダを取り押さえた。
蹲ってしまった可哀想な彼には、特別手当をつけてやる事を、一人表情を変えていない執事にうなずいて知らせる。
とにかく、今の状況に対して、どう反応をしたらいいかをカリダに叩き込んだ。
五日たった今でも、その対処法が気に入らないようだが。
「カリダ。何度も言いますが、女である以上、耐え忍ぶ事の方が多いのよ」
そう告げれば、カリダはやはり難しい顔をした。
あれから、だいぶ慣れてきてはいる。ただ、張りつけた笑顔が時間が経つにつれ、無機質なものになっていくのが分かった。
アンシャがを次の者を呼ぶ前に、カリダはまっすぐアンシャを見る。
「大変な目に遭ってきたのは、何も孤児だけじゃないのですね」
言葉遣いも、聞くに堪えないものではなくなった。
もちろん、少々難は残っているが幼い見た目のおかげで許される範疇だろう。突然の状況に油断しなければの話ではあるが。
「生きる事が難しいのは……もちろん、外で生きている子供達でしょうけれど。この世界は、心が強くないとやっていけないものよ」
「アンシャ様は……すごい人なのですね」
カリダの明るい茶色をした瞳に力強さが浮かび、輝きに満ちた笑みを浮かべた。
そんな事を言われるとは思わず、どういう事かと先をうながせば、少女はのどを引きつらせるように笑う。
「貴族みたいなわけの分からない連中の相手も、ちゃんと出来て。わたしみたいな子供にも、嫌な顔しません。力ずくで、どうこうしようともしないし。女なのに、お偉いさん……領主様にも捜査官として選ばれました」
言葉遣いを思い出しながら、カリダが両手を拳の形に握りしめて、興奮している。
アンシャは、苦笑した。尊敬にも似た眼差しに、かつての自分が師と仰いだ人物を見る眼に重なるようだったから。
「私も、そのわけの分からない貴族なのですけれどね。後、今みたいに悪人のような笑い方はしないように」
「はい、気をつけます。でも、アンシャ様は違います! あんな貴族どもとは、全然違います。わたしの知ってる貴族って人間は……」
興奮気味に勢いのまま話していたカリダを、アンシャは右手の指を立てる。
はたと気付いたように口を噤む。何度か大きな瞳が物言いたげに揺れたが、言葉は出てこなかった。
それはどうしても悪態しか出ない時だと、アンシャは分かっている。
罵声を浴びせかけてやりたい、心のままに悪い言葉を使いたい。
そういう時は、どうしたらいいのか。という問いに、とにかく自分の興奮が収まるまで、ゆっくり深呼吸を続ける事。と、言い聞かせているからだ。
本人には、余計でもなんでもない一言。
だが、そのたった一言で、カリダが足の激痛に耐え、吐き気すら我慢してやってきた事が、すべて台無しになるのだ。
「お気をつけなさい」
そう窘めれば、カリダは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出してうな垂れる。
「……申し訳ございません」
「いいのよ。あなたの気持ちは分かります。さあ、明日は六日目ね。今まで習ってきた事を、総ざらいして貰います。今日はもう身体を休ませなさい」
カリダは小さな令嬢のように、小さく膝を曲げ、挨拶をして部屋を出て行く。
本当に、根性のある子供だ。
金貸しなどではなく、彼女ならばもっと――そう考えて、アンシャは首を振った。
「貴方達も、下がっていいわ。ありがとう」
彼らが退室したのを見計らい、アンシャはソファに身を預ける。
カリダの将来を、アンシャが決める事ではない。
彼女ならば立派な立場の人間に仕える事も、カリダ自身がもっと勉強すれば、店を構える事も出来るかもしれない。
ひょっとしたら、自分のように――そう思ってしまう。
孤児だったとしても、領主の権限があれば官職に就く事も、このラクルスィ領ならば可能だ。
だが、貴族だが『女』である自分がのた打ち回るほど酷く苦しい道程を、あの少女には歩んで欲しくはない。
それを、カリダが心底望むのであれば。『女』であり『孤児』という、身分すらないカリダの後ろ盾には、なってやりたい。
苦労してきたアンシャを見てきた父は、カリダにも寛大だった。
引き取る事を思えば、難色を示すだろうが、アンシャは説得し続けるだろう。
「考えても仕方のない事を、考えてしまう癖も。なんとかならないものかしらね」
そう独り言ちて、アンシャは頭を締め付けるように結い上げていた髪を解いた。




