自然の脅威
――言ってしまえば、しくじった。
考えなかったわけではない。ここは、森だ。
木々が葉を生い茂らせ実をつけるのであれば、例えそこが人工物だろうが関係なく獣が集まってくるのは必然。
ガトは身を潜ませながら、順調に山を下っていた。
よほど訓練された人間でない限り、寄せ集めの包囲網ならば、穴を見つけるのも容易い。
それを突破する度胸と、後は自分の中に、いくつもの選択肢を持っている経験がある事。
赤熊がこちらに気付いた事を知ったのは、ガト三人分の近さだった。
図体は大きくとも、走って逃げ切れる相手ではない。木に登ろうが、奴も登れる事を考えれば得策ではない。
ガトは赤と茶色が斑に配色された獰猛な獣から視線を逸らさず、もう遅いかもしれないが、これ以上刺激しないよう、ゆっくりと身を低く屈めた。
だが後ろからは、まだ赤熊に気付いていない連中が草を踏み、怒号を上げて近づいてくる。
音を立てれば、臆病な熊は逃げていくだろうが、時期が悪い。
巣篭もりするために、彼らは餌を探して獰猛になっているのだ。
そして、赤熊の特性は――
背後から人々の怒号よりも遥かに恐ろしい咆哮が聞こえ、途端に追っ手どもが悲鳴とも取れる喚き声が上がった。
そう、この時期の赤熊は、二体一組で行動する事が多い。
番となった彼らが子を生すために、狩りをするのだと言われている。もちろん、冬越えも兼ねてはいるだろう。ひょっとしたら、子熊がどこかにいるかもしれない。
人間が上げた悲鳴は、甲高いものではなかった。くぐもった低い呻き声や、苦痛による、ただ一音のみを長く吐き出す者。数に任せて布陣を整え、射掛ける指示が飛ぶ。
だが、蹂躙は止まらないのだろう。重く駆ける音が止まず、何かを噛み千切る音や骨だろう鈍く砕ける音が響く。
聞くに堪えない酷い音や声が消えるたびに、獣の唸り声がした。勝ち誇ったものではない、次の獲物を食らうために。
頭を下げて、眼を血走らせながらゆっくりと近づいてくる赤熊に、ガトは額に脂汗が滲み出るのを感じていた。背後を振り返る余裕はない。
眼を離した隙に、確実に距離を詰められるからだ。とにかく、背後は気配だけを追う事にして、必死に抵抗を試みているだろう追っ手を横目に見られるよう、ゆっくりと足を横に滑らせる。
静かに。赤熊の意識が、少しでも大騒ぎになっている背後へと向くように。
人間一匹くらい、見逃して貰えるかもしれないなど、甘い考えだとは分かっている。
後ろには獲物が多数揃っている。武器は携帯しているが、うまみとしては断然背後だろう? はぐれた一匹など捨て置いて、お前の相方と大量に獲物を狩れるほうがいいだろう?
必死に眼で語りかけてみるが、どれだけ通じているのか分からない。
いや、通じているわけがないというのも分かってはいるが、この地獄の中で生き残るためには、自分自身が冷静でいなくてはならない。
そして、最後の一人になる前に、この状況を打破しなくてはならない。
――打破、ってなあ。
表情を動かす事なく、ガトは胸の内で苦笑した。
俺はまだ笑えるのか。この状況であれば自身を嘲笑っている気もするが、余裕はありそうだ。と自己判断する。
わずかだが、ほんの、本当に少しばかりだが自棄になっている部分がないわけではない。
身を低くしたまま、ゆっくりと移動したのが功を奏したのか、目の前の赤熊が襲い掛かってくる素振りはない。意識を背けては貰えないが。
体勢を入れ替える事は成功した。横手には、目の前にいる赤熊よりも一回り大きな赤熊が血塗れで男達を追っている。
狩られる側になった人間共は、木々の隙間を縫いながら、賢明に矢を射掛けるなどして後退の機会を窺っているようだった。
二体揃っている赤熊から逃れられる確率は低いが、数がいる分、誰かは逃げられるかもしれない。
残りの一体は、奴らを挟み撃ちせず、ガトへと向かっているのだから。
赤熊が近づくだけ、ガトもそっと離れる。紫色の瞳を、何度かあいつらの方へ素早く向けてやる。時々、あごを使いながら。
そのおかげか、少しずつ目の前の殺戮者が大騒ぎしている方向を気にする様子が見受けられた。
ガトは、静かに息を整える。チャンスは一瞬。
目の前の獣が、その一瞬でもガトから視線を外しさえすればいい。
その前に、血塗れの赤熊がこちらを向かなければ生き残るチャンスは生まれる。
追っ手が生きようが死のうが、そんなものはどうでもいい。
――俺様さえ、生き残れば問題ない。
眼を獣に向けたまま、顔をわずかに左へ動かして、紫色の瞳で食い入るようにその金色の瞳を凝視した。
完全に、視線が噛み合った瞬間、それを素早く左へ動かす。
はたして、赤熊はそれに釣られた。
うまく釣られてくれただの、今だ身を隠せだのと、この状況で必要のない事を考える間もなく、ただ身体が反応していた。
現在に至るまで、長年厳しく叩き込まれてきた事は、無意識にでも対処出来る。
そこで脳裏に浮かぶものは、鍛え上げてくれたアネッロへの感謝でも、ガトを取り上げてくれた領主でもない。
身を隠し気配は殺せても、においだけは消しようがない。それだけだった。
血のにおいが充満していても、赤熊が立ち去らない限り、危険であるのに変わりはない。
塗れた大きな黒鼻を上げながら辺りを窺っていた赤熊だったが、騒ぎが離れていくのに気を取られたのだろう。
残念そうに周囲を見回してから、騒ぎの方へ巨体を捻り、立ち去った。
完全に気配が遠ざかるまで、ガトは吐く息すら殺し、森に溶け込み続ける。
赤熊が一体増えたからだろうか、遠くから悲鳴と指示の質が変わっていた。
咆哮が二つに増えた事を確認し、ガトはやっと一息ついた。
どっと汗が吹き出したが、もう一度だけ深呼吸をする。
立ち上がり、膝を払うでもなく周囲を窺った。
赤熊が暴れているからか、森の空気は緊張に満ちている。全ての生き物が、息を潜めている気がした。
ガトは、風の冷たさと血のにおい。そして暴力的な死が遠くなり、生きていると実感する。
だが、油断はしなかった。先を急ぎはするが、周囲への警戒を更に上げた。
集中力の維持は長く続かないが、火を灯すタイミングは心得ている。
ガトは、駆け続ける。人の気配が消え、しばらくすると道が見えた。
開けた道へとすぐには飛び出さず、一度方向を確認し、道に沿って森の中を進む。
出入りを見張っている者の気配は感じられなかった。
人の姿も見受けられなかったが、ガトはひた走りながらも、陰から出る事をしなかった。