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猫の辿る路2

 敷地を出て、すぐだった。

 山を下る方向へと曲がった所で、森から人の気配が浮き上がったと感じてすぐ、矢を射掛けられた。

 二人同時に前方へと飛び、転がった後すぐに立ち上がりながらまた走る。

 殺すわけではないのかと感じたのは、それが脚を狙っていたものだと気付いたからだ。

「……ったく! 悪質にもほどがある!」

 自分達が今までしてきた事は、とりあえず棚に上げ、ガトは毒づいた。

 隣を走るノーチェフへと眼をやれば、彼は無表情でうなずく。

 は、と小さく息を吐いた所で、また矢が飛んでくる。最初は二本の矢だったものが、三本になっていた。

 二人だった射手が、三人に増えた。元々いたのか、応援にかけつけた奴が増えたのか。

 それすらも避け切った二人に驚いたのか、森の中がざわめく。そして、やっと敵の姿がちらりと見えた。数は男二人だけだったが。

 弧を描いた道なりに走れば、前方に小さな岩が見えた。

 身を屈めれば隠れられるほどの大きさの物だったが、そこでガトはもう一度、隣の男へと眼をやる。

 うなずきこそしなかったが、その鋭い眼差しはガトから逸らされ、岩を見た。

 岩を通り過ぎる時、ノーチェフはそこへ身を隠す。

 脱走者の数が減った事に、すぐ気付いただろう。

 風を切る音が止み、森の中のわずかな動揺を感じ取ったガトが肩越しに振り返れば、やはり二人の男が木々の隙間から姿を現した。

 背中に片手の甲をあて、指を二本立てる。あの人数なら、敵ではない。

 ただ、どれだけ潜んでいるのかは分からない。

 人を人とも思わず追いたて、獣のように狩る者共だ。潜んでいる敵が、たった二、三人程度ではないだろう。

 人数を集め、最終的に囲み、絶望に歪む人間の顔を嘲笑いながら、嬲り殺す。

「まったく趣味が悪い」

 呟いて、気配が一瞬薄れた所で、ガトは躊躇なく森に足を踏み入れた。

 このまま走りやすい道を行った所で、身を隠す場所などない。ここは以前、一度来た事があり記憶に新しい。行けば、ただ狙い打ちされて死ぬだけだ。

 木々に紛れさえすれば、生き残る可能性も上がる。誰かが怒鳴る声が聞こえた。

 瞳だけを動かして、岩の方を見れば、ノーチェフも迷いなく森へと入っていったのが見えた。

 どちらでもいい、先に麓へさえ辿り着けば――いち早く辿り着けるのは、勝つのは俺様だ。

 臆病ノーチェフは、もちろん腕はいいが、溶け込み潜伏する事に長けている。だが、ガトは逃げ切る事に関しては誰にも負けないと自負していた。

 少し駆ければ、すぐに急勾配になり、人の気配と風を切る音を感じ取り、少しの動作で避けた矢は、その時傍にあった樹木に突き立っていた。


 走れ、足を止めるな――血が沸騰するようだ。集中力が高まっている。背筋が何かを期待するように逆立っているのが分かる。

 命が、燃えている。ガトは噛みしめた歯を見せるように口を笑う形に開けていた。

 やはり、命を賭した駆け引きは、いい。

 こんな劣悪な状況が楽しいだなんて、狂っているのは自分の方だろう。くくっとのどが鳴る。

 殺気が前方で生まれた。

 隠れているつもりなのだろう。瞬時に眼を凝らせば、茂みの葉の隙間から鈍く光る物を視認する。

 背後では弓を引き絞る音。

 全身の毛が逆立っているのではないかと思うほど、ガトは高揚していた。

 滑り落ちるように全力で駆けるガトがそこへ到達する僅かに早く、槍が突き出される。それでも走っていたガトの腹を裂くには十分なタイミングではあった。

 だが、ガトはその手前で、間髪入れず跳躍していた。

 転がってやり過ごすとでも思ったか、すぐ後にガトがいた場所へ矢が突き立つ。

「なっ……!」

 茂みの中で声がしたが、宙に放り出され、高所から落下するその感覚に、思わず口笛を吹いていた。

 靴裏が地面を捉え、積み重なった枯葉を掻き分けるように地面を滑る。二本の線を残して、その勢いを殺さず、また駆ける。

 全力疾走だ。それについてこようとしている敵が、何人か背後で酷い音を立てていた。

 幹にでも激突しているのだろう。ざまあみろ! と思いながらも、ガトとて少し間違えば同じ道を辿る。

 しかし、それはあり得ない。そう感じていた。

 判断を間違える気がしなかった。それだけ集中力が高まり、視野が広がっていた。

 それが長時間持たないだろう事も分かってはいるが、それでもすぐに切れるわけではない。

 楽しくて堪らない。

 少しの油断で肩が幹に擦れたが、気になったのはその先だった。

 鬱蒼として薄暗い森が、光を取り戻し始めていた。先が拓けているのだろう。

 いくら駆け下りているとはいえ、麓に辿り着くのはあり得ない。

 頭の中で、地形を思い浮かべ――死の予感に鳥肌が立つ。

 素早くベルトを抜き取る。バックルから鋭く長い爪を引き出し、ベルトの端を手首に縛りつけた。背後で悲鳴が聞こえてくる。

 全力で駆けているから、容易には止まれない。もうすでに、無理に足を止めて勢いを殺すために地面に転がったとしても間に合わない。


 すでに見えている先は、切り立った崖だった。


 近くの木に、その爪を叩き込み、ガトは崖へと飛び出した。

 すぐに悲鳴を上げながら三人の男が、後を追う。

 爪を支えにして、飛び出した勢いをそのままにベルトがぐるりと幹を回って、ガトは引っ張られる力に逆らわず地面へと戻ってくる。

 一瞬の出来事だった。地面に降り立った時、幹に叩き込んだはずの金具が外れて落ちる。

 さすがに、冷や汗が流れた。

 その一時が、明暗を分けていた。崖の向こう側へと全身が投げ出された時に、爪が外れていたら――

 ガトは茂みに身を隠し、少し歪んだ爪をバックルに押し込みながら、腰周りにベルトを戻す。

 その間に、また二人ほど崖向こうへと飛び出していった。

 遠ざかっていく悲鳴を聞きながら、身体を低く保ち、ガトは崖沿いに山を下る。背後から男の声がしたが、追ってくる気配はない。

 投げ出された時に見えたが、深い谷で下には川が流れていた。覗き込んだ所で、落ちた人数の確認も出来ないだろう。

 跳ね回る心臓を宥めるように、ガトはゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 敵がどれだけ広範囲に散っているかなど、見当もつかない。

 鳥の声一つ聞こえない森を、耳をそばだてながら慎重に先へと進む。

 一先ずの危機は去ったが、ガトを確認出来なかった以上、残った奴らの中で確認のために山を下る者も出てくるかもしれない。

 そして五人も『飛んだ』のだから、脱走と合わせて『婚約者』へと報告に行くだろう。

 西の金貸し、ナンス=フィダートの駄目息子。

 ナンスは、息子のルイスを後継とはしなかった。あの男は、自分にもそして身内にも冷酷で厳しい。

 ルイスは、自分でも稼ぐ事が出来ると、父親に見せつけたかったのだろうか。

 誰を巻き込み、誰を陥れ、誰を消した所で。ルイスは何も感じないだろう。目先の金にしか興味のない男だ。

 オリカと、アルコは――


 草を蹴散らしながら、苛立ちを隠さずに斜面を登っていく男達に、眼を走らせる。

 考えるまでもない事だ。今のガトでは醸造所の連中も、かかわらざるを得なかったアルコ達でさえ守れない。

 第一級犯罪捜査班の、一番の下っ端。雑用係。

 逮捕する権限はあるが、一人ではどうにもならない。

 ジュダスの傘の下が、懐かしく思う。やっている事は相当えげつないが、生きている実感も、実は国のために動いていた事実も桁違いだった。


 もう一度、息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 だからなんだ。

 真面目に働いても、オリカちゃんを支えて生きていく事は、もう出来ない。

 たとえ、ジュダスの仕事の延長だったとしても、彼女はそれを知らない。

 そもそも、彼女はガトを必要としていない。捜査官を辞めて戻ろうが、それすらも彼女には関係ない。


 ――分かってたけどよ。痛ってえよな。

 黒く澱む胸の内を切り替えるように、頭を振った。

 足音は、だいぶ離れていった。森の中へと眼を走らせる。

 だいぶ時間をとってしまった。ノーチェフに、先を越されただろうか。

 ガトに仕込みナイフを寄越せと言うくらいだ、武器という武器は、彼は持っていないだろう。

 心配はしていない。腕は、あっちの方が上だからだ。

 ガトが全力で武器を振るい、それをノーチェフが素手で立ち向かったとしても、太刀打ち出来た試しがない。

 だからこそ、この競争は負けたくない。

「俺様の逃げ足、なめんなよ」

 アネッロに猫と言われるほどの動きで、極力足音を立てずに走り出した。



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