猫の辿る路1
「それでも、俺は……」
「ああ、それも分かってる」
唇を噛みしめたミックに、ガトは表情を変えずうなずく。
「今更だ。あんたとオリカちゃんが逃げようとした所で、無理だろうな。まず、彼女にその気がないなら、持ちかけた時点で彼女に殺される可能性がある。例え、その気があったとしても……もう、その時期は過ぎてる」
「……オリカに逃げる気があるなら、俺は何でもする」
決意に満ちた眼で二人を順に見るが、ノーチェフは困ったように笑み、ガトはふと短く息を吐く。
「死ぬ気でやって、守る対象ほったらかしで死んでみろ。事態は余計に悪化するだろうが」
「そうですよ。何かしたいと思うのであれば、証拠を持って来て下さい」
何を言い出すのかと、ぎょっとしてノーチェフを見れば、彼はガトを見てなどいなかった。
完全にミックに照準を合わせ、彼は温かなそれではなく、ゾッとするような笑みを浮かべていた。
「お前、ミックに持ち出せって言ってるのかよ」
「当然です。どうせなら、彼らに不利になるような代物が好ましいですね」
薬物加工に使用している植物と、加工品。そして、敵に繋がるような書類か何か。
何の気負いもなく、当然のように言葉を連ねるノーチェフに、ガトはあんぐりと口を開けた。
確かに何の当てもなく、ここにいる。
だが、ノーチェフが言ったような代物は、そもそも自分達のような人間が手に入れる仕事だ。
決して、素人に手出しさせる事ではない。
「おいおい、いくらなんでも……」
「出来ませんか?」
ガトに聞いているわけではないと、はっきりと線引きし、ミックだけをひたと見つめる。
「……難しくは、ある」
渋い顔で、ノーチェフののっぺりした笑顔を見たミックに、彼は一つうなずいた。
「出来なければ、近い内に全員死ぬでしょうね」
出来たとしても高確率で死ぬ、という可能性は示唆しない。
表情には出さず、ガトは頭の中でノーチェフを罵倒していた。
間違った事は言っていない。だが――それを、何の知識も技術もない一般人に、押し付けるのか。
大切な者を助けられなかった、こんなにも酷い状況になるまで放ってしまった責任は、お前にあるのだとでも言わんばかりに。
だが、膝に置いていた手を、握りしめていた。
彼を批判する事は出来ない。
自分よりも長くアネッロの下に付き、自分よりも過酷な任務を行ってきたノーチェフの判断力は、ガトには計り知れない何かがある。
逆らう事が、得策とは思えなかったが、それは自分の中で燻ぶるものに障る。
「書類は、どうかは分からんが。その、物だけなら、裏に……」
ミックが立てた親指を背後に向け、そう口にした時、ワインとは違う建屋の――ノーチェフが背にしている建屋から、人が出てくる音がした。
身体を強張らせたミックに、盥を持って戻れと手の動きだけで指示をすれば、水の張ったそれを持ち上げて、井戸から離れる。
ガトは、素早くノーチェフの横へと移動し、聞き耳を立てた。
気安く、どこか嘲りを含めたその声掛けに、ミックは硬い声で応対している。
ガト達の事を話す気はないのだろう。そして、対峙しているだろう相手に、気を許してなどいない声質だ。
それが通常の事なのか、その相手の男はミックに疑いすら持っていないようだった。
「……最近、猫を見かけないが。知らないか?」
少し、間があって。ミックが相手の延々と続く嫌味を、唐突に断ち切って、低い声で疑問を口にした。
だが、返答はいやに軽いものだった。
「知らねえな。腹が減った誰かが食ったか、面白半分に的にしてるか。どっちだろうな」
「……あれがいないと、鼠が来る。ワインの品質も落ちるだろう」
「そんなもん、俺の知ったこっちゃねえよ」
そこまで聞いて、ガトとノーチェフは建物の裏手に回る。
ノーチェフは、すでに穏やかな表情を消していた。
「なんとしてでも、三日で山を下りろ。領主に報告してこい」
馬で駆け戻れば、おそらく数名の命くらいは助かるかもしれない。
だが、敵の手元にはノーチェフの部下がいる。
目的を果たすために、敵に寝返る振りをする事はある。しかしそれは、本来味方であるはずの者すら、目的が達成されるまで、敵と見なして殺す事を厭わない。
そのような苛烈な調練を、繰り返してきた。
西側の連中とて、暴力という言葉では済まされないほどの力があるとはいえ、それはノーチェフの敵ではないだろう。
ガトは、ミックが言った言葉に引っかかりを覚えていた。
「……猫」
その呟きに、ノーチェフの片方の眉毛がわずかに上がる。
先を急かすわけでもなく待つ彼に、ゆっくりと紫色の瞳を向けた。
「その前に、孤児の猫を探してからだ。そこにミックの言う物がある」
「……孤児の、印か」
孤児が判断するための記号。白猫の顔マークがつけられている家壁を持つ人間は、餌をくれる。顔の中を塗り潰してある黒猫は、孤児を痛めつける人間が住む。
ミックは、親指を背後に向けていた。
ならば、この建屋の今立っている場所のどこかに隠されているのだろう。
指の向いていた方向は、密造所だった。だが、かなり先まである建物だ。水汲みに来て、そんなにも奥まで隠しに行けるだろうか。
簡単に、そして短い時間で誰にも見つからずに隠せる場所。
猫は、大抵木炭で描かれているか、壁に直接傷をつける場合もある。
ノーチェフは素早く建物の下部に眼を走らせ、その視線を戻す時に、ミックが精一杯手を伸ばして届く範囲を探った。
それを見たガトは、男に見つからないように、ミックが立っていた井戸のそばを一瞥する。
その側面をゆっくりと眺め――肘でノーチェフへ合図を送った。
砂に埋もれていたが、誰かが書いた鋭角の山の線が見えたからだ。あれは、耳だろう。
ミックと別れた男が、二人が囚われているはずの納屋の方へ、機嫌良く鼻歌でも歌いそうな雰囲気で歩いていくのが見えた。
前面半分が消えた瞬間、ガトは井戸へと、砂を踏む音すら立てずに躍り出る。
――あった。
掘り返せば、汚れた袋がすぐに見つかる。中を見れば、薄紙に包まれた白い粉のような物が五つ、そこに入っていた。
それだけでは、証拠に弱い。誰が犯人だとも言えないだろう。
だが、そのような物がワイン醸造書に存在する。というだけでも、捜査対象にはなる。
二つをガトの手に。もう二つをノーチェフが懐にしまい、残りの一つは袋に入れたまま、猫のマークの所へ埋めた。
同じ成分の物であれば、誰が埋めたにしろ、ここにあったという証拠になり得るからだ。
「二人同時に、道なりに走る。追われたら二手に分かれよう」
重たい何かが、地面に転がった音がした。
うろたえる声、そして砂を蹴る音が続く。あの男は、声を上げなかった。
従業員に、動揺と逃亡機会を与えないためだろうか。
「……生きて辿り着け」
「俺様、心配されちゃってんの?」
ノーチェフの言葉に、ガトは猫のような眼を楽しげに細めた。
少し離れた所の扉が激しく叩きつけられる音がした。男が民家に駆け込んだのだろう。
それを合図に、ガトとノーチェフは全力で駆け出した。