水の流れを追う
陽の光の下、薄い紫色になっている瞳で、探るように男の眼を覗き込めば、彼は瞬時に顔を強張らせ、咄嗟に扉の閉まっている倉庫へ、そして宿舎だろう民家へとその眼を向けた。
誰かが出てくる様子はなく、戻って来ない男を咎めに来る者も、やはりいない。
聞かれたら、まずい事がある。こうして部外者二人に聞かれる事も、良くない事なのだろう。
更に声を小さくしながら、男は盥に水を流し入れた。
「あんたは、オリカを知っているかい?」
「ああ、酒場で元気に箒ぶん回してた頃からな」
そう言って、ガトが笑ってやれば、男は悲しいとも切ないとも言いがたい表情で、弱々しく笑う。
「そうか。だがな、あの子は変わっちまった。心が壊れていくのが、目に見えて分かっていたのに、どうする事も出来なかった」
顔を歪め、あんなに朗らかだったお嬢さんがなと呟いて、井戸に桶を落とし、またロープを引く。
それをぼんやりと眺めながら、ガトは眉を下げた。
「アルコもオリカちゃんも助けたいと思ってる。だから、こんな所まで来たんだ」
その言葉に、男はガトとノーチェフへ順繰りと視線を流す。
肯定するように、ノーチェフがうなずいて見せれば、男は言い淀み、その眼をまた民家へと向けた。
それに気付いていながら、ガトは素知らぬ振りをして、人懐っこい笑みを浮かべる。
「おっさんは――」
「俺のことは、ミックでいい。あんた、名前は?」
「ガト」
本名を告げれば、ノーチェフがミックに気付かれないよう厳しい視線を飛ばしてきたが、ガトは無視をした。
敵の手先ならば、顔は知らなくとも、ガトの名前くらい把握しているだろう。
だがミックは、そうかと言ったきり、縄を引き上げる手を止めなかった。滑車が小気味良い音を立てて回る。
「……あんたがガトか。アルコから聞いた事がある。よく店に来ては、オリカを目で追ってるってな」
「……は?」
「気付かんとでも思ったのか? 親ってのはな、そんなもんだ。大事な娘ともなれば特にな。まあ、粉かけるわけでもないから放ってるって言ってたが。長い事そういった関係を求めるわけでもないし、勘違いかとも言ってたがな」
桶を手にし、盥へと移しながら肩をすくめた。
ガトが半眼で呻くと、ミックは困ったように小さく笑う。
「まあ、いいさ。それで? ミックはここで働いてどれくらいになるんだ?」
無理矢理、話を変えようとしたのがあからさまだったからか、男はだいぶ雰囲気を穏やかにして桶を井戸に放り込んだ。
「オリカが生まれる、ずっと前からさ。アルコとも、よく酒を酌み交わしたもんだが……あいつは、これでいいと思ってるのか」
ロープを引く手を止め、遥か下方でわずかに揺らめく光を、ミックは覗き込む。
その様子は、オリカを心底心配していて、演技をしているようにも見えなかった。
憂いを含むその声色に、ガトは盥へと視線を落とした。
「思ってないから、俺達を寄越したんじゃないか?」
「そうかも、しれんな。だが、知っているか? オリカは婚約したんだ」
ミックの吐き捨てるような言葉に、ガトの胸が悲鳴を上げた。
アルコから聞いてると返せば、さすがに同情の眼差しを向けられ、ガトはそれを軽く手を振る事で凌いだ。
最後に見たオリカは、アネッロへの気持ちを口にしていた。
だが、あのアネッロがオリカを娶るはずがない。それだけは断言出来る。
糸の切れた人形のように、不安定に見えたオリカ。
アルコから聞いた時ですら、まさかと思ったのだ。彼女がアネッロ以外を受け入れるはずがないのに。
「婚、約? 誰と、なのか、聞いてもいいか?」
振られた男の悲壮感を、半分本気で演じながら、ガトは奥歯を噛みしめた。
ミックは、それを痛々しい者を見る眼でガトを捉え、申し訳なさそうに口を開いた。
「ラクルスィの、金貸しの息子だ」
その言葉を受け、ガトの脳裏には瞬時に、金髪碧眼の見目麗しい、クソ真面目な顔をした男が浮かぶ。
だが、それこそないだろうと、その考えは即座に排除した。しかし、万が一に備える。
「金貸しっていうと、ジュダス商会の事か?」
「ああいや、違う。そっちじゃない。なんて言ったか……悪いな。ここ数年、町にも行けてなくてな。西の連中なんだが」
「ああ……」
何故。としか思えなかった。西側には近い位置に、確かにアルコの店はある。
しかしながら、返済は終わっているが、アルコが借金をしていたのはアネッロだ。
オリカの事があるから、新たな借金をし辛かったとでもいうのか。だから、西の連中から借りて、眼をつけられたのか。
ガトは、頭の中で素早く考えを回らせる。オリカに聞いた所で、話してくれなどしないだろう。アルコに至っては、オリカを何とかしてやらなければ、どうにもならない。
人さし指の側面と親指の腹で、下唇をわずかに挟んで刺激する。
ガトは、見つめてくるミックを不思議そうな顔を作って見上げた。
「あれ? オリカちゃんは、ジュダスの息子どころか、ジュダス本人に夢中だろ?」
酒場の連中にも、あれだけはやめとけと言われていたといってやれば、縄を引いていた男は苦笑した。
「なんだ、お前さんも知ってるのか」
「知ってるさ。好きな子が、誰を追いかけてるかくらい、分かるもんだろ?」
それだけ見ていたんだとまでは言わなかったが、ガトから眼を背けたミックは口の中で、まあなと呟く。
壁に背を預け、腕を組んで聞いていたノーチェフが、やっと口を開いた。
「そこまで好きな男がいるのに、どうして敵対する金貸しと婚約という話に?」
「……そこがな。オリカは物事を正確に把握する事が出来ない状態なんだと思う。自分の感情に浸って、周囲の意見がオリカの意にそぐわなければ、それは全てオリカの敵になる。俺の考えだが、結婚ではなく婚約だから、いつでも解消出来る。ジュダスの旦那に嫉妬させてやれ、意識するようになるだろうとでも言われたのかもしれない」
そうでなければ、今のオリカが他人と婚約などしないはずだと、ミックは吐き捨てた。
ガトとて、そうなのだろうと思う。
あの夜、オリカと相対した時に分かった。
彼女は、母親の血を色濃く受け継いでしまったに違いない。
彼女の母親は、考えに固執し、囚われているといっても過言ではないほど精神を病んでいた。そして、いろんな者が囁きかけてくるのだと。
その声を、彼女の母親は『良心』と呼んでいた。彼らの言葉は、すべて正しいのだと。
しかし、それは他の者からすると非常なるものだった。
そのため、彼女に理解を示す事をしない者達は、悪魔の仕業だと、魔女だと糾弾した。
医師ジャックは彼女の状態を診て、これは病気なのだと言った。
現状では治せない、未知の病なのだと。彼は、様々な薬草を取り寄せては、今も研究を続けている。
オリカの現状は、彼女の母親の症状にそっくりだった。
『声』に囚われる時もあるが、ふとした時に普段のオリカが戻ってくる事もあるはずだ。
ガトは、ゆるゆると首を振った。
「……オリカちゃんは、納得した上で、婚約したんだな?」
「そうだと思うぞ。作業場に、オリカの肩に馴れ馴れしく腕をかけた婚約者と一緒に来てな。婚約した、これからは俺が仕切る事になるってな……あいつは、クズだ」
盥に憂さ晴らしするかのように、桶の水をぶちまけ、怒りと恨みに顔を歪めながら井戸の中へと桶を叩きつけた。
話の流れがおかしい。
ガトとノーチェフは、思わずお互いに目配せした。
もちろん婚約などと腹は立つが、オリカの夫になるのであれば、当然仕事を手がけていく事になるだろう。
それは分かるのだが、そこから「あいつは、クズだ」に繋がるまでには、かなり話を端折っていると感じた。
そんな表情を読み取ったのだろうミックは、怒鳴り声を噛み殺しながら、呻くように言葉を吐き捨てる。
「悪い事は言わない。誰かに見つからない内に、帰った方がいい。ここは、もう駄目だ。給金もろくに貰えない、逃げた奴は追われて、戻ってくるのは血に塗れた耳や手だけだ」
さすがに、ガトは眼を瞠った。
いくら働き手をこき使いたいからと言って、そこまでするものだろうか。
「こうなりたくなければ、逃げるなって事だ。働き詰めで死ぬ奴もいるが、町に残している家族にも知らされず、山に捨てられて獣の餌だ」
「おい、アルコはその事を、知ってるのか?」
まだ婚約者の状態であるならば、この土地を支配するのはオリカではなく、アルコだろう。
だが、ミックは眉間にしわを寄せたまま、苦しげに眼を伏せた。
「おれ達が、どういう状況で働いているかは、分かってないだろうな。前は仕入れに来ながら、俺達と酒を呑んだりして現状の打ち合わせなんぞしていたが……今じゃ、酒を店に運ぶ事すら奴の手下がやっているから。こっちに来る事はなくなった」
水を流し入れた盥には、やっと半分ほど溜まっていた。
井戸の縁に桶を置くと、ミックは盥を持ち上げようと手をかける。
反射的に手を出したガトに、彼はそれを断った。
「手伝う仕事など、ここにはない。入ってきたばかりなら、無事に出られるかもしれない。とっとと帰れ」
ミックは、真剣な眼差しで二人を見た。
そこには、本気で巻き込みたくないという意思が伺える。
だが、ノーチェフが少しだけいいか、とミックに声をかけた。
「そこまで働き手に無理をさせて、ワインだけを造り続けているのか? そこがどうしても引っかかる」
その言葉に、はっとして顔を強張らせたミックは、聞くなとでも言いたげにノーチェフを睨みつける。
「ミックさん。我々の会話を、聞いては貰えませんか?」
ノーチェフの提案に、ミックは怪訝な顔で口を噤んだ。
何が何でも立ち去ろうという意思は見えなかったため、ノーチェフは安堵したように、表情を緩めた。
途端に、人好きのする柔らかい笑顔になり、ミックに礼を言えば、彼は口ごもりながら肯定した。
「うなずくか、首を横に振ってくれるだけでいいですから」
「……ああ」
空気をがらりと変えて見せたノーチェフに、ガトは胸中で感嘆する。視線を送ってきたミックを安心させるため、うなずいて見せた。
ノーチェフはミックを見もせずに、ガトに向かって世間話でもするように、ゆったりと話し始める。
「ガト、ミックさんが出てきた建物では、ワインを作っていそうですね」
それにうなずいたのは、ガトではなくミックだった。
だが、やはり彼の態度から、それだけではないと知れる。
「ああ……まさか密造してたりなんて、しねえだろ」
「そ、それは……!」
ガトの言葉に、ミックが声を上ずらせながら説明しようとすると、ノーチェフは片手を上げて、それを遮った。
「首を振りさえすればいい。あなたは偶然聞こえてきた、他人の会話に、誰にも知られず、こっそりと同意したり否定したりしているに過ぎないのですから」
そういってノーチェフが微笑むと、ミックは口を閉じ、二度小さくうなずいた。