抜け出した場所は
ガト=オッキオは一人、崖といってもおかしくないような急斜面を、滑り落ちるように駆けていた。
共に逃げ出した男と二手に分かれ、追っ手を分散させる事には成功している。
鬱蒼とした山の斜面から空へと向かって伸びる木々を、時には支えに、時には盾にしながら、最初の頃に比べると数が減った追っ手から逃げる。
こんな道なき悪路をひた駆けているというのにもかかわらず、しぶとく追ってくる者がまだいた。
身を隠そうにも、それどころではない。
急斜面を、全力疾走しているのだ。すでに止まるどころの話ではない。
そして、逃げたもう一人の方にまで、気にかけてやる余裕もない。
最初こそ矢だのなんだの飛んできていたが、相手も追う事に――いや、ただ走る事だけで必死なのだろう。
そうでないと、自らの速度で木に激突してリタイアする事になる。
自分が駆ける速度以上のものになっている。下手に緩めれば、酷使した筋肉は急激に疲労を訴え、足を止める前に限界を向かえ、避けるべき物すら避けられない。
それほどの、速度である。
まあ、距離はかかるが、意識してわずかに、徐々に緩める意識を持てば、止まれない事はないのだが。
「……っ」
少しの雑念で幹に激突しそうになり、辛うじて避ける事に成功すると、少しして酷く硬い物が木に叩きつけられる音がした。
近くに聞こえていた足音が、一つ消えていた。振り向いて確認している暇などない。
とにかく、山を下りなければならない。戻らなくてはならない。
それは捜査官としてでもあったが、一刻も早くアネッロに情報を渡すためだった。
最終的に、あの男の下へ着いた時、口が聞けさえすれば後はどうなっていてもいい。
そこまで遠く離れた場所にいるわけではない。それは確信していた。
身を隠しながらであっても、三日以内には、辿り着けるはずだ。
遥か前方が、明るくなっているのが見える。
開けた場所に出るのか、それとも――
足を止める事は出来なかった。背後からも草を踏む音がしている。
走りながら、ズボンから革のベルトを引き抜き、片手にその端をきつく巻いた。
目前に広がる光景に、ガトは舌打ちした。嫌な予感ほど、的中する。
今までの急斜面など、実はなだらかで可愛いものだったのだと思えるほど、先は深く抉れた崖だった。
背後からも引きつった悲鳴が聞こえてくる。この速度で足を無理に止めようとすれば、木に激突して死ぬか、そのまま転がって崖の下だ。
それは静かに口を開き、獲物をゆったりと待ち構えている。
距離を稼ぎながら、緩やかに足を止めるという手段は残されていない。
ガトとて、踏み止まれるとは思っていなかった。
最後の樹木に肩を擦らせながら、そのままの勢いで、画とは崖へと飛び出した。
*
ガトとノーチェフが見張りを一撃で仕留めた後、二人は静かに迅速に納屋からの脱出を図る。
ノーチェフが扉越しに外の音を探り、ガトが意識のない男を引きずってくる。
どうだと声をかける前に、ノーチェフは音をさせずにノブを回し、開く。
そこは農場だった。
納屋である、この場所の正面には大きめの民家が二棟建っていて、隣にはその民家が五軒は入るだろう倉庫のような建物が並んでいる。
納屋の隣にも、同じ大きさの建物があった。
何かを作っている事は確かで、その中で音がしているという事は、誰かしら存在している事は間違いない。
すっきりと晴れた空の下、土の匂いが二人の気持ちを落ち着かせた。
扉近くに置かれていた小さな椅子に、気絶した男を座らせて、壁に寄りかからせる。
ガトが身体を伸ばすと、嗅ぎ慣れた香りが鼻腔をくすぐった。
「……ああ、ここはあれだ」
「知っているのか」
「だいぶ規模がでかくなってるが、アルコのワイン醸造所だと思う」
記憶によれば、民家のような建物は知っている限り一軒しかなく、醸造所の建物も一軒だけだった。
人を増やし、作れるワインが増えれば、当然収入も上がるだろう。
規模を見れば、場末の小さな酒場では消費出来ないくらいの分量が出来上がっているだろう。
「これだけのもんを建てたのか。それにしては、アルコの稼ぎは変わってない、生活だって変化なしだ。って事は、オリカの婚約者を名乗ってる奴が怪しい」
「そうか」
太陽の位置は中天をだいぶ過ぎていた。
だが、誰も外に出てくる者はいない。無駄口すら叩いていないのだろう、多数の気配はあるものの、異様な静けさだった。
「ガト、お前は山を下れ」
「は? 馬鹿言うな。ここまで着ておいて、手ぶらで戻ったなんて知れたら……それこそ、捜査官になった甲斐がない」
それに――と、ガトは続けようとしたが、彼の視線を受け、口を閉じた。
「殺せるのか?」
ノーチェフが何を言いたいのか、誰に対しての言葉なのかは考えるまでもなかった。
真っすぐ心臓をつかまれた気がした。彼女はもう、こちら側には戻れない。
だが、画とはそれを打ち消すように眼を細め、鼻で笑ってやる。
「俺様を誰だと思ってる」
「足手まといになるなら……」
「見捨てろ。俺様もそうする」
ガトの言葉にノーチェフがうなずいて返しながら、彼は思い出した事をそのまま口にする。
「そうはならないとは思うが、もし、お前の眼を潰そうとした女が、お前の方へ言ったなら」
「殺して構わないよな」
「ああ、そうしてくれ」
話はまとまった。敵意を隠し、まるで働き手であるかのように二人は堂々と歩き始める。
民家からの見張りもいないのだろう、咎める者が出てくる気配もない。
その時だった。倉庫の一つから、大きな盥を担いだ男が一人、外に出てきた。
疲労の色を濃く表情に反映させた男は、視線を常に地面へと向けており、二人に気付く様子はなかった。
扉を閉め盥を持ち直した時に、やっと誰かが自分を見ていると気付いた。
酷く驚いたのだろう彼は小さく飛び上がり、取り落としそうになった盥を必死に掴み直す。
悲鳴を上げなかったのは僥倖だった。
ノーチェフは柔らかく笑み、ガトは困った表情で頭を掻く。
「ああ、良かった。人がいないかと思った。あのさ、働き手が足りてないって聞いて来たんだが」
それでも男は訝しげに一歩後ずさった。
その顔は、すでに驚愕に満ちたものではなくなり、盥を盾に眉間にしわを寄せている。
ここの働き手だろう。囚われている二人がいるとでも聞いたのかは判断がつかなかったが、突然声を張り上げる事もなさそうだ。
ガトは手伝おうかと、手を差し出せば、男は鼻から重たい息を吐き出した。
「……いや、大丈夫だ」
そう言って、ガト達が歩いてきた方へと向かう。
その先には、井戸がある。ガト達も、何となくついて歩くと、男は困ったように呟いた。
「……仕事が欲しくて、来たのか」
盥を地面に置き、取り付けてあった桶を井戸の中へと投げ込んだ。
男は、疑問として投げ返してきたわけではなかった。その態度には、緊張と疑惑が孕んでいる。
「アルコにな、頼んでみたんだ。どうしても金が入用でさ」
「……アルコ、にか」
「おっさん、アルコの事、知ってるのか?」
重たい音をさせて、滑車が回る。
男が井戸の中から眼を離さずに呟いたのを聞き逃さず、ガトは男と同じ音量で軽めに声を出す。
真っすぐ向けていた、光の加減でピンクにも見える薄紫色の瞳へと、男は視線を合わせた。
アルコの名を出した事が功を奏したのか、男は少し表情を緩めていた。
「アルコとは、ここを一緒に立ち上げた友人だ」
「……は? ホントに?」
さすがにあんぐりと口を開けて見せれば、疲れた様子はそのままに、男はやっと笑った。
「昔の話だよ。今じゃ……今まで一緒に働いてきた仲間を守るだけで必死だけどな」
「守る?」
どう言う事かと眉を顰めてみたが、男は何も言わず、汲み上げた水を盥にあけた。
また井戸へと放り込んだタイミングで、ノーチェフが話を変える。
「ここの支配人に目通りしたいんだが」
「やめておけ、ここじゃ金は稼げない。のぼって来られたのなら、今すぐ引き返せば何とかなるかもしれん」
「おいおい、なんだか物騒じゃねえか」
「……あんたら、ここの状況を知らないで来たのか?」
二人は、この男は全てを知っていて諦めている事を感じ取っていた。
盥に太陽の光が反射して揺らめく水の動きを、何とはなしに見つめていたが、ガトはふと顔を上げ、揺らぐ事のない声で、静かに男に返答した。
「知ってて、ここにいるんだとしたら?」