解放
――ラクルスィ領の、冬の夜は長い。
山の稜線に太陽が捕まると、それはあっという間に向こう側へと消えていった。
北風が容赦なく吹き巻き、陽が落ちると更に気温が下がるせいで、道行く人々は誰しもが上着の襟を立て、肩をすくめて足早に家路を急ぐ。
太陽が落ち切る前に、アネッロは机近くにある燭台に火を入れた。
モネータが入り口近くにあるランプ二つを持ち、煌々と灯る燭台から火を分ける。
定位置にランプをかければ、事務所は暖かな色をした光に包まれた。
見張り含め、大の男四人が事務所に集まり、交代人員を待っていた。
人が集まれば、それなりに室温は上がる。
だが、やはりそれなりでしかなく、急激に冷え込んできた空気に、アネッロ以外の三人は火を入れていない暖炉へと眼がいっていた。
階下の扉が開かれる音がして、階段を踏みしめる靴の音が二人分近づいてくる。
誰もがやっと交代が来たかと扉に眼を向けたが、顔を出したのはアンシャとアルトの二人だった。
「アネッロ=ジュダスさん、お話があります」
硬い表情で言うアンシャから視線を外し、アネッロはあるとの手元を見て、微笑を浮かべる。
それに気付いたのか、アルトが彼女よりも一歩前に出ながら、手にしていた物を胸の位置まで持ち上げた。
それは、見覚えのない長短の鞭だった。
長さについても、わずかではあるが違いが見え、アネッロは眼を細めた。
「こちらの確認が済みましたので、お返しに来ました」
椅子から立ち上がるでもなく、モネータに視線をやれば、彼はすぐさまアルトから鞭を受け取り、アネッロの元へと持ってくる。
それを手にし、巻いてある革の状態と握り具合を確かめた上で、新しく入ってきた二人に眼を向ければ、アンシャが待っていたように口を開いた。
「血液などの有無を調べるため、巻かれていた革を外しました。そのため色合いが似たような物を探し、巻き方や巻き幅などは一応外す前の物と変わりないようにしました。ですが新たに巻き直した物になりますので、使い心地が変わってしまったことをお詫び致します」
「そうですか」
余計な事を、と思わなくはない。
どうせ剥ぎ取ったのであれば、新しい革をそのまま寄越してくれた方がマシだった。
物は使えば消耗する。それは仕方のない事だと諦めもつく。革の質が変わる事も仕方ない。
だが、巻きの強さや角度など、前の物と寸分違わず一致させるというのはアネッロでも時間がかかってしまうというのに。
それを多少指示したくらいで、他人が完璧に仕上げる事など出来るはずもない。
彼女達の横で、見張りとしていた男二人が、アンシャの奇妙にも思える謝罪に、怪訝な表情をしながらも、一切口を挟んではこなかった。
アネッロの下で騎士として鍛えられていた事のあるアンシャは、アネッロの難儀な体質を把握していたが故の謝罪だった。
だが、キーダとギブが知る由もない。
多少巻き方が変わったくらいで、どうして謝罪までする必要があるのか。
腑に落ちないのは当然だろう。
アネッロは、笑顔を貼り付けたまま短鞭を左に、長鞭を右にベルトへと取り付けた。
本来ならば、この状態で使いたくなどなかったが、悠長に巻き直している時間などない。
それと分からないように息を吐き、そして冷えた空気をゆっくり肺に送り込む。
「返してきたという事は、無罪放免になったと考えてよろしいので?」
「ええ、容疑は晴れました。警邏の者が無礼を働きました事をお詫び致します」
アンシャとアルトが右手を胸に当て、わずかに身体を傾けた。
謝罪を表す礼をした彼女達に、キーダとギブも同様の姿勢をとる。
「謝罪よりも、詳細を教えて頂きたいものですがね」
その声に顔を上げたのは、アンシャだった。
いつもの態度で接してこないのは、いつもいない二人がいるからに違いない。
だが彼らへと振り返るでもなく、彼女は姿勢を正し、表情を崩さなかった。
「犯人が分かっていない以上、証拠保持のためにも口外する事は出来ません」
「そうですか、それは残念ですね。では、警邏の者達に、それとなく聞いてみましょうか」
そう言ってやると、モネータ以外の四人は、まったく同時に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「冗談ですよ。なるほど、犯罪捜査班と警邏隊の溝は深そうですね」
軽やかに笑うアネッロに、彼らは黙秘を貫いた。
それこそが肯定していると断言される事くらい、誰しも気付いていたであろうが、彼らは分かっていて黙している。
口にはしていない。ただ、その事実だけを残すためだろう。
机の左側にある窓の外は、すでに暗闇が広がっていた。
一つだけ見える街灯が、ひっそりと静かに揺らめいているのが見える。
窓枠の端に、小さな白い光が二度瞬くのが眼に入った。
確認はしたが、表情を変える事なく、アネッロは立ち上がる。
「それはともかく、私どもを見張る必要がなくなったのであれば、お引取り願えますかな? 私もこれから一仕事残っていましてね」
その言葉に反応したのは、キーダとギブだった。
彼らはカリダの奪還について、アネッロ達が共に行動する事に反対している。
細かい場所など、どれだけ彼らが聞き出そうとしても、アネッロは口を割らなかった。
周囲が店や民家に囲まれている中、拷問に近い事など出来るはずもなく、彼らは今を迎えるしかなかったのだ。
「ザイエティ捜査官に、報告があります」
口火を切ったのは、キーダだった。
「何かしら」
「カリダ=ジュダスさんの件で、アネッロさんが有益な情報を得たようですが、一緒に連れて行かない限り話せないと」
キーダに向けていたアンシャの眼が大きく開かれ、アネッロへと勢い良く顔を向けた。
彼女のきっちりとまとめてある髪が乱れる事はなかったが、その勢いのまま大股で近寄ると、机を挟んでアンシャは身を乗り出す。
「情報があるのならば、提供して下さい! 誘拐において、時間がかかればかかるほど命の保障は出来なくなるのですよ!」
「分かっていますよ。だからこそ言っているのです、連れて行かないと言うのならば、お引取り下さい。私も暇ではない」
「あなたは……」
笑みの形に歪めた眼の奥に、アンシャが何かを見たように、言葉を飲み込んだ。
キーダとギブの手前、話せない内容が多過ぎるのだ。
無言のまま、彼女の焦りが浮かぶ瞳を見つめ、彼女も必死さを乗せて見返してくる。
少しの間その応酬が続き、アネッロの眼の端に、また小さな光が一度瞬いた。
アネッロは舌打ちを押し止め、彼女に向かって両手の平を向ける。
「……分かりました。ですが、近くまでは行かせてくれませんか? 短い期間とはいえ、あれは私の娘ですから」
降参したような体勢に、アンシャは一歩後ずさったが、声を発したのはアルトだった。
「ジュダスさんでも、心配されるのですね」
おもわず口から出てしまった。という事ではないと、彼の目つきから読み取れる。
両手を下ろしながら、彼に向かって苦笑した。
「僭越ながら」
そう怒りを滲ませながら言葉を発したのは、モネータだった。
アネッロを見てくる彼にうなずいてやれば、モネータはすぐにアルトへと向き直る。
「我々は家族になったのです。心配して当然ではないでしょうか」
「短い期間と言われましたが、短過ぎませんかね。情が移るにしても、もっと時間がかかるでしょう。それに、浮浪児でしょう」
「……彼女を、そんな状態にしたのは、誰ですか」
明らかにアルトを正しくない者と認識したのだろう。綺麗な顔が、嫌悪に歪む。
「せめて彼女がきちんとした孤児院で暮らす事が出来ていれば、浮浪児などと苦労しなくて済んだのです! あなた達の怠惰にも、原因の一端はあるのではないですか」
「……二人とも、おやめなさい」
アネッロが腕を組み、止める素振りを見せなかったため、渋々アンシャが声をかけた。
「あの孤児院の実態をつかむ事が出来ず、子供達を酷い状況に追い込んでしまった事については、こちらの落ち度です。そしてモネータさんが仰る通り、家族が誘拐され、居ても立ってもいられない気持ちは当然の事です」
アルトの前まで来ると耳を引っ掴み、無理矢理下に引っ張って、頭を下げさせる。
そして、アンシャも丁寧に頭を下げた。
「コレット捜査官が侮辱しました事、申し訳ございません。危険のない位置まででしたらご同行頂いても構いませんが、配慮頂く可能性もありますので、ご了承下さい」
モネータは尚も言い募りたいようではあったが、アネッロが腕組みを解いたのに気付き押し黙る。
「もちろん捜査の邪魔はしませんよ。モネータも言っていた通り、あれは家族です。ですからカリダやモネータに対して、全面的に責任を負う義務が私にはある。そこは分かって頂きたい」
ギブだけが渋い顔をしたが、上官であるアンシャの手前、やはり口を閉じたままだった。
アルトは侮辱したくてしたわけではないのだろう。
耳を解放され、頭を上げた彼は耳を擦りながら、安堵しているように見えたからだ。
どこかで妥協点を提示しなければ、無為に時間が過ぎるだけだと、彼は分かっているようだった。
「……大した部下をお持ちですね」
「ええ、尻拭いする立場というものを、もう少し考えて頂きたい所ですけれど」
アネッロが机の最下段を開き、黒い厚手の布地を取り出す。
手近な窓枠上部の小さな釘にそれを引っかけ、窓を塞いだ事を確認し、燭台の火を揉み消した。
部屋の奥半分が薄闇に包まれ、アネッロは眼鏡を外し、机の隅に置いて顔を上げた。
「では、案内致します」
「お願いしますわ。ギブ、応援を呼んできて頂戴」
不貞腐れたような態度をとっていたギブは、アネッロの言う名前を聞いて、飛び上がらんばかりに驚き、口が半開きのまま事務所を飛び出していった。
まさかとでも言いたげな三人に取り合うでもなく、モネータは扉付近にかけてあったアネッロのコートを手にする。
あたふたと立ち直った彼らを見ながら、アネッロは暗く笑った。