辱めるもの
扉は、外から鍵をかけられた。
さすがに屋敷の主を閉じ込めたまま、鍵をかけた張本人が、どこかへ行くわけはないだろう。
という事は、おかしな事態になれば、そいつらが飛び込んできて、叩きのめすに違いない。
カリダは、目の前の男に恐怖しながらも、アネッロを思い出しながら、彼のように口の端を持ち上げ、背筋を伸ばして不遜な態度で正面から見据えた。
暴れたり、汚い言葉で罵る事をせず、対等の立場であろうとしている姿に見えたのか、男は近づこうとしていた動きを止めた。
「私が、満足する事を……か。ジュダス商会の人員は、確か男二人だと聞いている。その中で浮浪児で幼女のお前を引き込むという事は、よほど彼らを満たす仕込まれ方をされているのだろうな」
満たすという意味に、この状況を思えば寒気しかもたらさない。
それが分からないほど、カリダは初心ではなかった。
こんな事を言われたと知ったら、モネータならひっくり返ってそうだな、とか。
それとも眼を剝いて怒り狂うのではないか、とか。
まさか、その意味が分からず、そうですね。などと言う可能性もある。
一瞬の内に、それらが脳を駆け巡り、笑いがこみ上げてくるのを必死に堪える。
女性とは守るべき対象で! と、荒げる声まで聞こえてくるようだ。
バカじゃねえの。と心の中で呟いて、通常のカリダが戻ってくるのを感じ取りながら、目の前の男へと意識を戻す。
眼を細め、低く笑って見せる。少しでも、当然だろうと思わせられるように。
ここで男の言葉が分からない振りをしたなら、おそらくこの男が以前拉致してきたガキ共と同じ運命を辿るに違いない。
犯されて、薬漬けにされ、殺されてポイだ。
「ボ……アネッロ=ジュダスが、気になるんですか?」
薄綿に包み、遠回しに本質を探ったつもりのカリダだったが、相変わらず直接的な物言いになっている事に気付かない。
だが、男は否定しなかった。それどころか、なぜか恍惚とでもいうべき色を浮かべる。
「ああ、あの男については、調べさせて貰った。民であるにもかかわらず、どこか品があり、そして何よりも、誰に対しても容赦がない」
だが――と続けながら、男は歩みを再会する。
おもわず足を退こうとしたが、なんとかその衝動を押さえつけた。
恐怖を悟られてはならない。男の趣味は、怯えた相手をいたぶる事ではない。
むしろ逆だろう。だが、いらないとなっても、簡単に放り出すわけにもいかないはずだ。
なぜなら、貴族様だから。
カリダの背後に回り、彼はカリダの手を縛った縄をつかみ、耳元に口を寄せてくる。
「下手な行動は、起こさない方が身のためだ」
「はい、外にも人がいます。わたしは大丈夫ですが……」
吐き気すらもよおすそれを我慢し、うなずいたカリダの言葉に、男は手を動かす事なく、続きを待っているようだった。
くつくつと笑い、頭の斜め後ろに張り付くようにしている男を見る事もせず、外には聞こえないくらいの小さく低い声を出す。
「いいのか? 外の連中に、あんたの声を聞かれても」
耳の横で、男が音を立てて息を吸い込む。
離れろ! 死ね!
などと全身鳥肌で耐え忍べば、カリダの頭から離れ、固く縛られている縄を舌打ちしながら解き出す。
呪いの言葉は、半分しか叶わなかったが、とりあえずは安堵した。
実際、カリダにとっての試練など、これからに過ぎないのだが、アネッロに叩き込まれてきたアレコレを、頭の中で反芻する。
残念ながら、変態なのは判明している。
今の所は暴力的ではないが、意にそぐわないと判断されれば、待つのは死だ。
こんな性癖を知られた上で「お前は違うようだ。いらないから帰りなさい」などとは言われないだろう。
もしカリダが逆の立場だったら、外でそれを喋り倒されたら憤死する。そいつは絶対殺す。
そこまで考えて、カリダは身動きすらせず、何かが思いついて、消えた。
何か、大事な事を思い出したのに。生き延びるための、何かを。
手首が軽くなり、血が通い始めるのを感じた。解けてしまったのだ。
背筋が凍る。恐怖と嫌悪にのどが締め付けられて、声が出せない。
男が入ってきて、問答無用で食い散らかされるのであれば、緊張もクソもなかっただろうに。
だが、これは現実だ。相手を出来るだけ貶める発言をし、踏みつけ、許しを乞わせなければならない。
それが、現状なのだ。
――本当に、気持ちの悪い。
それが楽しげに出来る男を思い浮かべ、男ではないカリダにコレぐらいの力でなどと言いながら踏みつけてきた見知った男しか、頼る記憶はなかった。
立っている足に、その強さを思い出すように力を入れた。これ、くらいだったか?
潰せば、逆上される危険もあるので、注意するように。
なんだそれ、潰してやれよ。と思ったが。そうしたい気しかないが。
そんな事をすれば、外のマッチョ共が嬉々として――ため息しか出ない。
自由になった手首を擦っていると、男がカリダの斜め前に立つ。
カリダから、二歩ほど離れていた。
「さて、私を満足させてみせろ」
「……では、その縄をこちらへ」
そう言って、右手を差し出せば、男はさすがに眉間のしわを深めた。
もう失敗したのかと、ひやりとしたが、もう後には引けない。
手を出したまま、アネッロがするようにあごを上げた。
「なんだ、縛られるのは嫌いなのか? 縄が嫌なら……」
そうだな、と周囲を見渡すが粗末なベッドが一つあるだけだ。
シーツで簀巻きにするか。それとも――わずかに視線を下に向け、気付く。
「わたしの物で、縛られればいい」
前に二ヶ所、後ろで一箇所取り付けてあったサスペンダーを取り、男に向かって笑う。
ギリギリ合格をもらえた、柔らかく笑うという技術を思い出し、固まった表情を動かした。
合格といわれるまでは、気持ち悪いと何度言われた事か。
やっている事と、可愛らしく笑う事が隔たりを生み、ある者には倒錯を、ある者には恐怖を感じさせるのだそうだ。
まあこの際、失敗して気持ち悪い方向に傾いていても問題ないだろう。
精神的におかしくなってるとでも思ってもらえるはずだ、追い詰められているのは、本来カリダの方だから。
だが、天秤は吊り合っている。
それは、目の前の男が落ち着きなく眼を泳がせているのが証拠だ。
相手は変態だ。カリダがどれだけ狂気染みて見えたとしても、この異様な部屋の中ならば違和感などないのだろう。
楽しめ! ボスのように、人を痛めつける事に快楽を見つけるんだ!
アネッロが聞いたら、その握力で頭蓋骨を粉砕されかねない言葉で、カリダは自分を奮い立たせる。
サスペンダーを手に、笑顔のまま、男に一歩踏み出した。
男は情欲を秘めながらも、半歩後ずさったため、カリダは足を止めた。
「そうか、何が問題だ? この状況を作り出したのはあんただろ。したくなければ、終わりにするか」
「待て、そうでは……」
サスペンダーを、自分の肩にかければ、男は小さく否定する言葉を発した。
カリダは、飽きたという表情を作り、あきらかに怒りを含んだとでもいうような息を吐き出した。
「……分かった。私を縛るだけならば、お前は袋叩きに遭うぞ」
「誰が、縛るだけで済ませると言った?」
なんだよ、分かっちゃうのが早いだろ。
縛って放置は、やっぱりダメか。
という思いを悟らせる事なく沈ませ、カリダは冷たく笑う。
こんな状況だ、アネッロならばどうするかを参考にするしかない。
小さな子供に向かって、大の大人がおずおずと両腕を前に出してきた。
三つ又に分かれた一本を、差し出された片方の手首に縛る。
引っ張れば引っ張るほど絞まり、解ける事はない。そういった縛り方だそうだ。
もう片方の手を違う一本で縛っている間も、男は微動だにしなかった。
残りの一本を手にしたカリダは、裕福な家の男が散歩をさせていたでかい犬を思い出す。
「……犬の散歩みたいだな」
おもわず口に出てしまった事に気付き、はっとして口を引き結んだが、男は多少眼を見開いたものの、すぐに顔が歪んだ。嬉しそうに。
生粋だ。これを生粋って言うんだな。
カリダは、心底うんざりしたが、ここでやめるわけにはいかない。
なぜなら、男が焦れてカリダに襲い掛かってきたら、そのままなし崩しだ。
両手を縛っているとはいえ、今の状態では動きに制限などないのだから。
手にした一本を引っ張りながら、靴のままベッドに上がり、その上にあった窓に手を伸ばす。
逃げるわけではない。逃げられるはずもない、そこには鉄格子がはめられているからだ。
だが、こうなったなら都合が良い。良過ぎるほどだ。
男はベッドに両膝をつき、両手を上げた状態で扉の方に立つカリダを見る。
少し離れた所から、満足そうに眺めているカリダに、男は次を期待して顔を上気させていた。
カリダは虚勢を張りながら腕を組み、顔だけはにやにやと笑いながらも、内心では逃げ出したくて仕方がなかった。