浮浪児の意地
恐怖を怒りに転換させながら、いつの間にか眠っていたようだった。
底冷えする空気に、薄手の長袖シャツしか着ていなかったカリダは、身体を震わせて眼を覚ます。
小さな声で、誰かが話しかけている声が聞こえ、鼾が消えた。
寒さもあっただろうが、それよりも男が床を踏んだ小さな音で、目が覚めていた。
どれだけ疲労困憊していても、寝ぼける事はない。
それは、アネッロに寝床を与えられてからも続いていた。
どんな悪条件の場所であっても寝られるが、それはいつも酷く浅いものになっている。
あまりにも静かな場所だと、自分の寝息で目覚める事があるくらい気を張っていた。
近づいてくる二人分の足音に、カリダは全身の産毛が逆立った。
寒さに小さく身体を震わせながらも、出来る限り全身の力を抜く事に集中する。
図太く無防備に寝ていると思わせるためだ。
だが、確かに図太くはある。先程まで寝る事が出来ていたからだ。
アネッロには、常に状況を読めと言われたが、長らく何の変化も起こらなかったため、睡魔に勝てなかった。
どうせ、何か物音がしたら、眼が覚めるのだから。
そんなカリダの頭を踏み、揺さぶってくる。
「おい、起きろ」
そこで初めて身動ぎをして見せると、更に靴先で軽く小突かれた。
思わず小さく呻いたものの、怯えて悲鳴を上げるべきか、思いつく限りの悪態を吐けばいいのか。
寒さに歯を鳴らし、身体を震わせながら逡巡していると、背後で男が低く笑った。
「いいか、助けは来ない。お前が行く所は上得意の屋敷だ、値を吊り上げてやるから、そうやって大人しく震えていろ」
そう言って、もう一人の男にカリダを担ぐよう指示する。
「ああそうだ。暴れるようなら、また尻に針を刺す事になるぞ」
あの激痛に、思わず身体を強張らせると、担いだ男が笑った。
「刺してやったらどうだ? 売った先で、やりやすいだろう」
「だからお前は馬鹿だと言うんだ。怯えるなり泣き叫ぶなり、こいつが反応すればするほど、あの貴族様は喜んで金を弾むんだよ」
呆れた声に、侮蔑が混ざる。
カリダは冷え切った身体を、肩に担いだ男にさりげなく押し当てて熱を奪いながら、二人が仲間にしては何か食い違っているような違和感を覚えた。
カリダを誘拐した時は、連携が取れていた。本物の捜査官だというあの二人が、追い切れなかったのだ。
それが、この男達の間にある空気の重さが、明らかに違う。
担いでいる男は、どこかどうでもいいといった雰囲気を感じ、もう一人は長く人身売買にかかわっているように思う。
「あの……わたし、どうなるんですか?」
震える口のまま声を出せば、上手く怯えを表現出来る事は知っている。
普段の自分を出せばいいのかどうかは分からないが、男の言動から怖がっていた方が良さそうだと感じたのだ。
自分はか弱くて、他者には逆らえないと思い込んでるバカ女が、好みに違いない。
思い通りになる女しか相手に出来ない残念な男は、案の定小さく嗤った。
「お前次第だろ? イイ思いしたければ、売られた相手に精一杯媚びるんだな」
「こび……る?」
「お前がこれから行く所は、どれだけ仕入れても奴隷がなかなか定着しない貴族様だ。まあまた失敗しても、新しいガキを調達するだけだがな」
行くぞ。と、扉が開く音がして冷気がなだれ込んでくる。
慣れ親しんだ外の空気に、なんだか安心した。
これから行く場所が、どんな所かなんて、痛いほど分かっている。
外が、安全だった事など一度としてない。夜の闇に紛れる事だけは、多少の安らぎがあるくらいだった。
それでも、外の空気はカリダにとって日常だった。
「引き渡すまで、声を出すなよ。取引先が許可したら、求める事をしろ。それだけだ」
女を気遣えない自己中クズ男から、金持ちで変態の更なるクズへ。
どこを見てもクズしかいない状況に、カリダは笑うのを必死で堪え、神妙な顔を作ってうなずいた。
酒の匂いのする何かに押し込まれ、しばらくして地面が揺れるのを感じる。
荷馬車か何かで運ばれるのだろう。
後ろ手に縛られている手首はそのままに、前傾姿勢で狭い場所。
少し頭を伸ばせば、壁に当たる。少し後ろに体重をかければ、すぐに手が触れた。
匂いから、樽の中だろうと納得する。
壁に顔を寄せれば、目隠しくらい取れそうなものだが、やめた。
どうせ見ても楽しくない場所へと連れて行かれるのだ。
少しの手間くらい、向こうにかけさせてやればいい。
酒臭いこの中で、カリダは眼を閉じた。体勢は悪いが、もう少し寝るかと樽に寄りかかる。
それにしても。と、カリダは眼を閉じながら思う。
ボスは、どうしてこういった状況になった場合の対処法を教えたのだろう。
何も出来ないカリダが消えた所で、なんの痛手も受けないだろうに。
だが、アネッロの話を思い出しながら、暗く乾いた笑い声が、他人が発したように樽の中で鈍く響いた。
最初に言った言葉は、忘れもしない。
「捕まって、すぐに殺される状況になければ、お前は犯されるだろう」
十四の子供に言うセリフかと、どれほど言ってやろうかと思った。
だが、その納得したくもないが納得せざるを得ない内容に、カリダはうなずく。
――カリダは、処女ではない。
その一点は重要だろうと、ボスにはその時に伝えた。
男だろうが、女だろうが。外で暮らす貧弱なガキは、暴力の対象になったり性欲処理に使われやすい。
たとえ腹立ち紛れに殴られ、死のうとも、守ってくれる人間などいないし、自業自得だとさえ思っている。
分かっていて、そこにいるしかないのだ。
孤児院にいたとしても、結果は何も変わらない。
あそこで餓死や暴力を受けて死ぬ弱者は、病死として葬られるだけだ。
自由に走り回れるだけ、外の世界が好きだった。
例え、どんな目に遭わされたとしても、孤児院にだけは残りたくなかった。
その話を簡単にした時、アネッロは珍しく少しだけ硬い表情をして、うなずいただけだった。
かわいそうな者を見る眼などせず、ただカリダが話し、聞いただけ。
酷い目に遭ったな、などと分かりもしないのに同情する言葉をかけたり、子供を宥めるような抱擁などしなかった。
それどころか、あの男。
ならば遠慮なく、と更にえげつない話を延々とされ、うんざりした。
……勉強には、なったと思う。
世の中には、それこそ様々な性癖を持つ者がいて、相応の対処があるのだと言う。
それについて、吐き気をもよおすものも中にはあった。
殴られて犯された『あの』現実が、生易しかったのではと思うくらいの内容。
自分は人間ですらないのかと屈辱にまみれた、あれよりも更に酷い状況が、そんなにもたくさんあるのかと、血の気が下がる音を自覚しながらも真剣に聞いた。
状況次第では、それを駆使する事もあるだろうと思ったからだ。
今でこそ、ボスは自分を面白がって置いてくれているが、飽きれば放り出されるだろうから。
特に感情を乗せるでもなく語られた、その傾向と対策とやらを頭に思い浮かべながら、カリダは思い出した事すら後悔した。
ただでさえ酔いそうな空の酒樽の中で、思い出すべき内容ではなかった。
吐き散らかして、それにまみれた姿を奴らが見たら、その辺に放り出してくれないかな。
とも思ったが、無駄だろう。
客の目の前で使い物にならなくなったクソガキなど、なぶり殺されるだけだ。
そして、従順にしていたとしても、人としての尊厳を持つなど許されないとばかりに踏みにじられるだろう。
アネッロから聞いた『あれら』を、こんなにも早く実践する事になるだなんて。
カリダは、後ろ手に縛られていなければ頭を抱えたい所だったが、深く息を吐き出すしかなかった。
むせ返りそうな酒樽の中で、カリダは揺れが止まったのを感じ取る。
カリダは、自らの意識とは裏腹に震えだした身体に舌打ちした。
――こんな所で、死ぬわけにはいかない。
なんのために、気持ちの悪い話に耳を塞ぐ事を我慢しながら聞き続けたと思っているんだ!
カリダはここ数日アネッロに飼われていたが、身体が鈍っているとは思わなかった。
どうせ綺麗な身体ではないし、痛い事は嫌だが、貧弱な身体で面と向かえば、力では敵わない。
泣き叫んで懇願しろと言われればそうするし、くっさい足を舐めて綺麗にしろと言われれば、そうする。
男が嬌声を上げるアレは、吐き気しかもよおさないが、話によれば――主導権を握れる可能性は微々たるものだが、ある。
どうころんでも現実逃避したくなるが、現実から逃げるほど、酷い目に遭い続けるだけだ。
悲鳴を上げ、号泣して見せながらも、一瞬の隙を見つけるために精神を研ぎ澄まそう。
遅かれ早かれ、どうせ殺されるのだ。
カリダは、奴隷がなかなか定着しないという言葉を思い出し、口を引き結んだ。