カリダの心境
――声が、聞こえた。
一瞬の内に、容赦ない力で腕を取られ路地裏に引きずり込まれる。
三人の男に、囲まれたのは分かった。
一人に背後から抱え込まれ、がむしゃらに暴れようが、その腕は緩まなかった。
それでも足をばたつかせ、大きな声を上げれば、右尻に針を突き立てられた痛みに飛び上がるように両足を持ち上げる。
小さな自分が全体重を乗せようとも、大の男には何の苦にもなっていない事に、腹が煮えたぎる。
「カリダ!」
背後の男に食ってかかろうとした矢先、切羽詰ったような女の声が、自分の名前を再度呼ぶ。
懇願するような憂いなどなく、叱責にも似たその声は、それでも自分を守ろうという意思が感じられた。
思わず、カリダは苦笑した。
自分のようなものを押し付けられたとはいえ、どうしてそこまで必死になるのか。
捜査官だと言っていたが、職務以外で請け負った事にも忠実になれるものなのか。
あの男とて、自分がいなくなった所で気にも留めないだろうに。
もし小さくて動けるものが必要になれば、候補などそこらにいくらでも転がっているじゃないか。
男の肩へと乱暴に担ぎ上げられ、薄い腹を圧迫する。
食べた物をこの背中に吐き出してやれば、少しは気が済むだろうか。
走り出し、断続的に食い込んでくる男の肩に顔を歪ませながら、頭の毛を毟ってやろうと手を動かそうとしたが、それは叶わなかった。
手に力が入らないのだ。男の服を、その硬い背中を滑るように、自分の意思に反して手が落ちる。
あれと思った時には、すでに頭の中が薄布で覆われているようで、目の前の物全てが遠退いていく。
それでも聞こえてくる厳しさを滲ませる声に、朦朧とする意識の中、わずかに残る力を振り絞って顔を上げた。
二人の男が一人ずつ狭い路地を塞ぐように、彼らに立ちはだかっているのが見える。
横道から、数人の男達が湧いて出てきたが、とても味方には思えなかった。
頭を上げている事すら億劫になり、力を抜いてされるがままに、揺さぶられる。
すでに遥か遠くから聞こえてくるような、彼らの声。
カリダは、なんだかおかしくなって笑った。
――あいつら、絶対バカだろ。
気がつけば目隠しをされ、両手を前で縛られ、足も当然縛られ。硬い床に転がされていた。
カリダを呼ぶ声や、言い争う声、それに何かを打ち合う鈍い音は聞こえなくなっていた。
誘拐は成功したんだな。と、ぼんやりとした頭で思う。
徐々にはっきりしてきた頭の中で、カリダは転がされたまま身動きせず、アネッロの言葉を思い出していた。
近い内に、小さく貧弱なお前は、誘拐されるか殺される可能性がある。
確か、そんな事を言っていたはずだ。
殺されは、しなかった。まだ生きている。
カリダは、考えついた事柄に、はっとした。
まさかとは思うが、どうやってこの場を切り抜けるか、という仕組まれたものなのだろうか。
捜査官達すら利用して騙し、これは現実に起こっているのだと思い込ませる。
本物を巻き込めば、信憑性も増すだろう。学なしのチビなど、容易く騙せるとでも思っているのか。
そう思うと、また腹が立ってきた。
苛立ちに、縛られた両手を振り回して、床に叩きつけたい感情が湧いたが、辛うじて押さえつける事に成功する。
息を整えて、耳だけで周囲の反応を窺う。
よくこんな場所で寝ていられたと思うほど、大きな鼾が響いていた。
外まで聞こえているのではないのか、と思うが誰も注意をしにはきていない。
カリダは、そっと息を吐いた。
その音に紛れているだけで、他にも見張りがいる可能性はある。
あのアネッロ=ジュダスの事だ。
これが紛い物の誘拐であったとしても、カリダがヘマしようものなら、殺されるか犯されるかだ。
その両方だとも言える。
あの野郎! から始まり、心の中で盛大に少女にあるまじき罵詈雑言を喚き立てた。
悪趣味にもほどがある。戻ったら、気が済むまで殴らせて貰おう。
あのアネッロだろうが何だろうが、拒否権はないはずだ。なんせ、このカリダを怒らせたのだから。
怒りに鼻息を荒くなりかけたが、なんとか優しく吐き出した。危ない、これも罠なのだろう。
ああ、あの金髪男も一口噛んでいるのだろうか?
最初から知っていたら、簡単に顔に出そうな男だ。カリダが消えてから、報告でもされるに違いない。
その場では分からなかっただろうが、この際まとめて同罪にしてやろう。
沸々と、暗い色の泡が一つずつ弾け、澱んだそれがカリダの心を染めていく。
硬い床で寝る事くらいは、外での生活が長かったカリダにとって、何の問題もなかった。
むしろ、快適なくらいだ。
ボスにそれを強要――しても、気にならないかもしれないが、モネータは体中を痛めて一日で音を上げるに違いない。
小さくもくだらない復讐を考えては、胸の内にコツコツ貯める。だが、気持ちが晴れる事はない。
カリダが少しでもミスをすれば、人生はそこで終わりだ。
アネッロ=ジュダスが欲しているのは、有能な部下だろう。
いずれ起こりうる本物の誘拐で、いかに生き残れるかを見ているに違いない。
試練を与えて、ギリギリ死なない程度で終了するなど、あの男はしないだろう。
失敗は、死と直結だ。
なにせ、相手はあのアネッロ=ジュダスなのだ。
カリダの背筋に、冷たいものが走った。
死にたくなどなかった。運が良いのか悪いのか、とにかくここまで生きてこられたのだ。
とにかく――そう、とにかく自分の命以外の何を犠牲にしても、生き残って見せる。
だが、どうなるのか分からない恐怖が、棲みついてしまった。
それを振り払おうとすればするほど、その感情が幅を利かせてくる。
アネッロの仕掛けた罠だとしても。
万が一にも、これが本物の誘拐だったとしたら。
分かっていた事だったが、必死に隅に追いやっていたのに。揺るがない現実から、眼を背けようをしていたのに。
馬鹿な事を、ずっと考えていれば良かった。
心の中で必死に、復讐リストを思い出しては繰り返す作業をしていると、ふとアネッロの言葉が浮かんできた。
つい最近、知識として捻じ込まれた言葉だった。
吐き気をもよおすような出来事に遭った場合、お前は瞬時に判断しなければならない。
どこまで抵抗して暴れても大丈夫なのか。
大声を上げても、殴られるだけで許されるのか。
怯えて泣き喚くしか脳のない者に成りすました方が、有効なのか。
それとも、全ての物事を諦めた振りをして、従順になった方がいいのか。
もしくは――
あからさまにならない程度に、それぞれを試す事は可能だが、演技を見破られないために、その組み合わせには気をつけるのだ。
態度や表情はどうあれ、頭の中は常に冷静でいろ。
すれ違いざまに刺されるのであれば、そんな事を考えるべくもないが。
そう言って、アネッロは楽しげに笑みを浮かべていた。
「……悪魔め」
思わず、口からこぼれ出てしまった事に、カリダは慌てる。
鼾に消されていればいいけど。と思うと同時に誰かが両足を床につけた音がして、密かに息を呑んだ。
起きていた誰かが、やはりいたのだ。
床を軋ませて、背を向けて寝ているカリダへと近づいて来る誰かに、怯えながらも必死に身体を弛緩させて寝た振りをする。
規則正しい寝息ですよ! おかしな事などありませんよ! 問題ないから、どっか行け!
などと念じながら、カリダは静かに緩やかな息を繰り返した。
踏みしめる重さや音の感覚から、男ではないかと思った。
それが背後で止まり、高い位置から覗き込まれている気配がしていたが、カリダは微動だにしなかった。
しばらく動かなかったその男らしき者は、納得したのか近づいてきた時と同じくらいの速度で離れていく。
少し離れた所で、椅子にでも座ったのだろう。硬い音が、わずかに床を鳴らした。
カリダは、眼を開けた。
目隠しされているため、その行動に意味などなかったのだが、カリダはそれでも眼を開けていた。
そして、ひょっとしたらまだカリダを見ているかもしれない男らしき者に対して、精一杯目玉を横に動かした。
頭を動かせるわけではないが、背後へと意識を向けるためだ。
助かったら、絶対に探し出して殺してやる! 目隠ししてようが、足音で判別してやる!
こんなチビにされて、屈辱に苛まれるような何かを、絶対にしでかしてやる!
自分に思いつかなくても、こっちにはそっち方面に長けた人材がいるんだからな!
モネータは戦力にならないだろう。だが、アネッロ=ジュダスという悪魔が自分にはついているのだ。
これがボスの策略であれ、実行したのはこの場にいるこいつらだ。
自分が受けた仕打ちに対する復讐に、誰だろうが逆らわせない。
ボスとて、嬉々として協力するに違いない。なんせ、あいつは悪魔だからな。
覚えていろ、尻に針を刺す以上の後悔を、必ずさせてやるからな!
先程の恨み辛みの矛先を、この場にいる見張り連中へと向けて、鬱々と黒い泡を弾けさせた。