捜査官と金貸し
慌しく居住区域に踏み込んだアネッロは、中庭まで出ず、部屋の上部に取り付けてある横に細長い窓を叩いた。
中庭の地面近くにあるそれが叩かれたためか、近くに立っていたギブの足が少し動いたのが見える。
素早く棒を置き、動き出した二人から視線を外し、キーダに厳しい視線を向けた。
「我々だけで動く事は可能ですかな?」
「……そうはいきません、こちらの落ち度であるから、というわけではありませんが、民を巻き込むわけにはいきませんので」
すぐに現れた二人は、アネッロ達の雰囲気に、怪訝な表情を浮かべる。
ただごとではない事だけは、伝わっているだろう。
「モネータ、言ってはいなかったが。カリダが誘拐された」
彼は息を呑み、身体を強張らせる。
ギブが一度だけモネータへと眼を向けたが、特に何も口にしなかった。
金髪の男は数秒眼を伏せ、それを上げた時には疑いのない強い光が灯っていた。
「今、私にそれを告げたという事は、進展があったという事ですか」
「そうだ」
「わかりました」
そう言って黙り込んだモネータに、ギブは彼と違う方へと顔を向け、侮蔑するように鼻で笑う。
キーダはその仕草に眉をひそめたが、一番近くにいたモネータが、ギブの方へと顔を向ける事はなかった。
アネッロが笑いもせず、モネータを見た。
自分は何をしたらいいのか、ただそれだけを問う眼差しを向けてくる。
だが、最初に口を開いたのはキーダだった。
「今から班員に連絡をつけ、カリダさんを救出します」
「あなたがたは、交代が来るまで動かないで頂きますよ」
「そうもいきません、救出は早い方がいい。彼女がどうなってもいいというのですか」
「アレには、こういった事態が起きた場合、どうしたらいいかを叩き込んでありますよ」
付け焼刃ではありますがね。と眼を細めて小さく笑みを作ったが、すぐにそれを消す。
「数日前から、ここは見張られています。今回の犯人と同じかどうかは分かりませんが、うかつに動く事は控えて頂きます」
「……控えろとか、誰に物を言ってんだよ」
そっぽを向いたまま、のどで笑うギブに、キーダが注意を与える。
モネータも、少し疑問を持ったのだろう。
「アネッロ様、捜査の専門家である彼らに任せた方が、よろしいのでは?」
「モネータ」
底から響くような低く鋭い声に、キーダ以外の二人が息を潜めた。
この場にある、アネッロ以外の全ての眼が、アネッロへと集まってくる。
「覚えておきなさい。私は、勝手に私の持ち物に手を出す者を許さない」
「……はい」
ギブが何か口にしたそうではあったが、それが実現する事はなかった。
「現状を話しておきましょう。カリダは、東の城壁近くにある蔦で覆われた小さな廃屋にいます」
「そこまで分かっているのであれば、今すぐ動けば確実に一網打尽に出来るだろう」
ギブが呆れたような声を出し、呆れたような眼を向けてくる。
アネッロはギブに向けて、右手の人さし指だけを立てて見せれば、彼は思わずだろう、すぐに口を噤んだ。
「今、踏み込めば、一味の内の少数は捕縛出来るでしょう。では、その先は? 買った側を派手に吊るし上げねば、ラクルスィは裏での奴隷売買が許されると評判になるでしょう」
「……まだ十にも満たないような少女だと聞きましたが。そんな子供を、囮にするというのですか」
キーダが呻くように吐き出したその声には、さすがに苦渋が滲む。
苦悩に顔をわずかに歪ませるキーダ、不安げにまっすぐ見つめてくるモネータ。
ギブは、金貸しのする事だからあり得るだろうと考えている事が、はっきりと見て取れる。
彼らをぐるりと見渡してから、アネッロは口の端を持ち上げた。
「ああ見えて、アレは十四歳だそうですよ。金のある家柄であれば、社交界デビュー出来る年齢です。それに少女とはいえ、ただでは転ばず――」
言葉を切り、アネッロは小さく笑った。
「――ただでは、済まさない」
何に対してかは、誰も問わなかった。
無表情に戻ったキーダが、瞳を動かす。
「見張りを送る事は?」
「あの辺りは、貴族連中の別荘が立ち並ぶ一帯ですからね。下手に囲む事はやめた方がいい。昼間はまだ人通りがある分、動きは制限されるでしょう」
「箱に詰めて運べば、分からないだろう。素人の考えが及ぶような事態じゃねえんだよ」
「……私の噂は、ご存知ですかな?」
嘲るように発言したギブへ視線を向ければ、彼は押し黙った。
アネッロは遠慮なく続ける。
「どうも私の目は、どこにでもあるそうですよ。完全に行き届いているわけではありませんがね。ただそれも、あなた方が監視を強化しているおかげで、使える手が増えていましてね」
その言葉に、キーダが完全にアネッロへと向き直った。
「……外回りについて行きましたが、いつそんな指示を出したのです?」
「方法など、いくらでもあるものですよ」
それ以上は口にせず、アネッロは意味もなくうなずいてやる。
「交代の時、私とキーダでこの場を抜け出します。そして――」
「ですから、容疑者とはいえあなたも民です。危険を冒させるわけにはいきません」
「ええ、分かっておりますとも。こんな事になったのも、あなた方の落ち度であり、犯人を見張っているのは私の手の者です。連絡をつける事も、私でしか出来ないという事をお忘れなく」
少し言葉を詰まらせ、それでもキーダは譲らなかった。
「アネッロ=ジュダス、あなたをここで拘束する事も出来るのですよ」
「……今、カリダを助け出した所で、買う側はどうするというのです? それとも、私の許可なく勝手にアレを囮に使いますか? そうしたら、私は声を大にして触れ回ざるを得ません。第一級犯罪捜査班の名が地に落ちるでしょうね」
「そんな簡単には落ちねえよ」
ギブの苦々しい表情と、絞り出すような口調に、アネッロは見下すように眼を細める。
「それは、どうでしょうか。人の意識など、簡単に惑うものですからね。正義を果たすべきはずの存在が民の間で黒く染まった時、若き領主の失墜に繋がらなければいいですね」
アネッロは反論や異論を待ったが、誰からも言葉を発せられなかった。
小さく肩をすくめ、アネッロは笑顔を張りつける。
「そうですか、分かりました。私のいない所で、カリダを囮に使おうというのであれば、私は反対しましょう。その後の事は、神のみぞ知るという所でしょうかな」
そう言って、テーブルの端を三本の指先で一度叩き、彼らに背を向ける。
金貸しが。と、小さいが吐き捨てる声が背後から飛ぶ。
「……どちらへ?」
キーダが冷静に呼び止めるよう声をかけてくると、アネッロは自らの肩越しに彼を一瞥し、口の端を持ち上げた。
「事務所ですよ。これでも仕事に手を抜く事はしていないのでね」
「では、モネータさんも二階へ。ギブ、お前は二人の監視を……」
キーダが素早く指示を出そうとした時、モネータが一歩後ずさった。
「サルダン殿、申し訳ありません。私はこの時間、事務所へは入らない事になっております」
「……は?」
キーダが思わずといったように声を出すと、ギブも眼を丸くしてモネータを見た。
この場に残れと叩いたテーブルの指先の意味を、モネータはきちんと読み取っていた。
覚える事と、それを守り行動に移す事において、彼はアネッロの示した全てのものを忠実にこなすだろう。
それは、アネッロの中で揺るぎのない確信であった。
部外者二人を嗤うように眼を細めながら、アネッロは白々しいほど残念だと言わんばかりの声色を出す。
「そういう事ですよ。見張りというのも、お辛い仕事ですな。たったお二人では、身動きが取りにくい」
今度こそ彼らから眼を外し、大扉へ続く通路へとアネッロは足を進めた。
どちらからも眼を離すなど、出来はしない。
それを分かった上での操作だった。
外に出たいと公言したアネッロには、確実に眼は向けられるだろう。
こっそりモネータを置いて出ていった場合、彼は二階に上がってくるはずだ。理由など、どうとでもなる。
彼らがアネッロ達を見張っていたはずが、今では逆になっていた。
優秀な彼らの事だ。それに気付いていないはずがないからこそ、思いあぐねているのだろう。
夕暮れまで、まだ時間はある。ゆっくりと考えればいいだろう。
交代が来ようが、アネッロが動く事は確定しているのだ。




