諍いの発生源
男が帰っていく後姿を見つめ、階下で扉の閉まる音を確認してから、キーダは口を開いた。
「……名前だけで、借りられるのですか?」
「高額の借金ともなれば、話は変わってきますがね。身上を知られたくない方で、質草が万が一にも流れて構わないと思われる方もいらっしゃいますのでね。ああ、何かお持ちでしたら借りますかな? ご迷惑をかけているよしみで、わずかにはなりますが利子を都合して差し上げますよ?」
「必要ありません」
「そうでしょうな」
固い顔のまま、姿勢も崩さず言ってのける彼に、アネッロは軽やかに笑う。
控えの書類を木箱にしまい、質草に棚札をつけて立ち上がった。
執務机の引き出しの鍵を開け、木箱をしまい、鍵をかける。
質草は手にしたまま、キーダの前に立つ。小さく眉間にしわを寄せた彼は、すぐに気付いて横へ避けた。
男への金を取ってくる際、一度開けた扉だ。
その際、何があるかを目の端で見ているだろう彼だったが、よほど面白いのだろう。
アネッロの背後から、さりげなく覗く気配がした。
質草と、金庫が置いてあるだけの窓のない部屋だ。
暗いその一室は、持ち込まれた物達が家主をひっそりと待っているようにも感じる。
扉を開けた所から入り込んだ光で、物が目を覚ますかのような感覚さえする。
だが、武具や大振りのナイフ、一部欠損した防具。大小様々な壺や瓶。積み重ねられた大量の箱などは、所詮物でしかなく、動くわけでもない。
一瞬だが覚えた感慨を、キーダは振り払った。
異様な空間にも思えるが、ただの倉庫だ。
「扉は開けておきますが、一歩たりとも踏み込んでこないで下さいね。わずかに触れでもして、ダメにする物品もありますので」
さきほどは客の手前、声をかけるわけにもいかず、ついてこようとしたキーダの胸に片手を当て、態度だけで待機を命じた。
普段ならば、中すら見せないようにするのだが、彼は見張りだ。
仕方なく扉を開け放したままにするしかない。
男も心得たもので、アネッロから眼は離さないが、部屋に入ってくる事はなかった。
そこから出て鍵をかけると、アネッロは金袋をベルトの左側に通して留め、キーダを通り越して、階段に繋がる扉へと歩いていく。
「どこへ?」
「見回りですが、ついてきますか?」
「はい。モネータ=ジュダスは、連れて行かないのですか?」
当然のように後をついてきた男に、アネッロは扉横にかけていた上着を羽織り、呆れた顔をしてやる。
「大の男が四人で、町をうろつくつもりですか? 幼い子供達の遊びならば微笑ましいのですがね。人数が多ければ多いほど、顧客を威圧する事になる。それは、その店に訪れる客への違和感にも繋がり、返済に影響が出ないとも限りません」
「……なるほど」
「それと、外ではキーダと呼ばせて頂きますよ。私の事は、お好きにどうぞ」
素直にうなずいてきたキーダを引き連れ、二人は外に出る。
先程の騒ぎを知っているのか、周囲の視線に不躾なものが増えた。
この所感じていた視線も、どこかに紛れているのだろうが、アネッロは気にせずいつものように歩き出す。
いつも隠すように持ち歩いている武器はないが、少し身軽になったと思えば支障はない。
鞭を持った者が怪しいと騒ぎ立てられ、そのまま連行されたため、その後の状況が知りたいのか住民達がアネッロへと視線を送ってくる。
だがそれすらも無視をして、通りかかりながら店をのぞき、商品などの質や入っている客の雰囲気を見て回る。
角を曲がると、住民達が買い物に出る時間帯なのだろう、大通りよりも活気が広がっていた。
青果店の親父が、すぐさまアネッロに気がつくと、芋を手にしたまま呼び止めてきた。
「おいおい! アネッロさん、ついに犯罪者だって?」
歯に衣着せぬ言い方だが、その親父が楽しげに歯を見せて笑っているため、嫌な顔をするわけでもなく、アネッロも笑みを浮かべてうなずいてやる。
「困ったものです。鞭を持っている者は、すぐに処分するべきではないですかね」
「いやいや。今そんな事したら、俺が犯人だぞって言ってるようなもんじゃねえか」
「持っていても、犯人なのですよ?」
「困ったもんだなあ。あの坊ちゃんおっさんは、なんとかならんもんかね」
坊ちゃんおっさんとは、どう贔屓目に見てもグイズ警邏長だろう。
困ったように呻く青果店の親父に、アネッロは苦笑した。
「聞かれたら、打ち据えられるかもしれませんよ」
「坊ちゃんおっさんをか? 大丈夫だろ、俺は誰と限定して言ってるわけじゃない!」
そこまで言って、アネッロの斜め後ろに立つ男へと眼をやった。
「……アネッロさん、モネータはどうした。クビかい」
「あれはあれで使い道がありますから、今の所そのつもりはありませんよ。こっちは他所から来た見習いです」
「見習い……へえ、金貸しも勉強なのかね」
そう言って、無表情の強面男を面白そうに眺めると、親父はにやりと笑った。
「兄ちゃんよ、暴力だけはやめといてくれよ?」
「……ジュダスさんは、暴力を振るわれるのですか?」
買い言葉だったのだろうが、それをアネッロの目の前で問われ、親父は一瞬動きを止め、アネッロとキーダへと視線を行き来させる。
そうしていると、青果店の奥さんが笑い声を上げた。
「ジュダスさんは厳しいけどね、暴力で支配しないよ! まあほら、商売に関しちゃ……そりゃもう、厳しいけどねえ」
同じ事を二度言ったが、奥さんはニュアンスを変えていた。
怯えている様子ではなく、懐かしむようなそれに、キーダは少し視線を動かした。
夫婦揃って、深くうなずいている様は、不思議な生き物を見ているようでもあるのだろう。
金貸しを弁護している雰囲気でもない。
アネッロは何食わぬ顔で、野菜を数点頼み、紙袋を受け取る。
金を払い、キーダを促す。
「キーダ、次に行きますよ」
「お! 今日は駄目出しはなしかい!」
茶化すように親父が言ってくるが、アネッロがわざとゆっくり店内を見渡してやると、親父の耳をつかんで悲鳴を上げさせたまま、彼の妻がにこりと笑った。
「毎度、ありがとうございました」
余計な事を言わず、とっとと帰れ。
そう聞こえるような物言いに、キーダは小さく眼を瞠ると、アネッロは笑った。
「どうも」
小さく手を挙げ、そのまま歩き出したアネッロに、キーダもそれに追随してくる。
二人の背後で、明らかに安堵の吐息が聞こえ、続いて手で何かを叩く音がした。
「あんたは……馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど! ほんっとうにしょうのない馬鹿だね! 自分から粗探してくれっていう馬鹿が、どこにいるってんだい!」
「おまっ! 旦那に馬鹿っていう馬鹿がどこにいるんだ! ここかっ!」
「いるさねっ! ここにっ! 私が商品入れ替えとか、日々考えて考えて……それなのに! 粗探せって、喧嘩売ってんのかい!」
盛大な夫婦喧嘩が背後で始まり、隣に並んだキーダは一瞬振り返ったが、複雑な顔をして正面に顔を戻す。
囃し立てる住民達は、止める様子もない。
「……ジュダスさん、放っておいていいんですか?」
「私が、どうしろと?」
足を止め、離れた所で飛び交う野菜を眺めながら、アネッロは口の端を持ち上げた。
「仲の良い事じゃないですか」
「あれが、ですか」
「女性と言い合いになった事は?」
楽しげに眼を細めながら無表情の男に問えば、一瞬だが眼が泳いだ。
それを見て、アネッロが笑ってやると、彼は口を引き結ぶ。
「……言い合いには、なりません。私は、言い返したりしませんので」
「それで、相手は納得しますか?」
キーダからの返事は、なかった。
ただ、苦い何かが表情に乗っただけだ。
目の前に広がる喧騒は広がり、囃し立てる者と、投げられた野菜を拾って持っていく者とに分かれている。
それについても、アネッロは止めるわけではない。
本来、取り締まる側にいるキーダだったが、彼は渋い顔をしたまま腕を組んだ。
「言い返した場合、ああなるのは目に見えて分かるではないですか」
芋が一つ、二人の方へと転がってくる。
それを何とはなしに二人とも眼で追っていると、薄汚れた少年が走ってきてそれを拾う。
笑みを浮かべたままのアネッロと、難しい顔をして腕を組むキーダに見下ろされ、少年は怯えたように芋と二人へと眼を動かした。
恐る恐る芋を差し出してきた彼に、キーダが厳しい顔をしたまま片手の平を少年に向けた。
驚いた顔をして、芋を胸に当て、慌てて走り去っていく。
アネッロは、小さく肩をすくめた。
「人それぞれですがね。ただ文句や愚痴を言いたいだけの時もあれば、相手の考えを知りたいからこそ言い合いを求める事もあるでしょう」
「その結果が、こんな状態だとしても、ですか?」
「いいんじゃないですか? あのご夫婦には、お互いに好き勝手言い合える相手を求めているのでしょう」
それを本人達の目の前で言ったなら、怒って否定されるだろうが。
そう思いながら、アネッロは小さく笑う。
何を思い出しているのか、眼を細めながら彼らを見つめるキーダ。
「好き勝手言える事が、全てではないでしょう」
「当然ですよ。だからといって、相手が何を考えているのか分からず、こちらからも情報を与えずでは、一緒にいる意味がありますかね。気を使うなとは言いませんが、言いたい事すら言えない。聞きたい事すら聞けないような関係で、一生涯を添い遂げるなんて、出来るはずないでしょう」
「……私は、女性との喧嘩の話をしているのですが」
「同じ事ですよ。分かり合いたいのに、人の考え方の違いによってどうしても言い合いになってしまう。人によって、どこに喧嘩の種が転がっているのかなど、分かりませんからね。論争が好きだったり、ただ聞いて欲しいだけであったり。たまには意見も欲しい場合もあるでしょう」
旦那が奥さんに酷く平手打ちされ、周囲からは笑いが起こる。
そろそろ終わるのだろうと、アネッロは彼らから視線を外し、背を向けた。
キーダは、殴られた旦那が妻を殴り返すのかと思ったが、そうではなかった。
悪かったと宥めるような声が聞こえてきて、周囲がわざと冷やかす声を上げれば、妻は苦笑して終わりを示すように手を振った。
「どのような場面においても、日々勉強という事です。行きますよ」
「……はい」
二人は振り返る事なく、ゆったりと足を踏み出した。