商談
キーダ=サルダンは、話に花を咲かせるような人間ではなかった。
ジュダス商会は、明るく朗らかな人々でごった返すような場所でもない。
特に何事も起こらない長い時間を、過ごす事になるだろう。だがアネッロとしても、わざわざ話しかけるような用事があるわけでもない。
彼をいないものとして処理を進める。階下でも、怒鳴り声や物騒な物音はしなかった。
時折、質入した物品を引き取るために訪れる者がいるが、毎日訪れるような者はいない。
そのため、喧騒から離れた二階の一室は、静かで穏やかな空間になる。
聞こえる音といえば、アネッロが書類をめくる紙擦れの音か、ペンで書き込む時の音のみだった。
陽が陰り始めた時、ようやく階段が軋む音が聞こえてくる。
モネータのものとは違う事を感じ取ると、アネッロはようやく口を開いた。
「サルダン氏、場所を移動して頂けますかな?」
階段をのぼって来る何者かには、気付いたのだろう。
彼はすぐに立ち上がり、指し示されたアネッロの右後ろにある扉の前で足を止め、ノブに手をかけようとした所で制止の声がかけられた。
「ああ、中には入れませんよ。門番よろしく立っていて下されば」
一つうなずいたキーダは、扉を背にし、腕を後ろで組むと姿勢良く立つ。
その強面も影響してか、ただ立っているだけであるというのに、先には立ち入らせないという気迫までもが見えるようだった。
――是非、働き手として欲しいものではある。
そんな火を見るよりも明らかな無駄な考えが脳裏を掠めたが、控えめに扉を叩かれる音に、すぐに意識を切り替えた。
「どうぞ」
声をかけると、少し間があってから、扉がゆっくりと開かれた。
意を決したように唇を引き結んだ男が、入ってくる。
「我が商会は、初めてのようですね」
「……ええ、まあ」
アネッロから眼を外し、威圧してくるように立つ男に、客人は警戒したように肩をすくめた。
「ああ、こちらは気になさらず。こんな顔をしてますが、あなたが暴れない限り、特に何もされる事はありませんので」
そう言って、革張りの椅子へと促すと、キーダはさすがに少々渋い顔をした。
こんな顔、と言われた事が引っかかるのだろう。後は、勝手に用心棒とされた事が原因だろう。
だからといって言い直すでもなく、アネッロは木箱を手に立ち上がり、ローテーブルを挟んだ正面に座る。
キーダに背を向けて座る事にはなるが、背後の気配は身動ぎ一つしなかった。
だが、アネッロや迎え入れた客がおかしな動きをすれば、目敏く見咎めるだろう。
アネッロは笑顔を浮かべ、男と対峙する。
「それで、こちらにはどういったご用件で?」
「……こんな所に来るのに、金以外に何かあるんですかね?」
訝しげに言い返した男は、それでも眼を泳がせて、眉間のしわを深めた。
「確かに、間違いはございません。質入ですかな?」
「ええ、まあ」
そう言いながら、男は持っていた布で包んだ何かをテーブルに置く。
「中を拝見させて頂いても?」
「くれぐれも、丁重にお願いしますよ」
「もちろんですとも」
そう言って、丁寧に布を取り、箱の蓋を取ると、中からは美しく白い陶磁器が静かに寝かされていた。
柔らかな丸み、大きく口をとがらせた水差しだった。
アネッロは眼を瞠り、木箱の中から白い手袋を取り出し、気が急くのを押さえるようにして自らの手にはめた。
その白い肌に、深い藍色と金色のラインで彩られたそれは、大きな持ち手にも丁寧に細工が施されていた。
どこも欠けた様子のない水差しは、使用された形跡はなく、観賞用として購入された物なのだろう。
くまなくその容姿を堪能し、丁寧に箱へと戻した。
「……これは、素晴らしい一品ですね。どちらからのご依頼か伺っても?」
「それは、必要ありますか?」
この男の持ち物ではないだろう。
そう踏んだアネッロは、美しい物品を手にする事が出来た喜びを隠す事が出来ない、という様子を装って聞けば、やはり違うのかと知れる。
「これほどの物を持ち込まれるという事は、秘密裏に金を用立てたい貴族様の持ち物か、単純に盗品という可能性もあるものですから」
「……盗品」
「ええ。そういった場合も往々にしてございまして。そうなりますと、こちらの逸品も没収された挙句、金も戻らないといった事態にもなりかねませんので」
笑顔を崩さずに言うアネッロに、男は呻いた。
渋っている彼に、アネッロはうなずいて見せた。
「こちらでお請けする場合、御依頼主様を秘匿したいと申されるのであれば、お名前までは伺いませんよ。ただ、他の顧客と区別するために書類上必要ございますので、貴方様のお名前だけでも頂きたいですが」
「……それならば、構いませんが。盗品ではない、という事は伝えておきましょう」
そこで、アネッロの背後に立つ男へと眼を向けた彼は、少しだけ逡巡した後、歯切れ悪くアネッロに告げた。
「東街に居を構えているお方で、本日の日が暮れる頃までには用立て頂けると助かるのですが」
「そうですか」
居心地の悪そうに座り直すため、小さく尻を動かした男は、それでとアネッロを睨みつけるように眼を向けた。
「ああ、そうですね。このような良品でしたら……」
美しい装飾を施された水差しに、今一度視線を落とす。
いくら水差しだとはいえ、これだけの物を手に入れようとするならば、かなり値が張るだろう。
アネッロは、水差しから目の前の男に視線を投げると、彼は眼を逸らさず真剣な眼差しで見返してきた。
あごに手を当て、ゆっくりと擦る。
「二千ソルディでいかがでしょう」
「……は? いくら何でも、それは足元を見過ぎではありませんか!」
アネッロの言葉に、男があんぐりと口を開ける。
今度はアネッロが眉を顰め、困ったように腕を組んだ。
「そうは言いましても、こちらも商売の事ですから」
「せめて、五千」
ローテーブルを叩き、男が焦った声を出す。
提示してきた価格に、アネッロも呻きながら右手を口元に当てた。
目元は苦渋に滲ませるが、相手から見えない口は笑む形に歪ませる。
「……五千、とは。それはさすがに吹っ掛け過ぎではありませんか」
「いいや! これには、それほどの価値があるはずだ!」
「三千」
わずかではない額を上乗せしてやると、男は多少怯んだ。
そして、一瞬ではあるが、男の頬が震えるのをアネッロは見逃さなかった。
男は、ローテーブルから手を引き、難しい顔を作りながら腕を組む。
「……四千五百」
「三千、五百。これ以上をお望みであれば、他を当たって頂きたい」
実際に売ろうと思えば、五千ソルディ以上でも軽く出す人間は幾らでも存在するだろう。
儲けを出すのであれば、これ以上を乗せてもまだ余裕はあるのだが、アネッロは背もたれに背中を預け、腕を置いた肘掛けを落ち着きなく指で叩く。
「……三千五百、ですか。切り良く四千では?」
「三千五百です」
手の平で肘掛けを叩き、アネッロはこれ以上は話をしないとでも言うように、眼を細めた。
男は渋々ではあるが、その値段で手を打とうとうなずいてくる。
「分かりました、三千五百で。その代わり、この時に持ち帰りたい」
アネッロは笑顔を作り、木箱から二枚の書類と、小さな棚札を取り出す。
「もちろんですとも。その前に、こちらにご記入頂けますかな? 質入の物品を手元に戻したい場合は、今回の金額が三千五百ソルディのため……細かい数字は削りまして、四千五百ソルディを、本日を一日目として、三十日以内に返金頂ければ水差しをお返し致します」
二枚の用紙に、アネッロが金額と品名を書き記し、番号を振る。
それを男の前に並べて置き、棚札は木箱の上に乗せた。
男は用紙を見比べ、眉を寄せる。
「同じ用紙、ですか?」
「一枚は貴方様のお手元に。物品を引き出す際の交換票ともなりますので、保管ください。もう一枚は、私どもの控えになります。内容をしっかりお読み頂き、納得頂けるようであれば、両方にお名前のご記入をお願い出来ますか」
そう言って、アネッロは羽ペンを男に向かって差し出した。