噂話
三件目の店に、顔を出した。
アネッロを見るなり、店主の男は店内を慌てて見回し、足元に寄せていた木箱を片付けるよう妻に指示を出す――前に、恰幅の良い女は素早く箱をつかむと奥へと駆け込んだ。
そのあまりにも見事な彼女の動きに、口を半分開けたままの店主が、そのままアネッロへと振り返ってくる。
二人で思わず苦笑を交わし、アネッロは店内を見回した。
「ここは、奥様に感謝するとしましょうか」
「はあ、なんとも面目ない」
少し照れ臭そうに笑う男に、アネッロも柔らかく笑んだ。
店の外から、アネッロの名を呼ぶ切羽詰った声がした。
アネッロが半身、店の外へと身体を向けると、血相を変えたアンシャが、人ごみを掻き分けて走ってくる。
尋常ではない顔色に、アネッロは店主への挨拶もそこそこに、外に出た。
「申し訳、ございません!」
人の眼も気にせず、勢い良く頭を下げたアンシャへと、眉を顰める。
「ザイエティ捜査官、どうされました」
声をかけてやれば、ぱっと顔を上げた。
隊長と呼ばなかっただけでも、及第点だろうか。それだけ彼女の表情は、余裕などなく必死なものが浮かんでいる。
「少し、話をよろしいでしょうか」
興味津々な様子で、店主が顔を覗かせ、周囲にいた人々も眼を向けていた。
アネッロが見回すと、彼らは何でもない顔をして、そそくさとその場から立ち去っていく。
「歩きましょう」
「……はい」
ゆったりと歩き出しながらアンシャを見れば、彼女は息を整えながらも、周囲に眼を走らせながら硬い顔をしている。
「カリダが、どうかしましたか」
雑踏に紛れるように、静かに声を発すれば、アンシャは唇を噛みしめた。
「申し訳ございません」
「謝罪はすでに聞きましたよ」
先程出て行ったばかりで、隣にカリダの姿がなく、アンシャが思い詰めた顔をしている事から、あの獣少女に何かあったのだと思うのは必然だった。
決然と顔を上げたアンシャは、口早に語り出す。
「カリダが、攫われました。二人で追ったのですが、仲間と思われる者達に阻まれまして――見失いました」
悔しそうに低く声を絞り出すアンシャに、アネッロはいつものように笑顔を作ったままだ。
「アルトに命じて捜査班を出動させ、外に出る者への検問を敷きました。カリダの保護を優先に、犯人確保致します」
「頼みますよ」
「はい、失礼致します」
穏やかに返答するアネッロに、彼女はしっかりとうなずいて一礼し、駆け出していった。
アンシャの背が、人混みに消える。
彼女の跡をつけるような動きや気配は、周囲には感じられない。
アネッロはそのまま歩き続け、普段と変わらず、店に顔を出しては小さな所に口を挟み、そして次の店に行く。
「ああ、ジュダスさん。今日はだいぶ人が入りましてね」
頭を掻きながら首をすくめ、それでも少し安堵したようにも見える店主に眼をやってから、店内を見回す。
「そのようですね。何が良かったのか把握して、更に次へと繋げられるようにして下さい」
「商売というものは、難しいですな」
「人相手ですからね。今は売れても、次同じように売れるとは限りません」
さもあらんとうなずく丸顔の男は、それでも笑顔が見えていた。
草木の蔓で編んだ小さなカゴを、アネッロは一つ手に取る。
「そういえば新しく仕入れたモノが、つい先程、紛失しましてね」
「……おや、それはお困りでしょうな。入用の物がありましたら、手をかけさせて頂きますよ。ジュダスさんには世話になってますからね」
「そうですか」
眼だけを意味あり気に店主に向ければ、彼は少しだけ眉を動かして微笑する。
「かしこまりました。少しだけ時間を頂けますかな?」
「ええ、もちろんです」
言って、アネッロは金袋からいくらかを手にしていたカゴに入れる。
それを店主に差し出せば、彼は慣れた様子でそれに布をかぶせ、受け取った。
黒く塗られた別のカゴを一つ手にし、アネッロはその店から出た。
アネッロが持って行ったカゴの代金以上の金を、店主は妻である女にカゴごと渡す。
新しいカゴを奥から出してくると、黒いカゴが置いてあった場所に乗せた。
オレンジ色に塗られたそれは、先程のカゴとは対照的に、存在を主張している。
この店は、アネッロと同じく市井に紛れて網を張る者達の一角だった。
鮮やかな色のカゴを置いたのも、合図の一つだ。
それは、もちろん通りを歩く通常の客の眼も惹く。
だからこそ、店の前での動きが少し乱れた事に気付いた仲間が、気付きやすくもなる。
そのカゴに眼をやりはするが、通り過ぎていく者達が多い中、一人の女性がカゴ屋に声をかけた。
「良い色のカゴがあるじゃないの」
「おや、奥さん。さすがチェックが早いね」
「当たり前じゃないの! 良い物を見逃してるようじゃ、私じゃないだろ?」
そう言って二人で笑い、女は無造作にオレンジ色のカゴを手にし、裏に返したりなどして物の良さを確認している。
「さっき、ジュダスさんが来てたろ? また小うるさい事、言われたんじゃないのかい?」
「いやいや、今回は珍しく儲けがあったからね。なんとか乗り切れたもんさ」
店主は明るい色のカゴと代金を受け取ると、妻に渡した。
「包みますんでね」
「ああ、ありがとうね」
明るくうなずいた女に、店主の妻が包んだカゴを持ってくるまで、他愛ない雑談を交わす。
「そうそう、聞いた? なんでもモガリさんとこの横道で、捕り物があったそうよ! 結局、男に逃げられたとか。怖いわねえ」
「へえ! なんだか物騒な事が続くねえ」
「本当よね! それでね? 話によると、東の方に逃げたらしいんだけど、なんでもその内の一人が子供を抱えてたみたいよ? 孤児、なのかしらね。嫌よねえ、孤児院であんな事があった後だし、なんとかならないものかしらねえ」
すぐに戻ってきた奥さんから商品を受け取って、女は礼を言った。
「遅くなりまして」
「いいえ! 丁寧にありがとうございます」
「良い色でしょう? この人が新しい染料を見つけてね、こんなに素敵な色が出せたんですよ」
店主の妻が穏やかにうなずいて、軽やかに笑う。
女は包みを抱き、嬉しそうに歯を見せた。
「こんなに素敵な色合いの物ってないものね! すごいわあ、そりゃ儲けも出るわよ。旦那さんが熱心だと、やっぱり違ってくるものね」
「いやいや、褒めても何もでやしませんよ!」
「ええ? そうなの? 残念だわあ」
照れ臭そうに笑う店主に、女はくるりと眼を回して店主の妻と共に笑った。
「じゃあ、また寄らせてもらうわね!」
「また、新しい物を作りますんで! その時はよろしく願いますよ」
「楽しみに待ってるわ」
女は、満足気な顔で店から出る。
その女も、仲間の一人だ。住民の一人として、店を構えるでもなく、少しだけ余裕のある家の女主人だった。
旦那を殺され、未亡人になった彼女は、今の店主から声をかけられた。
この町をより良くするために、誰にも知られず、眼を光らせて欲しい。
犯人が逃げ果せるなどという可能性を、根絶するためにも。
正義などという、大層な考えなどではなかった。
恨むべき相手を、確実に自らの手で制裁出来るように。
話に乗った時、多くの者が裏で動いている事を知った。
女は、間違いなく高揚した。犯人を、狩りをするように静かに、だが的確に追い詰めていく様に。
ゆっくりと染み渡るような感覚が、愛する旦那を失った空虚な胸の内を埋めていく。
他の誰もが、大切な誰かを失っていたり、生きる事を理不尽に踏みにじられていた。
何かを崇拝したり、誰かに、ただ甘えて寄りかかる事はやめた。
だからといって、誰にも頼らないわけではない。
すでに大勢にかかわり、頼ってはいるがお互いに馴れ合ってなどいなかった。
女のように、訓練など受けていない者達も大勢いる。
普通に生活をし、周囲に気を配り、ただの噂であっても手に入れた情報は、細かい物まで全て世間話に織り交ぜた。
出来る事といえば、ほんの小さな事でしかないのは分かっている。
わずかな世間話で、何がどのように繋がっているのかなど分からない。
だが、それぞれが見聞きした違和感が積み重なれば、犯人像が割れる事は多々あった。
危険な事など、ありはしなかった。今言った話を聞いた者は、自分以外にもいる。
良い物を購入して、ただ話をするだけ。
小さく息を吐き出して、腕の中の包まれたカゴを見下ろす。
ふと笑みを浮かべ、顔を上げた。他の店から声をかけられ、そちらへと顔を向ける。
復讐に心を暗く燃やす事ばかりではなくなった。
いなくなってしまった旦那を、ただ泣き暮らすだけの日々でもない。
旦那を忘れたわけではない。それはずっと心を占めて、彼と共に過ごした日々は、眼を閉じればすぐそこに浮かび上がる。
楽しかった思い出を、思い出せるようにもなっていた。
声をかけてくれた店の奥さんへと笑顔を向け、女はいつものように井戸端会議に花を咲かせた。