カリダ
花屋の数件先で、モネータに少女を降ろすよう、合図を送る。
丁重に彼女を降ろしたモネータは、金髪が目立たないよう腰に巻いていた布を外し、目深に巻きつけて、その足で斜向かいのチーズを売る店へと紛れ込んだ。
すぐに恰幅の良い女が出てくると、モネータに気付き、嬉しそうに話しかけている。
アネッロは、人混みに溶け込みきれていない彼を横目で眺めてから、背中を丸め、辺りを窺う少女の首を後ろからつかみ、そのまま歩くように力を加えた。
「放せよ!」
「あいにくと、首輪と引き綱を忘れたものでね」
「あいにくと、おれは犬じゃねえ」
「これから私の犬として働くのですから、問題ありません」
「大問題だろ! 自分で考える脳みそ持ってんだ。どう見たって人間だろ、馬鹿にすんな!」
首の痛みに肩をすくめながらも、カリダは悪態を吐くのをやめない。
だが、アネッロは楽しそうに口の端を持ち上げる。
「ほう。では、どれほどの脳みそをしているのですか?」
「どれほどって……」
「この場で確認してもいいのですよ」
物騒な言葉に、カリダの背から汗が流れた。やりかねない雰囲気だけは、背後からでも伝わってくる。
「あんたの眼は、裏通りから町の外まで届くって聞いてる。逃げようがないだろ。大人しくついていってやるから、放してくれよ」
「そんな男だと知っていて手を出したのですか。変わり者ですね」
「……腹が減り過ぎてて、判断つかなかっただけだ」
十歳にも満たないとも見える少女の首を解放してやり、代わりに汚れたパンの袋を押し付けた。
焼きたての香ばしい匂いのするパンに、カリダはおもわず視線を落とす。
「メリッシュさんのご好意で、お前の分も入っています」
その言葉に、堪えきれず袋の中に手を突っ込みかけたが、それよりも先にアネッロの手が袋の口をふさいだ。
「私の所で働くのだから、歩きながら食べるなどという下品な真似は慎みなさい」
大きな手を押しのけて。それが叶わなくとも、紙袋を破いてでも食べたい衝動に駆られたが、カリダは大量に湧き出てくる唾液を飲み込みながら、袋を両腕で抱え込む。
「金貸しって存在が、一番下品なんじゃないのかよ」
「そうですか? その辺りは、モネータと語り合ってみたらいいですよ」
「あの金髪の兄ちゃんか。あいつ、苦手」
ジュダス商会の看板が出ている立派な扉ではなく、建物の間に通っている細い路地に入っていくアネッロの後を、用心深くついていくカリダ。
石壁に取り付けてある、カリダの身長ほどしかない扉の鍵を二つ開け、アネッロが身を屈めて中へと消える。
薄暗かった室内が、少ししてからほんのりと温かみのある光に染まる。入りなさいという柔らかく落ち着いた声に、カリダはおそるおそる石造りの部屋へと足を踏み入れた。
「パンをテーブルに」
「いやだね。これは、おれのもんだ」
「三十ソルディ払えるのならば、何の問題も生まれませんがね」
パンが潰れるほど力を入れて、かたくなに拒むカリダの細い右腕に鋭い痛みが走る。細いがとてつもなく重たい何かで、腕を斬り落とされたのかと思うほどの痛みだった。
耐えられるわけもなく、敷き詰められた床板に袋を落とす。
「何するんだ!」
「こちらのセリフです。さあ、パンをテーブルに」
激痛に顔を歪め、右腕に触れる。折れてはいないようだった。酷い痛みにもかかわらず皮膚は裂けていない。絶妙な力加減であった事など知るべくもないカリダは、アネッロをにらみつける。
彼の手には、大人の腕ほどの長さがある鞭が握られていた。
酷く打てば、首くらい簡単に落とせるほどの威力はあるだろう。革で巻いてはあるが、芯に何か埋め込んであるのでは、と思うほどの痛みだった。
痺れるような右腕をだらりとおろし、左手で落ちた袋を拾い上げ、テーブルに乗せる。
「これで、いいんだろ」
「では、奥に風呂があります。頭の先から足の先まで、汚れが落ちるまで洗いなさい」
「はあ? なんでそんな事しなきゃいけねえんだよ」
風を切る鋭い音を上げ、振り上げられた鞭先がカリダのあごを軽く打つ。カリダは、一歩も動く事が出来ず、全身から汗が吹き出した。
腹が減ってなければ、避けられたのに。その言葉を飲み込んで、悔しそうに顔を歪めた。
彼から眼を逸らさず、乾ききった口で声をしぼり出す。
「水浴びなんかしたら、奴らに馬鹿にされる」
「奴らとは?」
「……あんたには、関係のないガキどもだよ。女だから水浴びをするって。あいつらだって水浴びくらいしてるのにさ。だから、おれはクサイままでいいんだ。奴らも近づかなくなったからな」
「確かに、酷いにおいだ」
「だろ? これが、おれの生きる術だからな」
全てを蔑んだ笑い方をするカリダに、アネッロも頷いて見せた。
「そうですか、分かりました。ならば今、この時から考えを改めなさい」
石の壁が圧迫感を与え、カリダは笑いを引っ込めた。小さな窓から差し込む陽の光では、十分の明かりとはならない。温かみのある光を生んでいる蝋燭を灯したのは、そのためだろう。ゆらりと揺れる光は、少女の硬化した表情を子供ではないもののように浮き上がらせた。
「においが消えて、女だと気付かれたら襲われる。それなら死んだほうが、ましだ」
「そうですか、それなら一度死になさい」
糸切り歯を見せて、カリダは獣に近い唸り声を上げた。アネッロが武器を手にしていたとしても関係ない。明らかな敵意を向けて、猫のように背中を丸める。
左手を腰の後ろに回した所で、動きを止めた。
「ひょっとして、探し物ですか?」
鞭を持っていない左手に、細い刀身のナイフを持ち、器用にくるりと回して見せた。
カリダが悔しそうに歯を鳴らし、目眩でも覚えたのか床にへたり込む。
刃物をテーブルに置き、アネッロはうなだれたカリダの近くに立つ。
「本当に死ねと、私は言いましたか?」
「言ったろ」
「ある意味、そうかもしれませんが。飢えてどうしようもなくなったカリダは、ここで死ぬ。ジュダス商会の犬としてのカリダが、風呂から出た時に生まれる」
「犬って言うな。それに……おれは、おれだろ。変わんねえよ」
「だったら、どんな姿でも構わないでしょう。要は心持ち次第ですよ。こう言ったほうがいいですか? パンの一片でも食べたければ、身綺麗にしろ」
少女を立ち上がらせ、アネッロは水の張ったバスタブの前にうろたえる彼女を立たせた。
「服は捨てるから、隅に寄せておきなさい。新しい服は調達させよう。石鹸は何度も使うんだ、いいね。そのにおいでは、一度や二度では効かないだろう」
「……贅沢だな」
「金ならある」
アネッロの一言に、やっとカリダが吹き出した。楽しげで明るい、年相応の笑い声が、特別に仕立てたバスルームに反響する。
「水は汲み上げ式になっています。湯は銀のレバーを横に」
「お湯が出るのか!」
「湯のほうは、町の湯殿からひいている」
「それは、なんか。ずるくないか?」
「楽でいいでしょう。いちいち火を焚く必要がない。十歳にも満たないようだが、風呂の扱いに問題はないな?」
「失礼な! おれはこう見えても、今年で十四だ。風呂に入ってやるから、出てけよ。変態」
楽とか、そういう問題ではなくて。そう言いかけていたが、幼子扱いにカリダは声を荒げた。
一瞬驚いた表情を見せたアネッロだったが、すぐに呆れた声を出す。
「変……お前は、本当に怖いもの知らずというか、考えなしというのか」
「おっさんって言われないだけ、ましじゃないか」
「私はまだ二十五ですよ。子供からしてみたら、おっさんかもしれませんがね。次にそれを言えば、首が飛びますよ」
「……言わないよ」
おもわず口に出して失敗したと、水辺の冷たさだけではない背筋の冷たさを感じ、カリダは小さく後ずさった。
アネッロはそれに構わず、バスルームから出て扉を閉める。簡易的なスライド式の鍵を、外側から音をさせずにかけた。
長鞭を巻いて留めてある特殊なベルトに、短い鞭を差込み、丈の長い緑色のベストで覆い隠した。
カリダを触り汚れてしまった手を洗ってから、ストーブに火を入れ、小さなやかんをかける。
湯が沸く間に、汚れ潰された袋から唾をかけられた側のパンを皿に乗せて、ストーブの傍に置く。潰れただけで済んだ二つの丸パンはカゴに移すと、アネッロは深く息を吐き出した。