捜査官の訪れ2
身体を捩り、腕を振り回して抵抗を続けるカリダの首を、アネッロは指二本に少し力を加えるだけでその動作を制限させた。
身体を小さく震わせて動きを止めた少女は、苦しげに表情を歪め、喘ぐように口を大きく開いて空気を求めた。
「さて話の続きです、カリダ。お前はこれから淑女教育を本格的に学んでもらいます。我々では、女性特有の立ち居振る舞いの細やかな部分は教え込めない」
カリダはうなずく事も出来ず、首をすくめていたが、弱々しく、だが必死にアネッロの腕を叩く。
わずかな呼吸しか許さないその指先に、限界が近いと感じたのだろう。
アネッロはそれでも、指先を緩める事をしなかった。
息が続かないかもしれない恐怖を与えている。だが、決して死ぬ事はない。
経験則からくる力加減で調節しているからこそ、出来る芸当でもあった。
「いいですか、場所が変わるだけです。私の手から逃れられるわけではない。そこは間違えないように」
アネッロの言葉を聞いて、叩く手が少し止まったが、少しして先程よりも力強く少女は腕を二回叩いた。
肯定の意味だと理解し、アネッロは指を緩める。
「さて、こちらの話はまとまりました」
「……あいかわらず、ですね」
「人間の本質など、早々変わりませんよ」
アンシャが少し強張った表情で言えば、アネッロは柔らかく微笑する。
カリダがアンシャへと胡乱な目つきを向けると、彼女は諦めた顔をしていた。
次に、モネータへと眼をやれば、彼も聞かされていなかったのだろう、困った顔でカリダとアネッロへと視線を行き来させている。
この場にいる誰も、アネッロに反論する者はいなかった。
「なんだ、おれを捕まえ……」
安堵したカリダが、全ての言葉をこぼれ落とす前に、アネッロは空いた片手で少女の口を塞いだ。
少しだけ動く頭を動かし、文句をその瞳に込めて見上げてくるのを、人一人殺せそうな感情を込めて見やる。
あっという間にすべての文句が霧散し、見開くだけになったカリダの眼を確認すると、首から手を外してアンシャへと背を押しやった。
「現状の把握は出来たと思います。ザイエティ捜査官、あなたにしか頼めないのです。よろしくお願いします」
穏やかに言えば、彼女は少し顔を赤くした。
「き、気持ちとしては理解出来ますが、一般民が貴族教育など。これまでに聞いた事がありませんし」
「ええ、あるわけがありません。しかしながら、貴族出の婦女子であるにもかかわらず、上位捜査官にまで駆け上がる事が出来たザイエティ様であれば、この可哀想な孤児の少女を一人くらい引き受ける度量がおありではないかと思ったものですから」
微妙な空気に、カリダが振り返ってくる。
その表情には、また始まった。とでも言いたげなものがはっきりと見えていたが、アネッロは笑顔を崩さない。
「その、少女を、貴族にしたいと?」
「そこまでは望んではいませんよ、なにせ血筋に固執する方々ですからね。ですが、そんな崇高な方々に通用する程度にまで、鍛え上げて頂けたらとは思っていますよ」
アンシャは、おもわずカリダを見下ろした。
不貞腐れた顔で、眼も合わせない少女に、アンシャは困惑する。
「いくら見目の良い男に、女性の格好や所作を徹底してやれといった所で、所詮真似事の域を出ません」
そう言えば、この場にいる者達の視線が、自然とモネータへと集まる。
少しばかり顔色を悪くして、金髪男は顔を強張らせた。
「言っておきますが、私は女性の格好など、した事はありません」
おかしな笑みを浮かべたカリダに、モネータは告げたが、少女が低いおかしな笑い声を発すると彼は眼を細めて黙り込む。
アネッロは、口の端を持ち上げて、話を続けた。
「男女差別は、確かにある。私にとって、それは男が女の柔らかさを持ち得る事は出来ない、それだけの話ですが。まあ、こんな男所帯で女性らしくしろと口先だけで言った所で、理解は難しいでしょう」
その言葉のどこかに、納得出来る所があったのだろう。
アンシャは、小さく何度もうなずいている。
それを見て、アネッロは満面の笑みを浮かべた。
「ああ、言い忘れていました。期間としては、長くても十日」
さすがに、アネッロとカリダ以外の全員が眼を見開いて、息を呑んだ。
「それは、無理難題というものですわ」
アンシャが断固として、だが明快なる返答を真っすぐ打ち返してくる。
それを何でもない事のように受け止めて、アネッロは片手を自らの胸に当て、うなずいて見せた。
「難題ではありますが、無理ではないはずです。なにしろ、考える脳みそを持った人間だという事が、カリダ自身の矜持でもありますから」
「……きょうじって、なんだよ」
わかんねえ言葉、使ってんじゃねえよ。と呟いたが、アネッロは聞こえない振りをした。
近くにいたアンシャが、カリダの言葉にどんな反応を見せるかを知りたかったからだ。
見た目は、ただ立っているようにしか見えなかった。
だが彼女は、アネッロの視線の意味に気付いたのだろう。少し息を多めに吸い、静かに吐き出す。
相手に動揺を見せれば、簡単に潰されかねない。
それは女性騎士として立つ戦いの場でも、貴族女性の交流の場でも同じだからだ。
特に、女性間のえげつなさは、目に余るものがある。
彼女達は真意を捻じ曲げ、笑顔と知識で武装して、自らに決して害の及ばぬよう手を下す術すら、兼ね備えているのである。
柔らかい態度を崩していないアネッロが、それでも引く事はないと、彼女は悟ったのだろう。
「分かりました。出来るだけの事は致します。ただ、理由を教えて頂けませんか」
「言いませんでしたか? 人間の女性に……」
「女性ではないかもしれませんが、それでもこの子供は人間でしょう」
滑らかで澱みない言葉に、カリダはわずかに違和感を覚えたが、何がおかしかったのか分からず、小さく首をかしげるにとどまった。
「礼儀作法は、ないよりはあった方がいい。それに、私どもの商売は、高貴な方々をお相手する事もありましてね。私の知り合いで、信頼に値する貴族女性は、あなたくらいしか思い当たらなかったものですから」
「……信、頼?」
「ええ。あなたほど鍛え甲斐のある、芯が強く有能な女性は初めてでしたね」
その言葉に、アンシャは眼を潤ませ、真っすぐ向けた視線を一身に受けながら姿勢を正した。
アネッロとて、嘘は言っていない。
ただ、女性が騎士を目指して調練に参加する事など、見た事も聞いた事もなかった。
強気な性格だが柔軟な考え方が出来、男社会の中で感情を押し込めて我慢をする姿を見かけた事は、一度や二度ではない。
よほど酷い事を企む輩は、騎士としての心得を叩き込んでやった事も数度ではないが、彼女に降りかかる危害を全て払ってやったわけではない。
騎士としてやっていくのであれば、どうしても通る道でもあるからだ。
自分で正しい道を切り開く事も、必要になる。
その手段が言葉であれ、純粋なる力によるものであれ。
彼女は、潰されなかった。それは純然たる事実だ。
アネッロは静かに、言葉を口にした。
「私からの一度きりの頼みを、聞いて貰えませんかね」
「一度、などと……いえ、承知致しました。これきり、です」
「ええ、もちろんです」
感動に打ち震える彼女の後ろで、アルトが何か言いたげな顔をする。
アネッロと眼が合った彼は、逡巡したようだったが、結局無言でいる事にしたのだろう。
おそらく、彼女が自分の言った言葉に気がついた時、悲鳴を上げるだろう事が分かっていながら、アルトは進言しなかった。