囚われた者達3
今は外れたとはいえ、長年アネッロの元にいた男だ。多少なりとも、毒の抵抗はあるのだろう。
「分かっている事は、俺の部下が敵側についている」
「……ああ」
「俺の名は敵に知られていて、アネッロ殿にも俺が捕まったと伝わったようだ」
それを聞いて、ははっと息を吐き出すようにガトは笑った。
楽しげなものではない、それは同情に満ちていた。
「あんたが、囮に使われるなんてな。あいつに折檻されない事を祈っておいてやるよ」
「誰に祈る。信じる神などいないだろう」
「誰が神にって言ったよ。世の中にいる、全ての美しく優しい女達にだよ」
そう言って、ノーチェフに向かって片目をつぶって見せる。
動きが鈍く、引きつるようだった表情は、幾分通常に戻りつつあるようだ。
「女に祈って、何になる」
表情の変わらないノーチェフに、ガトはゆっくりと頭を回した。
「癒されるだろ? で、俺様は何をしたらいい」
彼の言葉に、ノーチェフは口をつぐんだが、すぐに何事もなかったかのように口を開いた。
「ベルトが必要だ」
「……ああ?」
眉間にしわを寄せ、ガトが自分の腹を見下ろす。
自らのベルトよりも下、太腿を締め付けているベルトに眼をやって、隣で吊るされている男に視線を戻した。
「これか」
「それだ、こっちに」
どうやって。などとは言わなかった。
ガトは上を見上げ、両腕に均等に力を込める。
「ったく、懐かしいな。嫌な修行を思い出す――よ、と」
腕を寄せながら一気に力を入れるが、元々体重がかけられていたからか、鎖は軋んだり擦れた音すら立てず、ガトの身体を支える。
手首から鎖が充分耐えられる事を感じ取ると、さらに足を頭上へと向けた。
ガトは右足首を鎖に引っかけ、更に身体を引きずり上げていく。
半分、逆さ吊りになりながら、歯を食いしばり左太腿を手元に近付けた。
締め付けられ赤黒くなった震える手でベルトを解くと、安堵に気を緩める事なく、ゆっくりと足を下ろす。
上がってしまった息を吐きながら、それでもガトは口の端を持ち上げた。
「どうだ、見直したろ」
「寄越せ」
頑張ったガトに、何の感慨も見せず、ノーチェフは言う。
唖然とはしなかった。ただ、笑ってベルトを振り、彼の手元まで端を渡す。
「ったく、どいつもこいつも」
人の苦労を何とも思わん、と口の中で不平を垂れた。
聞こえよがしの言葉に耳を傾けるわけでもなく、ノーチェフは受け取ったベルトを留め金まで辿ると、よく見ないと分からないくらいの突起を爪で押す。
小さな仕込ナイフを取り出せば、ガトは干草の向こうに気をやった。
見張りの男が暇を持て余したのだろう、下手な鼻歌が聞こえてくるが、誰かが近づいてくるような気配はない。
指では到底回せないネジを、ノーチェフはナイフを使って器用に回していく。
自由になった男達は、冷えた足先の感覚を確かめ、周囲をぐるりと見渡した。
確実に分かっている事は、外にいる見張りの男の存在だけだった。
干草を押し込めた倉庫には、武器になる物は一つとしてなく、明かり取りの窓は高い所にあるが、出られない大きさではない。
「動けるか?」
「何言ってんだ、俺様だぞ?」
ノーチェフに心配されるほど、生半可な鍛え方はしていない。
アネッロの元を離れてからも、身体が鈍らないようそれは密かに続けていた。
ガトが固まった筋肉をほぐすように腕を回し、見上げる。
「のぼるか?」
「いや、扉を正しく使おう」
そう言って扉から見えないよう、干草の陰に身を寄せれば、ガトも同じように下がり、垂れ下がっている鎖をわざと激しく鳴らした。
扉向こうの鼻歌が消え、硬い物が床を擦る音がする。
「おい! 大人しくしとけよ!」
太い声は、子供の物ではない。声も、足音も一つだけだと二人は判断した。
もう一度だけ、弱々しく鎖を振る。そのわずかな音に、外から怪訝な声が聞こえたが、それ以上の音を立てる事をせず、ガトは鎖を離し、干草の陰に隠れた。
小さく、小気味良い硬質な音がした。
床の軋む音で、誰かが踏み込んできている事が知れる。
訓練されている者ではないのか、他に役に立たないから牢番をしていたのだろうか。
いずれにしても、浅はかだった。
男が恐る恐る干草の向こうから首を伸ばし――自らの名前を含めた全ての記憶を、その時失う事になる。
*
早朝、またしても騒ぎが起きた。
ラクルスィ領、西の城壁近くを流れる川に男が一人、身体を丸めるようにして死んでいた。
見つけたのは西側で色を売る女だった。
質の悪い服を与えられ、疲れ果てた女は店の湯を使わせて貰えず、町の湯殿も一つ上の姉さん達が使い、一番下である女は、町外れの凍てつく冷たさをした川に布を浸し、身体を拭いていた。
何度か身体を拭き、赤くなってしまった手に息を吹きかけた時、何かを隠すように布がかぶせているのを目にした。
誰かが、大事な物を隠しているようにも見え、彼女は周囲を見渡した。
だが、朝の早いこの時間に、誰かが通るような場所でもない。
気だるい身体で立ち上がると、布の角をそっと持ち上げ、息を呑んだ。
血で濡れた頭髪が、眼に飛び込んでくる。
思わず手を離し、彼女は逃げ出した。これ以上悪い事にかかわりたくなかったのだ。
西では、気の荒い連中が暴力沙汰で捕縛される事など日常茶飯事だった。
その流れなのだろうとしか、女は思わなかったが、詰め所に駆け込むでもなく店の女主人に訴える事で、事件は露呈した。
殺されたのは、西の金貸しだった。
ナンス=フィダート。老齢で狡猾、そして一切慈悲のない取り立てで有名な男が、一人川辺に転がされたのだ。
あまりにも無残な死に方に、たちの悪い取立て方をしていたフィダート家から金を借りた者達を優先して取り調べているようだった。
アネッロは情報を受けてはいたが、敢えて外に出る事もせず、いつも通りストーブに薪をくべていた。
モネータが寝ぼけ眼のカリダの腕をとり、顔を出す。
「おはようございます、アネッロ様」
「……はようざいます」
まだ半分寝ているのだろうカリダは、それでも条件反射のように挨拶を口にした。
暖まっていない部屋の空気に、寝起きのカリダは腕を擦り、欠伸を噛み殺した。
「ベーコンがあります。モネータと相談して調理してみなさい」
その言葉に、一気に眼が覚めたのだろうカリダが喜びに顔を輝かせる。
「はい!」
歓喜に沸いた返事に、アネッロは機嫌良く笑ってうなずいた。
「ただし、今度また貴重な材料を無駄にした場合。モネータと二人、素裸で町を一周歩いて貰いますよ」
あきらかに硬直したのは、モネータだった。
カリダは、アネッロに対して軽蔑するように顔を歪ませる。
「……ボス、それは人としてどうかと思います」
吐き捨てるようにカリダが言えば、アネッロは更に笑みを深くした。
「お前達が人として認定されたいのであれば、努力する事です」
「アネッロ様、それは私も含まれるのですか」
「私は、お前達。と、言いましたね?」
異議を唱えかけたモネータも、笑っているのに真冬の凍てつく空気をアネッロに感じて、口を閉じた。
一番大きな砂時計と、二番目に大きな物をテーブルに乗せ、アネッロは席についた。
わずかに小さな方の砂時計を手に取り、砂を上に返す。
「何でも構いません。二つの砂が全て落ちるまでに、終わらせなさい」
「無理に決まってるじゃん!」
カリダはうろたえて、それでもモネータを見上げる。
彼も少し緊張した顔をしていたが、カリダを見下ろすと、ゆっくりと残念な者を見る眼に変わった。
カリダがその表情の意味に気付いた。だが、少女が口を開く前に、アネッロが楽しげに声をかける。
「調理を終えたら、罰を先に」
「……はい」
カリダはモネータのせいだと言わんばかりに彼をにらみつけ、キッチンに備え付けられた台からナイフを取り出す。
気付かない振りをして、モネータはベーコンの塊を厚手の板に乗せた。