囚われた者達1
――扉の閉まる音に、ノーチェフは薄く眼を開けた。
薄暗い中ではあるが、最初に見えた物は木の床だった。
足音は隔たれた壁の向こう側から聞こえ、それは離れていくようだった。
ノーチェフは身じろぎ一つせず、静かに眼を閉じる。
靄がかかっているような頭は、うまく考えがまとまらない。
分かっている事をひとつずつ思い出しながら、それをゆっくりと自分の中に染み渡らせる。
この毒への耐性をつけるのは、酷く困難だった事を思い出し、慎重に息を吸い吐き出した。耐性をつけるため、摂取量をほんのわずか多く摂った数名の部下は、呼吸が止まって死んだ。
――生きている。
徐々にはっきりしてくる意識に、自分の状況を判断する。
両手首に枷がはめられ、肩幅よりも更に広げられた状態で吊るされている。
足はつま先が床に丁度届くかどうかというくらいだった。
眼を開けた時、自分の上半身だけ服を剥ぎ取られているのは確認した。隠していた暗器の類はすべて回収されているだろう。
そして、刺した右足には血止めだろう布がきつく巻かれている。
吊るされていたせいか、背中から肩、指先までの痛みが酷い。
だが、他に痛めつけられたような感覚はなかった。
隣に人の気配がするが、それは動いていない。
ノーチェフは微動だにしなかった。
自分を吊るしている物が、少しでも動けば何かしらの音が立つ物ならば、自分を捕らえた者に目が覚めたと知られる事になるだろう。
干草のにおいに、もう一度眼を開けた。先程見た床の木目を映す。
見える範囲で瞳だけを動かし、潜んでいる者がないと踏んで、ゆっくりと頭を持ち上げた。
そこは、倉庫の中だった。
干草が積み上げられている事と、動物臭さを感じる所から、近くに家畜がいるのだろう。
左側は、壁の上部に明り取りだろう小さな窓が取り付けられており、光の入り具合から昼を少し過ぎた頃で、南を正面に吊るされていると判断した。
干草の陰で右の方向にある扉は見えない。奥に隠されている状態は、好都合でもある。
こちらから見えない。という事は、向こうからも見えない。
右手首に視線をやると、分厚い鉄で出来た枷がはめられていた。ネジで締められ、指は届かない。
吊るしている鎖は手首を少し捻れば掴めるが、天井に取り付けてある太い鉄輪に通されていて、動けば鎖の擦れる音を立てるだろう。
左隣には思っていた通り、左足にノーチェフのベルトを巻いたまま、ガトが力なく頭を垂れ、未だ意識を取り戻してはいないようだった。
確認した時から今この時でも、彼の呼吸は極端に浅い。
このまま眼を覚まさない可能性もあるが、とりあえずは生きている事実だけを心に留め置く。
――さて、どうしたものか。
ノーチェフは、意識を失う前の記憶を思い出すように眼を細めた。
*
ハボンとして、事情聴取から解放された所までは問題なかった。
出てすぐに、スタイが笑顔で駆け寄ってくる。
「大変な目に遭ったわね」
ハボンは困った顔で、小さくうなずく。
二人は歩きながら、適当な路地へと足を向ける。
逃げ出した子供を捜すためではない。その証拠に、明け方の薄闇から逃れるように入ったその道で、スタイの優しげな表情は一変し、からかうように唇を歪ませた。
「ノーチェフ殿、どうでした? あの女の味は?」
「……女は、恐ろしい生き物だな」
そう呻くと、スタイと呼ばれていた女は声を抑えながら楽しげに笑う。
「ロザート、お前はどちらに賭けていた」
部下達が、シーフェを悪女か聖女かで賭けている事は知っていた。
だが、スタイの名を騙っていた彼女、ロザートは黒い瞳をくるりと回し、肩をすくめる。
「あたしは……悪女さ。ノーチェフ殿があの女と寝ない方に賭けてたよ」
考えてもいなかったまさかの返答に、ノーチェフは眉間にしわを寄せ、顔を引きつらせた。
それを見て取ったロザートが、にやりと笑う。
「あの女が本当に悪女なら、ノーチェフ殿は怖がって手を出さないだろう? 聖女なら、その清純さにほだされて押し倒す可能性が出てくるじゃないか」
「なんだ、それは」
「賭け対象が、違っただけさ。悪女だ聖女だって言ってたのは、その賭けが潰されないための措置」
ロザートが話すほど、ノーチェフの顔から表情が消えていく。
彼女は、また小さく笑った。
「なんだかんだで手を出す方に賭ける奴が多かったけど、あたしは信じてたよ。ノーチェフ殿は、女に手を出せるほどの甲斐性なんてないってさ」
しげしげとノーチェフの顔を眺めると、ロザートは満足気にうなずき、かぶっていた白い布を近くにあったゴミ捨て場に放り込む。
癖の強い短い黒髪に手をやって、彼女は艶やかに笑った。
「そうか、やっぱり寝てないんだ。助かったよ、ノーチェフ殿」
「……役に立てたようで」
そう言いながら、ノーチェフは自分が無表情になっている事に気がついた。
「ロザート」
ノーチェフの呼びかけに、彼女は薄笑いを引っ込める。
「別行動だ」
「はい」
うやうやしく、わざとらしく胸に手をあて、軽く礼をした彼女は暗がりに溶け込むようにして消えた。
女だてらに、その優秀さはノーチェフの部隊で五本の指に入るほどだ。
来た道を戻ると、黒いコートを羽織った見知った背中が遠くに見える。
自分は解放されたが、まだ仕事が残っているだろうはずの下っ端の男が、何をしに行くというのだろうか。
ガトの事は、自由な男だと思っている。
だが、仕事に関しては手を抜かない男だ。
それが例え、昨日肩を組み笑い合っていた者であっても、仕事となれば容赦なく追い詰める。
その男が、理由もなく任された仕事を疎かにするはずがない。
ただの勘ではあったが、ノーチェフは彼の後を追った。
何かを、隠している。
そう判断したが、まさかすべてを解決するような事態になるとは。
酒場の外で話を聞き、彼らが薄闇の中を行くその後方に身を潜めていると、至る所からガトと酒場の親父――アルコといったか――二人が監視されている事が見えた。
建物の上階にある明かりのない窓にかかっているカーテンが、わずかではあるが動いたのが眼に入る。路地の隙間で酒に潰れ、壁に寄りかかって寝ていた男が、通り過ぎた二人の背中を凝視していた。
アネッロの息がかかった、この街を任されている暗き者もいない事はないだろうが、網の隙くらい、ガトならば知っているはずだ。
犯人として捕らえこそするが、自発的に出頭したと見えるよう配慮したのだろう。
アルコや娘のオリカが、それほど彼にとって大切なのだと分かったが、甘さは失態に繋がりやすい。
白い衣装のままだったノーチェフは、白壁に紛れる事を知っている。
場所にもよるが、今いる道では黒いコートは逆に眼につく。わざとやっているとも取れたが、ノーチェフにとってどうでもいい事だった。
二人が足を止め、オリカと呼ばれた女の顔も眼に焼きつける。
話を聞いている間、彼らを見張っている者達が包囲を狭めない事も確認する。
突然の事だった。
路地からオリカと呼ばれた女と同じ羽織り物を着た白い手が、ガトの足に何かを刺した事は見てとれた。細い、女の手だ。
なんの躊躇もなく刺した事から、民ではないどこかの手の者だろう。
その女の顔を確認出来る位置にはいなかったが、さほど遠くない。ならば――
ノーチェフは、はっきりと分かるように、その女へ殺気を放つ。
女は、焦る様子は見せなかったが、その行動は素早いものだった。
オリカの肩を抱き、アルコに語りかけると、素人であるオリカがいるにもかかわらず、見事に二人分の気配が掻き消える。
アルコが立ち去るのを確認し、ノーチェフは即座に動いた。
見張り共よりも先に、彼を回収するためだ。
敵の手に、ガトを捕らえさせるわけにはいかない。というのも一つだが、何かを刺された後の反応に見覚えがあったからだった。
足を見下ろした直後、ガトは抵抗すら見せず崩れ落ちていた。
担ぎ上げ、駐屯所前に敵がいるかもしれない事を思えば、網にかかるよう動き、アネッロの店の前にガトを転がしておけばいい。
そう考えながら一つの路地に足を踏み込み――今に至る。
余計な筋肉を動かさないよう、静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
どんな状況であれ、静寂はノーチェフの心を穏やかにさせた。
ナイフで払った時、フードのせいで顔は見えなかったが、歪んだ口元とその女の仕草には見覚えがあった。
寝ている者がするように、ゆっくりと静かに深呼吸を繰り返す。
徐々に頭がはっきりしてくるのを感じながら、ノーチェフは感情を押し殺した。