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オリカ

 そう声をかければ、その者は、かぶっていたフードをゆっくりと払う。

 薄青い明け方の空気の中、白く浮かび上がった懐かしいその顔は、微笑していた。

「ガト。会えて嬉しいわ」

 八年たった彼女は、そばかすもそのままに少女から女性の顔になっていた。懐かしい声に、ガトの胸が小さく軋む。

 オリカだ。声も笑顔も、変わりなく見えた。

 だが、何かが違う。と、頭のどこかで警告が響く。

 アルコを横目で見るが、彼は複雑な表情で固まったまま動かない。

 ガトは小さく息を吸い、ふっと息を吐きながら柔らかく笑んで見せる。

「ああ。久し振りだな、オリカ。変わってないな」

「そう? ガトは、変わってしまったわね」

「……歳をとったとか、言うなよ」

 変わっていないとは言ったが、快活な少女だった女性は以前と変わらず楽しげに笑っているというのに、ガトは背筋が凍るようだった。

 自然と、警棒の存在を確かめるように手が動く。

 彼女は小さく首をかしげ、ゆったりと近づいてくる。

「歳をとるなんて、誰にでも起こり得る事じゃない。私は、大人になって嬉しいのよ?」

 彼女の方へ、ガトも足を踏み出す。

 アルコの距離感を保つためでもあった。斜めに少し進み、二人が見える位置で足を止める。

 一定の距離まで来ると、彼女もそれ以上近づいてはこなかった。

 反対側に首をかしげ直しながら、オリカは困ったような顔をした。

「ガト、父さんと何をしているの?」

「散歩だよ。ちゃんとした仕事につけた俺様を、アルコが喜んでくれてよ。積もる話に、花を咲かせてたってわけだ」

「ガトに、聞きたい事があるの」

 ガトの言葉を聞いているようではなかった。ただ、口が動いているだけだ。

 ガトを見ているようで、どこか遠くの誰かを見ている感じがした。

 違和感の正体は、それだけではない気がする。

 返事をする前に、彼女から表情が消えた。

「どうして、アネッロさんを裏切ったの?」

「……裏切った?」

 眉間にしわを寄せ、彼女の感情を推し量る。

 肯定するようにうなずいて、オリカは少し怒った顔をした。

「そうでしょう? アネッロさんに雇って貰ってた恩を忘れて、役人なんかになるなんて」

「ああ……それか」

 ガトが苦笑すると、オリカは怒りを露にして砂を踏み、対峙する。

 今度は、はっきりとガトを認識していると感じた。

 そして、町に暮らす商人の娘とは思えないほどの殺気を孕んでいる事も。

 ガトは右足をわずかに引き、苦痛に顔を歪ませたアルコがこちらを見た事にも気をやった。

「オリカが、誰を見ているかなんて。分かってたさ」

「どうしてなの! ガト、あんたが敵になるなんて!」

 燃えるような眼で、オリカが一歩踏み出す。

「あいつが……アネッロ=ジュダスが、好きなんだろ? 知ってるさ、どれだけオリカを見続けてたと思うんだ」

 ガトは自分でも驚くほど、声が冷え切ったものになっていた。

 それに気付かないのか、オリカの唇は笑う形に歪められる。

「あの方の為になるなら、何でもするわ」

 今まで怒りを燃え上がらせていた瞳は鳴りを潜め、頬を染めたオリカが、極上の笑顔で可愛らしく笑った。

 どこか、噛み合わない会話。そして、あまりにも激しく移り変わる彼女の感情に、ガトは軽く息を呑んだ。

 酒場にいた頃は、至って普通の娘のはずだった。

 面白い事を言って笑ったり、酒に酔って悪さをする客を箒で叩き出したり。

 だが、ちゃんと客を見て、普通に会話が出来ていた。感情豊かで、人情のある娘だった。

「オリカ、俺様……俺は――」

 そう言った瞬間、左足の太腿に激痛が走った。思わず言葉を止め、痛みの根源へと視線を落とす。

 ほっそりとした白い手が、何かをつかんだような形で、ガトの足に何かを突き立てていた。

 背後に誰かがいるのは、確実だった。

 いくら前方の二人に気を取られていたとはいえ、ここまで気配を感じ取れなかった事に、ガトは驚愕した。

 あっという間に意識を持っていかれる感覚に引きずられ、自らを叱責するよりも、倒れるよりも前に――ガトは、意識を失った。

 突然の出来事に、アルコがオリカを庇うように前に出る。

 一瞬遅れて膝を折ったガトの脇を、後ろにいた黒装束の人間が支え、ゆっくりと地面に下ろした。

「誰だ、お前は」

 低い声でアルコが言えば、オリカが父のコートの裾を引っ張った。

「父さん、大丈夫よ。知り合いのお姉さんだから」

 そう言うと、女がフードをかぶったまま、赤く塗った唇を妖艶に持ち上げる。

「オリカ、もう明るくなるわ。戻りましょう」

「でも、ガトを殺しておかないと」

「それなんだけどね? 使い道があるんだって言ってたわ。回収に来るそうだから、このままにしておきましょう」

「わかりました」

 物騒な事柄を、オリカは仕方がないとばかりに軽く息を吐く。

 人の生き死にに関する事であるはずなのに、彼女達のあまりの軽さにアルコは混乱した。

「……オリカ」

 何の迷いもなく駆け寄っていくオリカに、アルコは掠れた声で呼び止める。

 聞こえないわけがない大きさの声だったが、オリカは振り返らず、フードをかぶり直した女に肩を抱かれて、路地に向かう。

 更に呼び止めるため、声を上げようとしたアルコへ、女は振り返った。

 息を呑み、上げた手をゆっくりと下ろしたアルコを見て、女は微笑んだ。

「お嬢さんが大切だと言うのなら、このままお店へ帰りなさいな。あなたが勝手に吊るした男の事で罪の意識があるのなら……そうね、勝手に出頭でもなんでもしたらいいわ。大丈夫よ、オリカは私達が面倒を見るから」

 女は、それきり振り返らず、オリカと共に闇に消えた。

 蒼白になったアルコは追いかける事も出来ず、立ち竦む。静まり返った中で、転がったまま動かないガトを呆然と眺め、少しして顔を歪ませると小さく息を吸い込んだ。

 口の中で、何事かを呟いたが、それは風の音に紛れた。

 踵を返し、アルコは出頭する事なく、うな垂れたまま足早に来た道を帰る。

 彼は、振り向かなかった。振り向けなかったといってもいいかもしれない。

 アルコが離れてすぐ、路地から男が現れ、周囲を窺うように見渡してからガトに駆け寄る。

 ベルトを外し、何かが刺されたガトの足の付け根近くを、きつく縛り上げた。首に指を当て、弱々しくはあるが脈を探り当てると、すぐさま担ぎ上げる。

 言葉はなく、成人男性一人を担いだまま走り始めた男は、路地に身体を滑りこませようとして――足に力を込めて、立ち止まり半歩引く。

 暗がりの中、鈍く光るナイフが鼻先を掠めていた。

 同時に、太ももの皮膚に何か尖った物が触れる感触がした時点で、男はガトから片手を離し、仕込みナイフを手元に出すと、躊躇なく自らの足すれすれを薙ぐ。

 ――手応えは、あった。

 だが足に激痛が走り、意識が根こそぎ闇に取り込まれる感覚は、知ったものだった。

 瞬時に、自らの足へナイフを刺す。

 毒を体外へと出すためだったが、その行動自体、ほんの一瞬の間を作る効果しかない。

 あっという間に意識を失う効果があると分かっている男は、崩れ落ちながらもガトを地面に転がす。

 刺した足は燃えるように熱く、身体を支えるようにナイフを壁に突き立てる。

 男は、左手首を押さえる黒装束をその眼に捉え――そこで、意識が途絶えた。



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