葛藤
罪人を捕らえておく牢は、満員だった。
子供達への聴取は、領主の館で行われる事になり、この場にはいない。
押し込まれているのは孤児院に勤めていた者達と、酔っ払って騒ぎを起こした者達。そして孤児院長への事情聴取の際、それとなくシーフェを釈放するよう誘導した、若いが有能だと言われていた警邏官だった。
シーフェに熱を上げ、数々の悪事を秘密裏に揉み消していた事が明るみに出た。
それに激怒したのは、グイズ警邏長だった。
その警邏官は、シーフェを好きにしていいだの賄賂だのをほのめかし、グイズに放免を願い出たが、彼は嫌悪を露にして許さず、恥を知れ! と叫び警棒で打ち据えた。
明け方に釈放されたのは、たった一人。ハボンだけだった。
まだ薄闇が残り、空気の冷たさに吐く息が白い。
仕事から手が離れたガトが、彼の隣に立ち、小さく笑う。
「あんたがかかわっていたんだな。まあこれで一つ、悪が消えてガキ共も助かった。ありがとな」
「……ああ、まあ」
ハボンの顔をしたまま、煮え切らない返事をするノーチェフに、ガトは寒さを耐えるように両腕を組んだ。
「相変わらずだな。こんだけ付き合いがあって、まだ俺様に慣れないのか」
「表についた者に、おれ達がかかわるわけにはいかないですし」
周囲に潜む者がいないか、それとなく警戒しながらノーチェフが返すと、ガトは小さく肩をすくめて見せる。
「まあいいさ。仕事上の特性もあるからな、何かあれば手を貸すから。いつでも言ってくれ」
人懐っこく笑うガトに、ノーチェフは苦笑した。
「そちらも相変わらず、人の話を聞いてませんね。手を貸すのは、我々の方ですよ」
失礼しますと、ノーチェフが話を打ち切り、振り向かずに歩を進めた。
ガトは声をかけるでもなく、その背中を見送っていると、白装束の女が一人、ノーチェフに駆け寄る。
「なんだよ、あいつ。修道女に手え出してんのかよ」
呆れたように独りごちて、ガトは二人の姿が見えなくなるまで見送った。
とりあえず中に戻り、夜番の男に外出を告げる。
少しばかり羨ましげに視線を返され、ガトはすぐ戻るからと黒いコートに袖を通すと外に出た。
一陣の風がガトの短髪を煽り、寒さに眼を細める。
「冬が近いな」
まだ誰も外には出てきていないが、それでも商売人が多い町だ。
すでに煙突が煙を吐き出している建物も見受けられる。
誰かに見張られている気配はない。
アルコの酒場がある、下り階段の手前で、ガトは足を止めた。
明け方に近いせいか、夜中一杯どんちゃん騒ぎしている店は、静かなものだった。
思案するように息を長く吐き出せば、白い靄に包まれる。
眼を閉じ、両手の指が寒さでかじかんでいないかを確認するように動かす。
「行くか」
紫の双眸に、冷酷な光が浮かぶ。もう一度、周囲の気配を探ってから、軽やかに階段を下りていった。
扉を開けると、残っている客は二人だった。そのどちらも酔いつぶれて寝ている近所の親父だ。
「おう。久し振りだな、ガト」
アルコが洗い物の手を休め、声をかけてくる。
カウンターに肘をかけると、寝ている彼らを見て苦笑した。
「前にも奥さんに怒鳴られたってのに、懲りないな」
「俺も奥さんに言われてるが、こっちとしても商売だ。まあ、少し酒を少なめにして割ってやってはいるんだがな」
この様だ。と、大きな肩をすくめて見せる。
ガトが軽く笑い、ヤギの乳酒を頼む。
アルコが大きめのカップに酒を注ぎ、ガトの前に置いてやる。
「アルコ、話があるんだが」
「なんだ。久し振りに顔を出したと思ったら、また女に振られたのか?」
「なんでそうなるんだよ! ……ああいや、否定は出来ねえけどよ」
呆れた声に唇をとがらせて、ガトはなみなみと注がれたカップに手をやり、指で縁を擦る。
ガトは白くとろりと揺れる液体に眼をやって、小さく息を吐いた。
「本当に振られたのか。何度も言うがな、もっと真摯に女と向き合ったらどうだ? 身体の相性の前に、する事あるだろう」
「違うって! そういうんじゃなくて……俺様は、結構本気だったんだけどなあ」
そう呟けば、アルコは何がそういうんじゃないんだと呻く。
「お前の本気は、他の奴より伝わりにくいんだよ。これだけ振られまくってんだ、さすがにその辺気付いてんだろ?」
「……まあな。なあ、オリカはもう帰ってこないのか?」
「なんだ、突然。またオリカに箒で頭を叩かれたいのか」
そう言ってアルコが笑えば、ガトは紫の瞳を彼に向けた。
「この際、素直になるさ。俺様がただ一人、本気で好きなのはオリカだけだ」
親父達のいびきが、静まり返った店内に響き渡る。
アルコは驚きを隠せない様子で絶句している。
少しして、ガトに何かを言おうとしたのか、口を開きかけ、しかし声もなく閉じると弱々しく頭を横に振った。
「……何の、冗談だ」
「そう言うと思った。冗談なんかじゃねえさ」
酒に上唇を浸し、カップを置く。呑むために来たわけではなかった。
父親から落として、どうこうなろうと思っていたわけでも、なかった。
「あのさ、いつもの作ってくれよ」
「あ? ああ」
食材は、もう片付けてしまったのだろう。アルコは手を拭きながら、奥に消える。
ガトは眼を閉じて、コートのポケットに手を突っ込んだ。中に入れてあったソルディ硬貨と硬質の物を、手の中で弄ぶ。
「……死ぬまで言うつもり、なかったんだけどよ」
金貸しとして裏の仕事に携わってから、本気で好きになった人間を巻き込まないように、誰にも悟られない態度をとっていた。
アネッロにだけは話していたが、オリカが離れた所に暮らす母親の元へ行った事を知った時は、さすがに落ち込んだものだった。
誰にも何も言わずオリカは去り、アルコから聞かされた。
彼女にとって、ガトの事などなんとも思っていない存在だったのだと痛感させられ、ガトはいろんな女に手を出しては、心ここにあらずな態度に振られてきた。
綺麗なものではないが、慣れ親しんだ空気を吸い込む。
「ああ、面倒だ」
「また、そんな事を言うからいかんのだ。オリカの事は忘れて、少しは我慢してその女に尽くしてやったらどうだ」
皿を片手に戻ってきたアルコがそう言えば、ガトはポケットから手を出して苦笑する。
「言ったろ? オリカ以外の女は、もういらねえんだよ」
「……オリカは、戻ってはこないぞ。婚約者もいる。こんな場末の酒場で一生を終わらせるよりかはましだろう」
「役人になるのが、遅かったか」
ふっきれたと思っていたのに、婚約者の存在を聞き、普通に笑ったつもりが力ないものになる。
アルコも気付いただろうが、何も言わなかった。
目の前に置かれた皿は、生の葉野菜と茹で卵を刻み、ベーコンを厚めに切って焼いた物を混ぜ合わせた簡単なサラダだった。
オリカが身体の事を考えて出してくれた野菜のみのサラダに、卵とベーコンを追加して特別に作ってもらったものだ。
ありがたく思いなさいよと、ガトの頭を小突きながら作り直してくれた彼女の笑顔に、簡単に心がやられた。本当に些細な出来事だった。
シェーンが襲われた時、アネッロに現時点で行方の分からなくなった住民を調べるよう指示され、近くいなくなった者から調べていた。
それよりもはるか以前に町を去ったオリカは、後回しだった。
だが、調べなかったわけではない。別の町で暮らす母親と笑い合って暮らす彼女を確認し、周囲にも彼女の近況をそれとなく探ったが、何も出てはこなかった。
その時は、声をかける事なく帰ってきた。
しかし、状況が変わってしまった。
立ったまま、サラダをかきこむようにして食べる。
「お前さんに合うような女が、その内見つかる」
「だろうな」
今度は快活に笑って見せた。
ガトがポケットに手を入れ、中身を無造作にカウンターへ置く。
「金はここに置いてくぞ」
アルコが眼をやり、硬貨の少なさに呆れて声を出す。
「ガト、曲がりなりにも捜査官なんてもんになったんだ。ちゃんと払ってくれ」
「ああ、ツケで頼む。次の給金の時に払うからさ」
「……まったく」
カウンターに手を伸ばしたアルコが、硬貨に混ざっていた銀色の指輪を目にした。
立ち去りかけていたガトを呼び止めるが、それを手にしたアルコが眼を瞠る。
「なんだよ……ああ、それ! 実は拾った物なんだけどさ、今度磨いて貰って、今の女にプレゼントしようかと思って」
アルコに向かい、手の平を差し出す。
それを見た彼は呆然としたまま、指輪を握りしめていた。
「おい、アルコ?」
怪訝な顔で、差し出した手を催促するように振ってやると、彼はゆっくりとその手に指輪を乗せた。




