生き延びる為に
背後で安堵したように、深く息を吐く少女のはっきりとした息遣いを聞き、アネッロは足を止めた。
振り向けば、椅子に座ったまま足をばたつかせていたカリダが、瞬間的に両足を揃え、背筋を伸ばした。実に基本に忠実な座り方だった。
「カリダ」
「はい」
顔を引きつらせる彼女には特に何も言わず、アネッロは右手をあごにあてる。
不躾に頭から足先まで眺めてやれば、カリダは唇をとがらせた。
「その見方は、無作法だってモネータ、お、兄様に言われ……ました」
「改めて見ても、男女どちらにでも見えますね」
言い難そうに顔を歪めながら言うカリダに何かを返すでもなく、アネッロは少女の容姿を確かめるように眼を細めた。
ろくに物を食べる事が出来ていなかったため、十四にしては背も低く、女らしい柔らかさは皆無だった。
裸にしたら多少の膨らみくらいはあるだろうが、膝丈のズボンに、色気のないシャツを着ていれば少年と言われても仕方がない。
しばらく思案するように眺めていると、居心地の悪そうに身じろぎ、意味が分からないとでも言いたげに眉間にしわを寄せる。
文句の一つでもと口を開いた少女は、そのまま閉じて膨れっ面をした。
あきらかに言葉を発すれば、自分に不利であるという事くらいは、分かっているようだ。
「カリダ。町の者達に、お前が金貸しの仲間になったと触れ回りましたね」
「……? はい」
真意を探ろうとでもするかのように、カリダは少しあごを引き、眼だけでアネッロを見る。
何でもない事のように、アネッロは笑顔でうなずいて見せた。
「少なからずですが、自分の身を守る術を身につけてもらいますよ」
反抗的な悲鳴でも上げたかったのだろうカリダの口が大きく開いて、はたと気付いた彼女は、不服そうにゆっくりと口を閉じた。
アネッロも、もう一度うなずいてやる。
「そうやって、あからさまに大口を開ける淑女がどこにいますか。今後、気をつけるように」
「……はい」
口を一文字に結び、何かに耐える表情を見せた少女に、アネッロは言葉を続ける。
「いいですか? これは大切な事です。お前が小さい者ゆえに、我々から借金した者が自分の立場を有利に働かせようと、暴力に及ぶ輩がいないとも限りません」
真剣な話だった。モネータが外に出た時は、その体格と目立つ見目に手出ししてくる人間は少なかった。
だが、ゼロではなかった。
自分から金を借りておきながら期限内に返せない者が、痩せっぽちのカリダに、腹いせという名の危害を加える可能性は高い。
それに、黒ずくめなどの問題もある。
外に出る時は、常にモネータかアネッロがいる状況ではあるが、細い路地は至る所に伸びているため、一瞬でも眼を離した隙を狙われ引きずり込まれれば、探し出す事は簡単ではない。
もちろん網のどこかに引っかかるだろうが、楽観はしない。
最警戒させていたわけではないが、優秀であると認めている部下達がどれだけ裏で動いても、爆破犯の欠片すら見えてはこない。
アネッロは怪訝な顔で見上げてくる少女の瞳を、まっすぐ見下ろした。
「カリダ、お前はナイフを持っていましたね。それで人を傷つけた事はありますか?」
「……ありません」
ないです。と答えれば、肉体強化を言いつけようと思っていたが、モネータに十分言い含められているのだろう。
うまく返したカリダは、心臓に悪いとでもいうように手を胸にあて、息を吸い込み吐き出した。
「脅した事は?」
「あります、何度か。とりあえず当てるつもりで振り回して、逃げ……ました」
「そうですか。では、狙われた時の対処方法をいくつか教えておきます」
「それは、生き残るため……ですか?」
カリダの眼の色が変わり、真剣みが増す。
アネッロは、感心した。
孤児として過酷な世界を少なからず生きていたカリダだからこそ、生き延びるための知恵には強い反応を示すのだろう。
「誰よりも長く生き残るための術です。我慢や自分を騙す事も必要になりますが」
「やる!」
眼を輝かせたカリダに、アネッロが微笑してうなずいた。
「走ってきなさい」
「は……い?」
何を言われたのか分からなかったのだろう。
だが、自分が何を言ったのかを思い返したのか、すぐに輝かしかった表情から、徐々にその光が消えていく。
「き、汚いぞ! だましやがったな!」
「騙してなどいませんよ。お前が勝手に言葉遣いを失敗しただけでしょう。ちなみに、今のでカウントが増えましたね」
なんでもない事のように言うアネッロに、カリダは奥歯をギリと鳴らし、卵を二つ差し出した。
怒りに任せて言葉を口にするのは、不利でしかないのは理解しているのだろう。
アネッロがそれを受け取れば、少女は反抗するでもなく肩を怒らせて中庭へと消えた。
さぼっていないか、アネッロの身長であれば椅子に乗らずとも細い窓から見る事が出来る。
狭い中庭を俊敏に駆け出したカリダを見やりながら、アネッロは卵をカゴに戻し、腕を組んだ。
「……酷い目には、遭うだろう」
極力、唇を動かさずに独り言ちた。
攫われた場合、その敵への対処方法という形にはなるが、最初から暴行目的であれば、カリダの小柄な肉体では抵抗すら出来ず、道端に転がる事になるだろう。
躊躇なく人間相手に暴力を振るえる人間は、思いのほかそこら中にいる。
単独では出来ない事も、徒党を組めば自分の中にある理性というネジが弛み、普段では出来ない酷い事も平気でやる。
厳しい訓練を受けた者とは違い、どこまでやれば人が死ぬのか分からずに手を出す。
多勢の中、酷い事をしているのは自分だけではないと考え、相手を死に至らしめても罪悪感が薄いのだろう。
やっている事は、多少かかわらず重罪で、薄れる事のない許されない行為だと、後で悔いても遅い。
深く考えず、簡単に理性を手放す人間が少なからずいる事を思えば、カリダは自分で生き抜く力を身につけなければならない。
『悪さをする』という理由で攫った場合、その人間の質で、生死は決まる。
悪意を持って他人に手を出した時点で底辺の人間に違いないが、悪い質の中でもランクがある、とアネッロは考えている。
そこまで考えた所で、カリダが右回りから左回りに切り替えた。
彼女を、外に出さない事が一番良いのであろう事は、分かっている。
だが、生涯外に出ないなどあり得ない。
ならば、少しでも脅威に対抗する術を教えるのは、保護者となった者の責任だと思っていた。
「躊躇なく敵の眼を潰せるようになるには、どれくらいかかるのか」
アネッロが真剣に呟くが、それを止める者はこの場にいなかった。
自分であればいくらでも対抗出来るのだが、腕力の弱い女子が多勢に抵抗するには、怯えているふりをしながら冷静に隙を見つけるしかないだろう。
過剰防衛だろうが死ぬよりマシだ。一矢報いる気持ちで、敵の内の一人を潰せば、一瞬ではあるが大きな隙が出来る。
それが裏の人間であれば、カリダのような者であれば何も出来ないだろう。
だが、町で大きな顔をしている玄人に関しては、アネッロの側で全てを把握している。
下手に動けば――いや、うまく行動しようともその動きは逐次分かるようにしていた。
敵が素人であれば、小さな少女でもなんとかなる場合もある。
異常な空間で、自分達が支配していると勘違いした輩に、明らかなる手酷い一撃を加える事は有効だ。
そこまで考えて、アネッロは眼を細めた。
脳裏によぎるのは、愛していた女の笑顔。
耳まで赤くして恥ずかしそうに見上げてくる潤んだ瞳。
助けられなかった。唯一、何を捨てても守りたかった女。
無論、彼女にも気をつけるようには言っていた。
だが、物理的にどうこうしろという事は言わなかった。
彼女には手を汚してほしくないと、誰かしらが見守っているからと、どこかで甘い考えがあった事は否めない。
近くにあった椅子の背を、軋むほど握りしめる。
眉間にしわを寄せ、眼を閉じる。壁に椅子を投げつける衝動を抑え込んだ。
「弱さなど、いらん」
自分に言い聞かせるように、言葉に乗せる。
眼を開くと同時に、どす黒い感情を奥底へと沈めた。
少女が握っていた卵が眼に入る。アネッロはベーコンを取り出し、少量を刻むと、フライパンでベーコンを軽く炒める。
ボールにタマゴを二個を割り入れると、そこに炒めたベーコンを入れる。
腹が減っていたわけではなかった。
時間が余って仕方ないという事も半分あったが、気を静めるためには何も考えない時間が必要だった。
適当にかき混ぜ、塩こしょうを振り、フライパンに流し入れる。
カリダが腹筋を始めた頃には、オムレツが完成した。
皿に乗せた所で、路地に繋がる扉にコツリと何かがぶつけられる音がする。
「何か御用はありますか?」
その声にカゴをかぶせてから、ゆっくりと近づき、扉越しに断りを入れると、彼は明るい口調で「またよろしく」と言い、足音が軽やかに遠ざかっていった。
振り返り、窓の外を見れば、カリダが地面の上で腹を抱えてうずくまっている。
トレーニングが嫌でも、モネータに張り合う気持ちがくすぶっている以上、限界を超えてもカリダは最後までやり遂げようとしていた。
ただ、元々筋肉がない彼女は、すぐに限界はくる。そしてうずくまる。を繰り返している。
トレーニングは嫌だが、発生すれば真剣に行うつもりなのだろう。
だが、普段は極力喋らない。動かない。を対策にしているようだった。
「まだまだですね」
アネッロは苦笑して、背筋を手伝うべく中庭へと足を向けた。