培ってきたもの
水で頭を濡らし、短い髪をかき回すように布で拭きながら、カリダが風呂場から出てくる。
淑女たる者! と叫びかけたモネータに向けて、先に手の平を向けて止めた。
「急ぐんだろ? 今回は仕方ないじゃないか」
黙りこみ、こちらを見ないようにする彼に笑いを噛み殺し、カリダは限界まで髪の水分を布で拭う。
彼が洗い物や掃除を終わらせる間、カリダはストーブに頭を近づけて出来る限り乾かしていた。
しっかりと乾いてはいないが、アネッロの前に立つ頃には、とりあえず見られる格好に落ち着いていた。
「カリダ、外の仕事の補助をしてもらう事にします」
一瞬、顔を輝かせたカリダだが、その表情がすぐに陰りを見せた事を、アネッロは見逃さなかった。
「そこで、盗みを働いた店や人間は覚えていますか?」
細い身体を小さく震わせて、カリダは顔を歪ませる。
アネッロが何を言いたいのか、分かってはいた。重い口を開けたカリダは、吐き出す息も震えているようだった。
「店は、大体。でも通りすがりに盗った奴は覚えてない」
さほど広くない事務所で、やっと聞こえるくらいの小さな声で答える彼女に、アネッロがうなずく。
「そうですか」
そう言って立ち上がれば、カリダは居心地が悪そうに背を丸め、アネッロの動きを瞳だけで追う。
頑丈そうな革の鞄を手にし、モネータと二人、扉から出て行くのをカリダは動く事が出来ずに見送ると、アネッロは扉の向こうから彼女を見据えた。
「ついてきなさい」
「……でも」
「してきた事を、なかった事には出来ない。それを自分に刻み込むためにも、ついてきなさい」
カリダは、鉛のように重い足をゆっくりと前に押し出す。
大扉の外は、明るい光と行き交う人々のざわめきに溢れていた。
市の立つ日ではないからか、町に建ち並ぶ店へと人は流れている。
その楽しげな声を聞きながら、カリダは気持ちをさらに暗くさせた。
アネッロが先を行き、カリダは彼らに挟まれた状態で進む。
「……また、殴られに行くのか」
アネッロに盗みを働いた店を教えると、少女は小さい声で呟いた。
「自業自得ですよ」
「わかってるよ。だから、嫌でも大人しくついてきてるんだろ」
モネータは、眉間にしわを寄せながら、二人の会話を黙って聞いていた。
少しだけ振り返ったアネッロが、口の端を持ち上げる。
「モネータ、言いたい事がありそうですね」
「私は……他人を害する者は、粛清されるべきだと思っていました」
「お前が、盗人を庇うのですか」
楽しげにそう声をかけてやると、モネータは眉間にしわを寄せて呻く。
「いえ、今でもそれは変わりません。ですが……」
うさんくさそうに見上げてくるカリダを見下ろしながら、口をつぐんだモネータに、少女は苦笑した。
「あのさ、ボスも言ったろ? 自業自得なんだって。いつもみたいに、悪い事をしたのだから私兵に出して当然でしょう! って息巻いてろよ。気持ち悪い」
「……私は!」
言い募ろうとした彼に、カリダが足を止めて半身振り返った。
その眼は、うっとうしいとモネータに告げている。
「なんだよ」
「……カリダは、生きるためだと言ったではないですか」
「生きるため? 当然だ。だけどな、店の奴らだって生きるために働いてんだろ。おれたちはな、それが良くない事だってわかっててやってる。悪い事してる奴ってな、わかってて自分を正当化するもんだ」
モネータは小さな少女に、圧倒されていた。
その反面、カリダが自分に言い聞かせているようにも感じていた。
「兄ちゃんさ、悪い事は悪いって言い張るの、やめるなよ」
「どうしてですか」
もちろんやめる事はないだろうが、複雑な心境で眉をひそめると、カリダはにやりと笑う。
「そんなもん、面白いからに決まってんだろ」
その言葉に、アネッロも眼を細めて微笑した。
「話は終わりましたね」
「……はい」
やはり腑に落ちないのかモネータは唇を固く結び、しかし小さくうなずいた。
カリダがアネッロの方へと向き直る時、身なりの良い男にぶつかり、よろめく。
「いってえな!」
アネッロに支えられてカリダは地面に転がる事を免れたが、思わず声を上げれば、真上にある眼鏡越しの静かな視線に気付き、少女は肩をすくめた。
「失礼……」
ぶつかった男は条件反射のように謝罪を口にしかけ、カリダに眼を落とすや、汚いものを見る表情に変わる。
汚れてなどいない服を何度か叩いて見せ、男は嫌悪に満ちた顔をした。
機嫌悪く足早に立ち去ろうとしてモネータに肩をつかまれる。
「少し、よろしいですか」
たくましい身体をしたモネータの青い瞳に射抜かれて、男は少したじろいだが、すぐに背筋を伸ばしてにらみつけた。
モネータの手を邪険に振り払うと、また触られた肩を払う仕草をする。
「まったく、気安く触れてくるとは。礼儀がなっていない者はこれだから」
「何を!」
食ってかかろうとするモネータの腕を、カリダがつかむ。
仕方ないなとでも言いたげに嘆息し、つかんでいる手とは逆の手で何かを振って見せた。
「あのさ、あんたの金入れが落ちたんだよ。それをこの兄ちゃんが教えようとしたわけ」
「……盗んだのではないのか?」
そう言って、カリダの手から金入れを奪い取る。
「そんな事するかよ。なんせ金貸しの子供なんで、金に困ってないんだ」
親指を立て、背後にいるアネッロを自分の肩越しに指し示す。
笑顔を張り付けた男を横目で見てから、中身を確認し、男は仕立ての良い上着の襟を正すと鼻を鳴らして立ち去った。
唖然とそれを見送り、気付いたようにモネータはカリダを見た。
少女は悪い顔で笑い、両手を頭の後ろで組んで、アネッロの方へと踵を返す。
「まったく、兄ちゃんを助けるために損しちまったぜ」
「損……とか! カリダ!」
「ああもう、うるさい! ちゃんと返したんだから、いいじゃんか!」
「そういう問題ではないでしょう!」
アネッロは二人に構わず、先へと歩き出す。
カリダもそれに倣い、小走りに右斜め後ろをついていくが、モネータは一呼吸で彼女の右隣に並んだ。
面倒くさそうに、カリダが唇をとがらせた。
「しょうがないじゃん。考えなくても手が出ちゃったんだから」
カリダは逃げるように、アネッロの左側に回った。
モネータが一歩さがれば、カリダはアネッロよりも前に出る。
モネータの動向を、アネッロ越しに警戒するカリダの頭を、盾にされているアネッロがわしづかんだ。
「大人しく歩けないのか」
「いた! 痛い! なんでおれだけなんだよ!」
「言葉遣い」
アネッロが指に力を込めれば、少女は悲鳴を上げる。
神妙な顔でアネッロに並ぶモネータにも、冷めた眼を向ければ、彼はさらに表情を硬くして謝罪した。
「これは無意識に手癖が悪い。眼を離さないように」
「はい」
真剣な顔でうなずくモネータに、アネッロの指から解放されたカリダは自分の頭をさすりながら、これって言うなと口の中で呟いた。
アネッロが先を歩き、カリダはその後ろをぶつぶつと文句を言いながらついていく。
そして、その後ろでモネータが油断なく眼を光らせる。
「……なんか、すごい歩きづらいんだけど」
「自業自得でしょう」
さきほどアネッロが言った言葉を、今度はモネータが口にして。
小声で始まった背後での言い合いに振り返る事なく、アネッロは静かに口の端を持ち上げた。