落ちていく砂
ポットに水を入れ、火にかけたモネータの動きを、カリダは鍋の前に立ちながら眼で追う。
彼に見惚れていたわけではない。
ちょっとした仕草や歩き方に、少しだけだが違和感があった。
「……なあ。兄ちゃんはさ、どこの人なわけ?」
突然兄呼ばわりされ、驚いた顔で振り向いたモネータは、少しばかり顔を赤くして少女から眼を逸らす。
「突然ですね」
「だってさ、普通の人じゃないだろ?」
その言葉に、モネータはもう一度カリダに視線を投げかけ、穏やかに微笑した。
「私は、普通の男ですよ」
巷で評判の美貌を、絶妙のタイミングでフル活用され、カリダは小さく身じろぎ舌打ちをした。
その態度に、モネータは眉をひそめる。
「カリダ」
「わかってるよ! 淑女たる者、舌打ちをしないってんだろ?」
「……言葉遣い」
眼を細めた彼に、もう一度舌打ちしかけたカリダだったが、なんとか思いとどまる。
ただ、細い肩をすくめて見せた。
「別に、兄ちゃんの素性を探ろうってわけじゃない。ないけど、なんかさ。外で暮らしてる時に見た、貴族連中の歩き方とか、あんたらの言う仕草っていうの? それに似てる気がしたんだよね」
「そうですか? それならば、アネッロ様に叩き込まれた甲斐がありましたね」
柔らかく微笑したモネータは、満足気にも見えた。
彼は、アネッロに忠実だ。だからこその表情だろうし、言っている事になんら間違いはない。聞かれた事にも、きちんと答えてくれたはずなのに、カリダは拭いきれない違和感に唇を歪めた。
「あのさ、すげえ感じ悪いんだけど」
「何がですか?」
「なにがって……」
言い募ろうとして、カリダは一瞬口ごもる。
モネータの顔を眺め、少しして息を吐き出した。
「まあいいや。お前、笑うな」
「は?」
カリダの言葉に、モネータは眼を瞬かせる。
「だから、別に面白くもない話してんのに、笑ってんじゃねえよ。それと、ずっと聞きたかったんだけど、なんでおれ……ワタシに良い言葉遣いするわけ?」
「私達がきちんとした言葉を使えば、あなたにも刷り込まれていくだろうという、アネッロ様のお考えです」
「アネッロ様のお考えですって、兄ちゃんそればっかだな」
「当たり前です」
「なんで?」
「彼は、私の恩人ですから」
真面目な顔で言われたカリダは、彼の言葉に多少の違和感はあるものの、それ以上問い詰める事をやめた。
モネータが誰であるのか、興味がなかったとは言わないが、この調子では語る事はないだろう。
それに、カリダが誰であるのかを尋ねられても、親の顔すら覚えていない。
会話の取っ掛かりで、ない腹を探られても、苛立つだけだ。
「へえ」
「……それだけ、ですか」
「うん。なんか、どうでも良くなった」
そう言って、カリダは半分以上落ちた砂を見つめる。
そんな彼女に、口を開きかけたモネータだったが、何も言わずポットに眼を向けた。
*
ジュダス商会の事務机で、アネッロは手紙を広げていた。
扉が一回ノックされ、顔を上げた。
「どなたですかな」
「領主の犬になった俺様だ」
「開いている」
手紙を引き出しにしまうと同時に、猫目の男ガトが音もなく滑り込んできた。
アンシャとアルトとは、別行動なのだろう。
楽しげに紫色の瞳をアネッロに向け、にやりと笑う。
「少女を連れ込んだんだろ? 誰だよ、俺様が知ってる奴か?」
「そんな事のために、こんな所へ? 爆発の犯人も見つかっていないというのに、怠慢甚だしいですな」
「まあそう言うなって。ほらよ、お返事だ」
そう言って差し出された封筒には、宛名も差出人の名もない。
爆発現場で、彼に押し付けた手紙の返事を持ってきたのだろう。
受け取り、反対側へと返して見れば、赤茶色の封蝋に片翼の獅子が押されていた。
「ご苦労でしたね」
「……なんか、焦げ臭いんだけど。ひょっとしてあの金髪、今になってもまだやらかしてるのか?」
「いや、連れ込んだ少女の方だ」
そう言ってやると、ガトは天井を仰ぎ見て、鎮痛の面持ちで目頭を押さえた。
過去の出来事を思い出しているのだろう。
だが、すぐにくつくつと肩を震わせて笑い始める。
「いや、そうか。今になって、俺様の苦労をあんたが味わっているわけか」
眼から手を外し、腹を押さえる方へと変えたガトに、アネッロは片方の眉を持ち上げた。
「この程度、苦労などとは言いませんよ」
「知ってるけど。ああでも、あの金髪を強奪してくるのは一苦労だったな」
思い出すように眼を細めて、窓の外を見る。
彼の視線の先に見えているものが、外の景色ではないだろう事は窺い知れるが、アネッロは手紙を机に叩きつける。
その小さな音に、ガトは意識が現実へと引き戻されたのか、短髪を無造作に掻いて苦笑した。
「俺様の初大仕事か、懐かしいな」
「非常に簡単な任務ではあったな」
アネッロが封を切りながら言えば、彼は眼を見開き、両手で机を叩いた。
「確かに、金髪と適当な死体を入れ替える。中身としては簡単だったけど! ふざけるなよ。死臭ってな、長い事取れねえんだぞ」
思い出したのだろう。机から手を離し、ガトは顔を歪めて小さく呻く。
アネッロは平然とした顔で、腕を組む。
「それがなんだ。みたいな顔、やめろよ」
「伝わったのであれば、問題はないようだな」
「あるに決まって……! まあ、過去の事だからな」
「そうだ。こだわるな」
お前が言うな。と言いたげな顔をしたガトだったが、声に出しては言わない。
だが、目の前の暗い瞳の男が口の端を持ち上げた事で、心の中で思った言葉すら伝わっている気がして、ガトは嘆息した。
「ああ、はいはい。ちなみに爆発事件の伸展としては、女が絡んでる可能性くらいですかね。おっさんの件については、この店の関与はないと判断された。とりあえず、だけどな」
「そうか」
「グイズ一人だけが、鼻息荒く疑ってるけどな。なんであいつが警邏長やってんだろな」
気に入らないという表情をなだめるように、ガトは自分の顔を一撫でする。
手紙に視線を落としながら、アネッロは口を開いた。
「あれは、執念の男だからな」
「良くも悪くもな。変わんねえよな、どいつもこいつも」
「それぞれが積み重ねてきた経験の中で、その時を生きるしかない。グイズは上昇志向が強いが、事件をなかった事にはしない。犯人を捕まえる意欲が、空回ってはいるがな」
確かにとガトが笑い、また窓の外を見た。
今度は今ある風景が、そのまま紫の瞳に映る。
「こう焦げ臭いと、これから生きていくって感じがするな」
アネッロが彼の横顔に目をやり、ふと表情を緩めた。
「お前も、歳を取ったな」
その一言に、ガトが尋常ではない速度でアネッロを見る。
驚愕に歪んだ表情で、またしても事務机を叩く事になった。
「まだ、若い! っていうか、その分あんたも歳を取ってるんだからな!」
「ああ、そう繋がるのか。迂闊だった」
「……やめろ。あんたが迂闊とか言い出すと、ろくな事がねえ」
すぐに机から手を離し、数歩後ずさる。
それだけでは足りないと思ったのか、素早く扉までさがると、片手を上げた。
「また来るわ」
「カリダだ」
「はあ?」
何を言われたのか分からなかったのだろう。ガトは口をあんぐりと開けて、アネッロを見る。
だが、相変わらずアネッロの眼はガトを見ていない。
「連れ込んだ少女の名だ。そろそろ外の仕事を覚えさせる」
話を聞きながら、ガトが大きく開けた口をゆっくりと閉じる。
瞬時に頭をめぐらせて、アネッロが言った言葉の裏を考え、苦笑した。
「はいはい、了解! 結局また仕事が増えるんだよな」
ガトは来た時と同様、音を立てずにその場を後にした。