領主ライアンの憂い
書斎へと移動し、ライアンは机の上に一枚だけ乗せてあった紙を、アネッロに差し出す。
養子を認める書類だった。
素早く眼を通し、アネッロは丁寧に折りたたんで、ロングベストの内ポケットへしまう。
「これだけの為に移動したわけではないだろう」
その言葉に、ライアンは小さく肩を持ち上げて見せた。
「分かっている、三日後だ。本格的に冬が到来する前に商隊が山を越える」
市をたたみ、客がまばらになった頃合を見計らって、道の整備を始めるとライアンは暗に言っていた。
アネッロが片方の眉を持ち上げて見せる。
「やっとか」
「これでも苦心の末だ。もっと喜べ」
「決済の書類は?」
そう言ってライアンに向け右手を差し出すと、彼は赤い瞳をくるりと回し、アネッロから眼を逸らした。
「領主の言葉だぞ? 信用がないな」
「信用? そんな簡単な言葉で済ませる話じゃない、どれだけ待っていたと思うんだ」
「それはそうだが」
ライアンは、引き出しを開けると紙の束を机に置く。
「これはそれの一部だがな、どうせ金をかけるのであれば、納得のいくものにしたい」
アネッロが手に取り、パラパラと指で弾くようにして眺める。
ものの数秒で彼が机に戻したのを見計らって、ライアンは楽しげに口を開きながら、羽ペンと羊皮紙を取り出し、インク壺の蓋を開けた。
「どうだ、レンガの色合いからこだわってみたのだが」
アネッロはしばらく眼を伏せていたが、少ししてゆっくりと視線を上げる。
「たしかに、白壁に映えるレンガの模様は思い描けるが……一八枚目、二七枚目と三二枚目に説明文と図形の不備があった。ライアン、誰に頼んで書類を書かせた」
簡単に眺めただけに見えたアネッロの行動だが、的確な意見に驚きもしなかった。
ライアンは準備万端用意していた羽ペンで、適当な紙に言われた内容を書き留める。
「他には?」
「……お前、その為に私を呼んだのか」
呻くように声を出したアネッロに、ライアンは何を今更といった調子でうなずいた。
「違和感を見つけるのは、君の専売特許だろう? 誰かに頼んだとしても見落としがある可能性が出てくるが、君ならば違和感は見落とさない」
「時間もかからないしな」
「それが一番だ。仕事に時間などかけたくないからな」
アネッロは、ただ軽く息を吐いた。
この友人は、使えるモノならばどんな物でさえ使う事など、昔から分かっていた。
分かってはいたが、相手の忙しさなどお構いなしに押し付けてくる事には、慣れたとはいえ不穏な感情が浮かんでは消える。
そしてその行動は、ある男を彷彿とさせた。
「さすが、親子だと思わざるを得ないな」
「物心ついた時にはすでに親で、それをずっと見て育てばこうなるさ」
「生まれた時から刷り込まれてるんだよ、お前は」
そう言ってやると、ライアンは悪びれる様子もなく楽しげに声を上げて笑った。
肩透かしを食らった気持ちで、アネッロが話を変える。
「その張本人の、ラクルスィ様は? 遠出したと聞いたが」
「私もラクルスィだが? おい、そんな顔をするな。冗談だ」
あからさまに顔を歪めたアネッロに、ライアンはおどけた調子で肩をすくめ、嘆息した。
「君も多少は知っているようだが、あの人は海に出ると言ってな。共の者を連れて外出された」
「ライアンが一通りの仕事を覚えた時点で、当主の座を完全に譲ったというわけか」
ライアンはもう一度、今度はそれと分かるように鼻から息を大きく吸って、去来する何かを外に出そうとするように長く息を吐き出した。
「私が家督を継ぐと言って以来、嬉々として全ての執務を押し付けてきたよ。なんでも『私はこれから悠々自適に生きるのだ。有象無象の者共への対処は、全てお前に一任する』と言ってな、貴族連中のいざこざも全て押し付けていった」
「あの方らしいな」
アネッロが苦笑すると、ライアンはその時の状況を思い出したのか、眉間に寄ったしわを伸ばすように指を当てた。
「だから、困るのだ。貴族会議などで、誰が聞いても正しいと思う事を、そのまま本人にぶつけてみろ。当然間違ってなどいないが、不穏な空気になるに決まっているだろう。人間なのだから、せめて言い方には気をつけるべきだ」
若いライアンが会議に行く事になり、散々な目に遭ったと、普段ほとんど言わない愚痴をこぼした事があった。
よっぽど立ち回りに苦労したのだと、その時の顔色の悪さで判断した事をアネッロは思い出す。
ライアンは、疲れたように頭を横に振り、鼻で笑った。
「それを国王陛下は、面白がっていた節があらせられる。率直で歪みのない意見を、自分の利益を省みず発言出来る父を、気に入っていた風にも伺えるのだ」
「……それは前にも聞いたが、お前が苦労するという事は分かる」
「まあ、確かに追い詰めてしかるべきな奴も中にはいるのだがな。時代が変わり、人が変わればそうもいくまい。だからと言って、若造と侮られても困るからな」
苦々しく言うと、ライアンは眉間から指を外した。
静かな一室に、ライアンの苛立ちが反映しているような空気が生まれたが、アネッロはその空気を振り払うように息を吐く。
「お前が侮られる事などあるのか?」
「当たり前だ。あの中では、私はとても若い。貴族というものは、人のようで人ではない者が多過ぎる。自らの懐に入ってくる金が重要で、真に民の事を考えている者など一握りではないかと疑うよ」
「否定はしませんがね」
領外の貴族とも取引のあるアネッロには、身に染みるほど分かっていた。
正しい道を進む事の難しさは、酷く精神力を蝕まれるのだろう。
「王都よりも、領内に引きこもっていた方が、どれだけ充実した仕事が出来るか。そこから離れるわけにはいかず、しかし英断を下される陛下は本当にお強い方なのだと痛感するよ」
もう一度、頭を振って。ライアンは弱々しく笑う。
そして、返答をしないアネッロに眼をやって、しばし無言になる。
何か、話しかけられる雰囲気を察した所で、アネッロは眼を細めた。
「我が家の再興を望んだとしても、すでにそれは出来ない所にまで来ている事は分かっているな?」
「……先を読むな。分かってはいるさ。君にその任務を押し付けたのは、誰でもない私なのだ。だが、ふとした時にそれを考えたとしても仕方あるまい」
「お前を支えている者が不安になるような弱音を、けっして口にしない事だ」
子供扱いされたと思ったのだろう、ライアンはさすがに表情を改めた。
「当たり前だ! 誰にでも出来る話であるはずがない。私と君が双璧となって、あの会議に乗り込む事を考えると、笑いが止まらないだけだ」
口の端を持ち上げた彼は、明らかに狡猾な表情をしていた。
「私ならばどうするかなど、ライアンなら思いつくだろう。だったら私がその場にいる必要性はない」
「まあ、そうなんだけどな」
遠い目をして、短く息を吐き出した彼を見て、アネッロは仕方のない弟を見る眼で笑う。
ライアンは、今までの会話をなかった事にするかのように、右手で空気をかき回す。
「すっきりした。そろそろ朝食の準備が出来る頃だ。食っていくだろう?」
「それはとても嬉しいご相談ではありますが、食事の準備は小間使いに申し付けてしまっておりますので」
「……ああ、新しい養女か。どんな娘か見てみたいから、連れてきたら良かっただろう」
途端に眼を輝かせて言うライアンに、右手の平を彼に向け沈痛な面持ちでわざとらしく眼を伏せる。
「いえ、あれはまだ獣ですので」
「それはそれで面白そうだが……まあ君が言うなら、尋常ではないのだろうな」
「尋常ではないのですよ。女と思ったら、咬みつかれかねない獰猛さがあります」
アネッロが真剣に言えば言うほど、ライアンは楽しげに笑った。