馬車の終着地
表情を変えるでもなく、アネッロは彼から眼を外した。
「こんな所で、こんな事をされていて。問題はないのですか?」
御者の男は、さてと呟いて、また笑った。
鍛えられた馬は、坂道を物ともせず駆け上がっていく。
馬車を領主の館の門前で止めると、門兵が御者とアネッロを微妙な顔つきで確認をし、門を開けた。
手綱を振るうと、馬はゆっくりと歩を進める。
館にある正面入り口を素通りし、よく手入れされた庭園を過ぎ、木々に囲まれるようにひっそりと建つ倉庫の前で止まった。
御者の男が、手綱を肘掛けにかけると古びた帽子を取り、白と黒の混ざった髪を整えるようにかきあげる。
その表情は、先程までの柔和な男のそれではなかった。
常に規律を重んじる、凛とした姿勢に変わり、にやりと笑う。
「アネッロ様、問題などあるはずがございません。監視の眼がない事で手を抜けば、私の戻るだろう時間に慌てて溜まった仕事を片付ける事になります。そうなれば、どうしても綻びが出るでしょう? そこをつついて回るのも、面白いものですよ」
「……やはり、ライアンの性格はあなたに似たようですね。リュアトさん」
「恐れ多くございます。ライアン様は、生まれつき持ち合わせておられる気性でございましょう。私など、足元にも及びません」
アネッロは、沈黙した。
これ以上何か言えば、多大なるしっぺ返しがきそうだと予感出来たからだ。
いくつもの言葉が瞬時に頭に浮かんだが、結局アネッロが選んだのは、当たり障りのないものだった。
「お手数をおかけしました」
「いえ。こちらこそアネッロ様とお話が出来て嬉しゅうございました」
「私と?」
少しばかり、怪訝な顔をして見せたアネッロに、リュアトと呼ばれた御者――侍従長は微笑を浮かべる。
倉庫番の者が出てきてリュアトの姿を見て眼を丸くするが、彼は意に介さず、中の荷を運ぶよう指示を与えた。
倉庫番が扉を開け、モネータから物品の入った袋を渡される。モネータも一袋を抱え、男の後について倉庫に消えた。
それをお互い横目で眺め、彼らの姿が見えなくなった事を確認して、リュアトが懐かしむように口を開く。
「幼少の頃はそれなりにお世話を致しましたが。アネッロ様が騎士になられた後、主の傍に控えている者と致しましては、親しくお声をかけるなど難しいものですから」
「金貸しまで落ちた私ならば、いつでも話を伺う事は出来ますよ」
「ご冗談を。この一度でさえ、貴重なものでございます」
アネッロに意味ありげな視線を向けながら、リュアトは小さくうなずいた。
金貸しをするに至った状況を口にする事はないが、彼は知っているのだろう。
アネッロは、小さく肩をすくめて見せた。
倉庫に袋を置いたモネータが、また馬車に乗り込んだのを確認すると、リュアトは手綱を取り上げた。
動き出しそうな馬車を見て、倉庫番が駆け寄ってくる。
「あの、もう一袋はよろしいので?」
「ええ、あれは領主様に直接お渡しする物ですので」
そう言ってやると、倉庫番の男は一瞬眼を伏せて、すぐにアネッロを見て了承すると、馬車から離れた。
馬は、小気味良い音を鳴らしながら、馬車を牽く。
アネッロが、小窓を一度ノックする。中でモネータが動く気配がした途端、馬車の扉が外から勢いよく開かれた。
倉庫番の男が、大振りのナイフを振りかざして勢いのまま乗り込もうとし――モネータからの容赦ない蹴りを胸にまともに受け、彼は地面に叩きつけられた。
リュアトが馬を止めると、アネッロが御者台から降りる。
その間に飛び降りたモネータが、彼の肩を踏みつけながら、取り上げたナイフを倉庫番に向けている。
息がうまく出来ないでいる男を、アネッロが冷めた眼で見下ろすと、男は唇を噛んで眉間にしわを寄せた。
長年働いてきた彼は、リュアトの厳しい表情を見て、さすがに眼を泳がせる。
「ジュダス商会のご主人、お手を煩わせて申し訳ございません」
「これは『違う案件』の一部に過ぎないと思いますが、この者を私どもに引き渡してはもらえませんか。聞きたい事がありましてね」
「……申し訳ございません。ラクルスィ様の敷地内で起こった事ですので、それはお受け致しかねます」
それを聞いて、顔色を悪くしながらも、男はすがるような眼をリュアトに向けた。
だが、リュアトはただ眼を細め、口を開く。
「未遂とはいえ、刃傷沙汰に巻き込んでしまいましたからには、詳細を知る権利がございましょう」
見る間に男の表情が凍りついた。
やっと屋敷の方から兵士達が慌てて駆けつけてくる。
「肋骨が折れている可能性が。死なない程度にお願い致します」
彼らは倉庫番を両側から持ち上げて、抵抗はしないが、連れて行かれる協力もしない男を、引きずるように連れて行った。
三人は、厳しい顔でそれを見送る。
完全に姿が見えなくなってから、改めてリュアトが頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした」
「いえ。あの者を巻き込んでしまったのは、こちらの不手際でしょう。だからといって、本当に事に及ぶとは救いようがありませんがね」
横に立つモネータに目配せすると、すぐさま彼は残していた袋を担ぎ上げて、リュアトに眼を向けた。
「ひとつ、品を取り替えたいので、倉庫を開けていただいてもよろしいでしょうか」
「は? ……ええ、よろしゅうございますとも」
彼は少し眼を見開いてから、微笑を浮かべてモネータを案内して、先へと歩いていく。
すぐに同じような袋を担いだモネータが、リュアトと共に姿を現す。
丁寧に馬車に積み込み、モネータも乗り込むと、アネッロが扉を閉めた。
「アネッロ様も、お人が悪い。何事もなければ、どうするおつもりだったのです」
「その時は、間違えたとでも言って引き返しますよ。狙いがあれば、積んである方に意識は向く」
「事前に、倉庫番が怪しいと?」
「倉庫番に限らずと言いましょうか。ただ、そうでなければ良いとは思いましたがね」
下の者であればあるほど、町に下りる機会は増える。
そうなれば、何事かを吹き込まれる機会も増える。
アネッロの動きを見張っている者がいるのであれば、タムを連れ込んだ事で、自分に危険が及ぶと分かるだろう。
そうなれば、何かしら物を運ぶという時を、一番警戒するはずだった。
しかし、こうも迅速に事が及ぶとなると、考え方を変えなければならないだろう。
アネッロは御者台に乗り込み、眉を寄せ、黙り込んだ。
「ご立派になられましたね」
リュアトのしみじみとした柔らかい口調に、アネッロが眼を上げる。
温かいものを感じるようなその表情に、アネッロは苦笑した。
「これでも、いい歳になりましたからね」
「時が過ぎるというのは、寂しくもありますが嬉しくもありますね。成長を見届けるために、私よりも長生きしていただかなくては」
「それは、ライアンに言ってやると泣いて喜ぶと思いますよ」
館の前で、リュアトが手綱を引き、馬は大人しく足を止める。
彼はアネッロの言葉に応えるように、眉を持ち上げて見せた。
「ライアン様は、まだまだ若くあられますから」
暗に、領主としては若造だと言っているようなものだった。
二人は顔を見合わせて、声を上げずに、ただ口角を持ち上げていた。