喧騒の市1
――闇夜に紛れた出来事から、一年の時がたったラクルスィ領の一角。
簡素な板張りの一室。窓際には、重量のありそうな机と椅子が置かれている。美しい彫刻が施されたそれらは、とても部屋に似合いであるとは思えない。
揃いで彫られた椅子に腰をかけ、黒髪を後ろになでつけた細身の男――アネッロ=ジュダスが机に広げられた書類に視線を落とし、眼鏡の細い銀縁が、外からの光で白く反射している。
扉は、きっちりと閉められているにもかかわらず、向こう側にある木の階段の軋みが聞こえ、アネッロは扉の方へと目線をやった。
律儀に扉を叩き、返事があるまで開けようとはしない相手に、ゆっくりと眼鏡を外してから、入れと短く声をかけた。
「報告します。本日七件の徴収を完了致しました」
入室してすぐ、金髪の男は少し疲れた顔をしながらも、生真面目に数枚の書類と重そうな皮袋を、机に乗せた。
「そうですか」
軽く書類に目を通してから、皮袋を手に立ち上がる。
まだ直立の姿勢を崩さない男に声をかける事もせず、背後にある続き扉へとアネッロは消え、すぐに戻ってきた。
しっかりと鍵を閉めてから、机に広げていた書類をまとめ木の箱にしまうと、動かずに待つ男に声をかける。
「モネータ。少し外に出ますが、ついてきますか?」
「はい」
モネータと呼ばれた男は、数ヶ月前に雇われたばかりである。だが、初日からアネッロの発言に対して、うなずくしか道はない事を覚えざるを得なかった。
このジュダス商会という金貸しの一人として、働く事になるとは考えもしなかったが、雇われてから今日まで、諦めにも似た気持ちがモネータの中で大きく居座っていた。
ロウティアの名を捨て、モネータと名づけられた彼は、転々と逃げ延びながら様々なものを叩きこまれた後、ジュダス商会へと連れてこられたのだ。
モネータが来てからというもの、仕事に関しては順調この上なかった。金髪碧眼でがたいが良く、十七歳にしては端整な面持ちで、丁寧な物腰をしている為、徴収先の女性人気が尋常ではないのだ。
女に人気という事は、男に疎まれているのかと思えば、そうでもない。だからこそモネータは困っていた。
これだけの容姿を持って生まれたにもかかわらず、彼は女の接し方が分からないのだ。
だが、だからこそと言うべきか、年齢のわりにすれていないところが、女達にうけていると言っても過言ではないし、その様子を面白がった男達は助け舟を出す事もしない。
それを見越してかは分からないが、アネッロが指定する徴収先は、既婚女性や物売りの女主人宅などが多かった。
「モネータ」
身支度を整えたアネッロの声に促され、いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げ、黙って後をついて扉の外に出た。
軋む階段を降りきった先の扉を開ければ、屋外に出る。
まだ陽は頂点を過ぎてはいなかったが、通りには人がごった返していた。
太陽の光で輝くような白壁の建物が並ぶ、普段はのどかなラクルスィ領。グラン国西にあるその小さな領は、グラン国一華やかだと言われ、月に二度ほど開催される市が、今日開かれる日であった。通りには商店が建ち並び、色とりどりの商品が溢れ、威勢の良い声が飛び交う。人が動けば土煙が立ち、空気が良いとはいえないが、それでも活気でみなぎっていた。
遠く近く、金髪頭を見て歓声を上げる者がいたが、アネッロと並ぶように歩けば、声をかけてくる者はいない。
「モネータ、お前は実に良くやってくれているようですね」
「私は与えられた仕事を、こなしているだけです」
「謙遜などせずとも、このままの調子で頼みますよ」
笑顔を崩さずに言ってくるアネッロに、返す言葉が見つからず、うなずくにとどまった。
このまま、と言ったのだ。試練はまだまだ続くのだろう。
ため息など吐く事もままならず、モネータはただ歩いた。
人通りが更に多くなったと感じたアネッロの左脇。その後ろからすり抜けようとした薄汚れた少年を、モネータは見逃さなかった。アネッロの進路を塞ぐように、大きく一歩踏み出す。
瞬間の出来事だったにもかかわらず、少年の大きな目がモネータを見た。内心、少し驚きながらも、モネータは容赦なく張り飛ばす。軽く小さなその身体は、耐え切れずに吹き飛び、壁に叩きつけられた。
何が起こったのか、考える間もなかっただろう。一瞬の内に、少年は昏倒していた。
周囲にいた者達は、突然の出来事にざわめいたが、倒れている少年を見て、状況を判断したのだろう。あっさりと興味を失ったように、人の流れが元に戻った。
モネータが少年の近くに膝をつき、意識を失っていても手放さなかった、アネッロの金袋を取り返す。
「どうぞ、アネッロ様」
「これは、気がつきませんでしたね」
笑みが浮かんでいるが、ダークブラウンの眼は笑っていない。
モネータの横に屈みこみ、少しして楽しげに口元をほころばせた。
「モネータ。この者を連れ帰りますよ」
「は? 盗人を、ですか?」
驚愕に眼を見開いたモネータに、アネッロは当然だと頷いて見せる。
「私は、連れ帰る。と言ったのです、聞こえませんでしたか?」
「いえ。ですが……」
「私の考えに、問題でも?」
瞳に、凍りつかせるほどの光が見えた気がしたが、モネータは頷く事も出来ずにいた。
正しくない人間を、どうして引き入れようというのか。そのまま領主の私兵に引き渡せば済むはずである。
「もう一人、小間使いが欲しかった所です。丁度良かった」
「小間使い、ですか」
「モネータ一人では、何事も行き届きませんから」
「仕事は成し遂げています。問題はないはずですが」
「任された仕事をこなすだけならば、その辺の野良犬に教えこんでも出来る。お前には、もう少し融通というものを学んで欲しいのですがね」
納得がいかない、という表情でアネッロを見たが、それだけだった。
ぐったりと動かない少年を、肩に担ぎ上げる。予想以上に軽いその身体は、布越しでも分かるほど骨ばっていて、痛々しい。
彼が担ぎ上げたのを眺めながら、アネッロは来た道を戻るでもなく、足を先へと向けた。
モネータが横に並んでくるのを確認し、アネッロが口を開く。
「人間は、綺麗ごとだけでは、生きてはいけないのですよ」
「だからといって、分かっていて悪事をなすというのは、間違っていると思います」
「そうですか? では、この子供は、どうしたら生きていけるのです」
「それは……孤児院に入る、とか。方法などいくらでもあるでしょう」
「そこでまかなわれる金は、どこから出ていると?」
「税です。その使い道は、領主の裁定で、決められているはずです」
「ならば、その一部は私の金でもある。だったら私が一人くらい養っても、問題ないでしょう」
快活に笑うアネッロに、モネータは複雑な顔をした。
正しいようで、何か違う。しばらく歩き、疑問が形になったところで、また口を開いた。
「アネッロ様。やはり、問題はあります。第一に、こいつは税とは無関係な立ち位置でしょう」
「税と無関係であれば、私が子供を引き込んでも、問題ないでしょう」
しれっとした顔で頷いて見せるアネッロに、モネータは負けじと声をしぼり出す。
「悪人は、悪人らしく。裁かれるべき場所にいるのが道理です」
「道理ですか。ならば、この子供は何をしたのですか?」
笑顔を向けられ、モネータは一瞬言葉に詰まる。
喧騒の中を、苦にするでもなく。のんびりと、人の流れに乗って歩くアネッロに目を向けて、モネータは澄んだ空色の瞳を少年に移した。
「何って。こいつはアネッロ様の金袋を、盗ったじゃないですか」
「私の金袋は、懐にありますよ」
「それは、私が取り返したからでしょう」
「おや、そうでしたか?」
モネータは、切れ長の目を見開いて、絶句した。
その様子に、アネッロが口の端を持ち上げる。
「冗談ですよ。ただ、考えてもみなさい。生きるとは、どういう事なのかを。この子供が気に入らないのならば、お前が教えてやればいい。逆に、教えられる事もあるでしょう」
「盗人に教えられる事など、あるはずもありません」
渋い顔で言い返せば、アネッロはまた、楽しげに笑い声をあげた。