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タムの行く先

 カリダは、しばらくして扉を開けた。静かな通路には、男の姿は見えない。

 横の壁に立てかけてある赤い革の本が、眼に入った。

 重みのあるそれを抱え、タムに目配せすると、彼は周囲を警戒しながらもカリダにうなずいて見せた。

「行くぞ」

「うん」

 二人とも足音に気をつけながら、早足で通路を抜ける。

 数を頼りに逃げたあの時とは違う。たった二人、何があっても捕まるわけにはいかない。

 早鐘のように鳴る鼓動を抑えるため、カリダは深呼吸する。

 しかし、そんな緊張とは裏腹に、拍子抜けするほど人の気配はなかった。

 正面玄関の鍵も開いていた。

 ノブを回しても、扉を開けても、何か仕掛けがあるわけではなかった。

 以前は――そう思いかけて、カリダはその考えを捨てた。

 片手で本を抱え、空いたもう片方の手で、自分よりも細く小さなタムの手をつかむ。

 足音など気にせずに走り出すと、見覚えのある金髪が眼に入った。

「こっちだ」

 モネータがそう言いながら、駆けてきた二人を担ぎ上げると、余裕のない表情で孤児院の塀に沿って走る。

 角を曲がると同時に、通りには蹄の音が響き、金属の擦れる音が聞こえてきた。

 すぐに子供達の声が聞こえ始め、夜更けであるというのに、ただならない騒動が湧き起こる。

 近隣の者達は、深夜であるにもかかわらず、その騒々しさに深い眠りから呼び起こされ、窓には蝋燭が灯され始める。

 その灯りが届かない場所で、アネッロは赤い革の帳面を受け取っていた。

「その子供が、タムですか」

「そうだよ。おい、ほら」

 カリダがタムの背を押せば、軽い抵抗がありながらも、彼はおずおずとアネッロの前に出た。

「あの、ぼくは……」

「カリダには、話しましたか」

 何から話せばいいのか口ごもるタムに、アネッロは端的に言葉を発する。

 唇を引き締めて、彼は小さくうなずいた。

「そうですか」

「あのさ! こいつ、匿ってやってくんないかな」

 カリダが割って入るように声を上げると、突き刺すような眼をアネッロに向けられる。

 それ以上言葉が続かず、黙り込んだカリダには見向きもせず、小さな彼らの後ろに立つモネータに一声かけた。

「モネータ」

「はい」

 背を向けるアネッロに、モネータは腰に巻いていた布をタムの頭から被せ、彼を横抱きに脇に抱えた。

「……歩けるのに」

 そう呟くタムに、モネータは真剣な声を出す。

「万が一にも何かあった場合、このほうが君を守りやすい。出来るだけ動かないでいて貰えると助かる」

「まも……って」

 タムはあんぐりと口を開けてカリダを見れば、からかうような、茶化すような笑顔を向けられている。

 何が言いたいかは、なんとなくだが伝わったのだろう。

 タムの頬が引きつったかと思えば、彼は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 暗闇で聞いた彼女の話を思い出したのだろう。

 どうして笑うのか分からず、怪訝な顔をしながらも歩を進めるモネータだが、彼らが大騒ぎしているわけでもない。

 笑い合っている二人を横目に、彼は小さく息を吐き出した。

 何がそんなにも楽しいのか。それは同じような境遇で育ち、揉まれてきた彼らだから通じるものなのだろう。と、モネータは判断するしかなかった。

 ジュダス商会に戻ると、居室ではなく事務所に上がる。

 興味津々な様子で見渡す少年少女に、モネータは柔らかく微笑んだ。

 事務所机についたアネッロは、そんな二人を見据えた。

「話を聞こう」

 途端に、凍りついたタムに、皆の視線が集中する。

 萎縮して、大量の汗をかき出した少年を見かねて、カリダが口を開いた。

「女だってさ。顔を見たし、こいつも見られてる。なんだかんだでごまかせたみたいだけど」

 緊張も頂点なのか、声を出せないタムが彼女の隣で、何度も頷いている。

 補足するように、モネータが硬い表情で神妙に言葉を口にした。

「アネッロ様。いくら上手に姿をくらませる事が出来たからといって、一度でも姿を見られたからには、何かの拍子に思い出される可能性もあります」

「そう、それ! だからさ、こいつをここで保護してやってくれよ。おれと交換って事でもいいぞ」

 どさくさに紛れて、カリダが期待した顔をする。

 しかし、アネッロはそれとは関係なく、彼女の言葉を訂正した。

「お前を誰と交換するのです。そういう時は、交代と言うのですよ」

「分かったんだから、それでいいじゃないか」

「良くありません。言葉は正しく使え。それが金貸しの基本ですよ」

「……おれ、金貸しじゃねえし」

「あれだけ飲み食いしておいて、自覚が足りないようですね」

 そう言って口の端を持ち上げて見せると、カリダは一瞬硬直した。

 凍りつくような張り詰めた空気の中、タムは無意識にカリダの袖をつかんでいた。

「お前を鍛えるのは、これからですがね。息巻く元気があれば、先は明るいですよ」

「金貸しが明るいってのも、どうかと思うけど」

 唇をとがらせてカリダが言えば、アネッロは軽やかに笑った。

 タムは、眼を丸くしてカリダの袖を離し、そっと彼女から離れる。

 あのアネッロを前にして、平気で軽口を叩くカリダ。

 その傍にはとてもいられなかった。身震いするくらいの恐ろしい冷気を、彼女は感じていないのだろうか。

 尊敬どころか、命知らずなだけにしか思えなかった。離れたのは、単純に嵐に巻き込まれたくなかっただけだ。

「タム」

 低く透る声に肩を竦め、恐る恐るアネッロへ眼をやると、彼は机一杯に紙を広げていた。

 少し興味を示したタムは、近づきもせず、それを覗こうと背筋を伸ばす。

 それは、領内の地図だった。

「お前がいた場所は、どこか分かりますか?」

 タムが静かに、ゆっくりと近づく様は、猛獣を刺激しないようにしているのと変わりない。

 覚悟を決めて、アネッロの近くで覗き込む。

 見知った町が、小さくなって目の前に広がっている事に、タムは眼を輝かせた。

 待ちきれなかったカリダも、一緒になって地図を覗き、同じ顔をした。

「ここがあれだから……ここ、かな? あ、でもゴミ捨て場がない。ゴミ捨て場に隠れたんだ。だから……」

 そう言って、もう一度人さし指で道を辿る。

 事細かく描かれている地図には、ゴミ捨て場の位置も描きこまれていた。

 探る手つきだったが、やはり最初に指差した場所に、タムの指が戻ってくる。

「ここ。ゴミ捨て場はないけど、絶対にここ」

 街灯の狭間にある空間だった。夜ともなれば、闇に紛れるだろう。

 だが、隠れていたはずのゴミ捨て場が地図にはない。

 アネッロの記憶によれば、五日前にはなかったはずだった。よく通る道ではないため、不便に感じた誰かが勝手に置いた事も考えられる。

「どちらの壁に、ゴミ捨て場は寄せてあった?」

「えっと……広場がこっちだから、反対側の壁。だから、こっち」

 西側の壁を、指で二回。軽く叩く。

 そこは、三階建ての住居だった。

 アネッロは、そこの住人や管理人の顔を頭の中で浮かび上がらせる。昼間の騒ぎの時も、野次馬に来ていた顔だった。

 人々が入り乱れている中、彼らがどこに立って、どんな表情をしていたかも思い出す。

 アネッロの能力の一つだった。一度見た場面は、けっして忘れる事がない。

 非常にわずらわしく、忘れないが為に苦しめられる事もあるが、今の状況においては優れて使える能力にもなる。

 思い出した人物達は、一様に怯えや不安、そしてどことなく自分に降りかかったわけではない安堵が見て取れる。

 普通の人間がする態度だ。怪しい部分は見受けられない。

 思案しているアネッロに、タムがその時の状況を指差しながら話した。

 タムが話し終わると、彼は眉間にしわを寄せ、口元に手をやった。

 緊迫した空気は消えたが、考えていない三人にはもどかしいくらいの無言の時間が流れる。

 耐えられなくなったのは、カリダだった。

「で、どうすんだよ。タムはちゃんと話しただろ、匿ってやれよ」

「それとこれとは、違う話だ」

 アネッロが諌める眼でカリダを見やれば、彼女は怒りを瞳に宿しながらも、押し黙った。

 それを聞いて、タムは肩を落とし、小さく笑った。

「やっぱり、そう上手くいかないよね」

 その言葉を止めるように、アネッロは右手の平をタムに向ける。

「タム。ここでの保護は難しいが、最も安全な場所に移動して貰います」

「最も……」

「安全?」

 少年少女は、怪訝な顔でアネッロを見た。

「ええ。小間使いを探していたのは、何も私だけではありませんからね」

 そう言って、アネッロは楽しげに眼を細めた。



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