罠の解除
ベッドのシーツに手をかけるまでもなく、何かを隠しているような膨らみのそれは、ノーチェフに危険だと知らせていた。
膝を折り、膨らみと目線を同じにし、眼を細める。
開いた扉からの暖かな光に、わずかに光る白い糸を見た。
ゆっくりと眼で追えば、シーツの下から、籐を編みこんで出来たチェストへと繋がる事が確認出来た。
糸の張り方から見て、少しでも触れば何かの装置が作動するのだろう。
チェストの周囲をよく見れば、数個の穴が開き、チェストにも一つ、小さな穴が開いている。糸は、チェストの蓋に取りつけられていた。
注意して丹念に調べたが、こちらにも何かしらの仕掛けがあるように見えた。
ノーチェフは、ベッドへと振り返る。糸に触れないように気をつけながら、シーツをそっと持ち上げれば、想像していた物が姿を現す。
組み立て式の、弓矢だった。しかし、見知った物とは異質な印象を受ける。
弓矢を発射させる引き金の部分が、すでに引かれている状態で、糸がそれをそのまま支えるかのように巻きつけてある。だが、矢はつがえたままだった。
布がかからないよう、半円の蓋が矢を守っている。
糸を切れば、引き金は元に戻り、矢が発射されるのだろう。変わった構造だが、出来ない事はない。
ノーチェフは、シーツをかぶせ直して、矢が狙う先へと眼を向けた。
チェストに大事な何かをしまっているような印象を受けるが、開ける事をノーチェフはためらった。
――あれを、開けてはいけない。
なぜか、そう脳裏に警告が走る。
息が、上がっていた。ゆっくりと、静かに大きく息を吸い、同じくらいの速度で吐き出した。二度繰り返し、ノーチェフは意識からチェストを除外した。
ふいに起きる脳内の声に、何度か助けられてもいる。
それは、様々な状況を切り抜けてきた経験から生まれ出るものだろう。と、ノーチェフは感じていた。
その警告を無視した、かつて手下だった者を何人か失っている。
逆らうべきではなかった。
やるべき事は、違和感を探す事だった。
まず、天井の四方へと眼をやる。そこからゆっくりと視線を下げていき――眼を止めたのは、扉の正面にあった机の引き出しではなく、扉付近にある可憐な花を支えている陶器の一輪差しだった。
どこの家にでも存在するような物である。女性の部屋なのだから、あってもおかしくない物だ。
ノーチェフの眼は、一輪差しの下。布がかけられている小さなテーブルのような物を見ていた。布の下からは、細い四足が長く伸びている。
そっと近づき布をめくれば、そこには引き出しがあった。
こちらには何の仕掛けもなされてはいない。鍵もない。
仕掛けが施されていたり、鍵がかけられている中で、この場所だけがどこの家にでも存在し得る。
見逃す事はあっても、引き出しがついていても不思議ではない。
何もない。という事がノーチェフには異質に思え、そして確信した。
ただ古い棚は、開ける際に軋みがある可能性を考えて、丁寧に引き出すと、赤い革表紙の分厚い帳面が静かに眠っていた。
最後の仕掛けを疑ったが、そこには何もない。そっと取り出すと、適当に途中からめくる。
眼を走らせて、ノーチェフは眉間にシワを寄せた。几帳面には見えない女性だったが、意外としっかりしているのだろう。
そこには、彼女に貢いだ者の名と受け取った金品。
子供を売った貴族の名と法外な金額。
それだけではなかった。子供の使用目的や、その後の――
――一通り眼を通し、帳面を閉じた。
嫌悪を抱くわけではない。つましく生きている人間ならば吐き気を覚えるほどの内容ではあるが、ノーチェフはただそれを閉じた。
扉を閉め、結び目の向きにも気をつけて糸を小さな釘にかけた。侵入者がいたとは、すぐには気がつかないだろう。
だが、帳面は厚く、隠す場所がない。
力を入れすぎないよう気をつけて左手に帳面を持ち、自分の持ち物であるかのように、自然に腕を下げる。
背筋を伸ばし、ハボンはゆっくりと歩を進めた。
与えられた部屋にではない。
女達に連れて行かれた、獣のような子供の閉じ込められた部屋を探すためだった。
このまま孤児院を出て、帳面をアネッロに渡せば任務は終了になる。
だが、彼の息がかかった人間を見捨てる事は、仲間を裏切る事に変わりない。
自分の身は自分で守る事など鉄則だが、檻に閉じ込められ、万が一にも拘束されていれば一人では難しいだろう。
それに、確保する子供も見つかってはいない。
彼らの敵である立場のノーチェフより、逆らう子供のほうが近づきやすいだろう。
蝋燭の間隔が広くなり、薄暗さが増してくる。
扉はあっても、物音一つしない。一つ、扉を開けてみたが、物置に使われている場所なのだろう。
普段から使う場所ではないため、蝋燭も節約しているといったところか。
最奥にある扉だけ、鍵がかけられていた。
いかにもな展開に、ノーチェフは口の端を持ち上げる。
持ち出した鍵を、ゆっくりと挿し込む。
小さなものであったが、中から息を呑む音が聞こえた。
一人ではない。二人いる事は知れた。向こう側にいる一人が、そろそろと扉に近づいてくる。
二つ目の鍵で、小さく乾いた音がして、錠が外れた。
「子供。タムは、いたか?」
そう小さく声をかければ、少しして聞こえるように息を吐き出す音がした。
いた。と囁くような声で返ってくる。
安堵した。同時期からして、閉じこめられるのならば同じ場所だろう、とは思っていたが、違っていたら別の手段を取らなければならなかったからだ。
時間がかかれば、それだけ危険を伴う可能性が増える。
「走れるか?」
その声に、最初の声とは違う声が肯定し、最初の声の人物が、大丈夫だと返してきた。
「帳面を置いておく。持って静かに出ろ、タムとはぐれるなよ」
扉の横に赤い革の帳面を置き、ノーチェフはさがった。
彼らを逃がす事の他にも、やる事はあった。
見張りはいないようだった。すれ違う事もなく、寝静まった頃合を見計らっているのだ、気配はなかった。
子供がいる部屋には、鍵がかけられているのだから、心配なく寝られるのだろう。
子供達がいるはずの大部屋の扉の前に立つ。中から、何人かが身じろぎする気配がした。
ただ眠れないのか、逃げるために機会を窺っているのかは分からない。
周囲に気を配りながら鍵を挿し込んで解錠し、次の部屋に移る。
三部屋あるはずだった。並ぶ部屋の一つを通り過ぎ、奥の部屋の鍵穴へ鍵を挿し込む。
一部屋目の扉がそっと開き、子供達が恐る恐るといった様子でこちらを見ていた。
罠なのではないだろうか。次に鍵を開けてやった部屋からも、子供達が覗く。
ノーチェフは、何も言わなかった。後は、彼らが決める事だった。外には騎士達が取り囲んでいる。
何名かはそれからも逃げ切るだろうが、保護された子供は、どんな仕打ちを受けていたかを口を揃えて語るだろう。
ゆっくりと、真ん中の部屋へと足を向けた。
扉の前に立ち、わざと分かるように左右へと視線を振れば、彼らの意思は固まったようだった。大きく扉を開け、静かにノーチェフの後ろを走り抜ける。
その子供達に対して何もせず、彼は鍵を挿すと、一部屋目の子供達も慌てて逃げ出していく。
彼らが『罠』と呼ぶ子供が今日入っている部屋は、帳面によればこの部屋だった。
院長の息がかかっていて、常にうまい汁を吸っている子供達。
雑にガチャガチャと音を立ててやると、中から悲鳴のような声があがった。
「泥棒だ、助けて!」
そして、何名かが同じように叫び始め、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
扉を開け放すと、怯えた複数の瞳がノーチェフを映す。
その中で、違う雰囲気を持った眼の子供数人を見て取ると、ノーチェフは迷わず進む。
何事かと飛び出してきた女達の動揺する声が聞こえてくる。二部屋分の子供達は、もう音を立てる事など気にする事もなく、走り抜けていく。
他の子供に見向きもしないノーチェフに、開け放した扉から飛び出していく子供達。
それに混ざって逃げようとする一人の腕をつかんだ。
悲鳴を上げ、全身で暴れて逃げようとする少年を押さえ込もうとして、ノーチェフの眼の端に鈍く光る物が引っかかった。
とっさに足で蹴り上げる。くぐもった声がして、一人の少年が床に転がった。
その小さな手からナイフが飛び、床の上を滑っていく。
もう一人、ノーチェフをにらみつけている少年がいた。
だが、つかんでいる少年の腕を捻り上げれば、尋常ではない悲鳴を上げた。さすがに顔面蒼白になった少年は、二人を見捨てて逃げて行った。
女達は、逃げ出す子供を追って、部屋の中までは意識がいかないのだろう。制止する声は、遠ざかっていった。
「何、すんだよ! シーフェ様に、言いつけてやるぞ!」
痛みに歯を食いしばり、声を絞り出す。
「あの女が、無事だと。そう思うのか?」
腹の底に響くような低い声に、少年は息を呑んだ。
いつもならば、騒ぎが起これば真っ先にするはずの、よく透る声が聞こえてこない事に気がついたのだろう。
「お前が、何をしてきたのか知っている。子供だからと罪は軽くないぞ」
「た、頼まれた事をしただけだ。おれが悪いわけじゃねえよ!」
この状態で口答えをしてくる少年に、ノーチェフはゆっくりと腕を捻る。
甲高く長い悲鳴をあげたが、ノーチェフは手を緩めず、彼の耳に口を寄せた。
「どこまでやれば折れるのか、試してみたいと思わないか?」
そのセリフに、彼は眼を見開いた。
人を痛めつける時、いつも使っている彼のセリフだったからだ。
ノーチェフは、少年の身体から力が抜け、抵抗しなくなった事を感じた。
だが、そのまま囁き続ける。
「悲鳴は、いつまであげられるのか。知りたくないか?」
少年を腹ばいにさせているせいで、顔は見えないが、彼はすすり泣いているようだった。
「もう、やめてくれよ。痛いよ」
「お前は、そう言う相手を許してやったか? 夜は長い、付き合ってくれるよなあ」
少年は声をつまらせ、しゃくりあげながらただ泣いた。