孤児院の夜 1
カリダが連れて行かれるのを見送り、一組の男女はやっと安堵した表情を見せた。
「シーフェ院長、それでは我々はもう一度巡回してまいります」
男が自らの胸に手を当て意気込むと、シーフェは柔らかく微笑んだ。
「ハボンさん、スタイさん。子供達を助けようという、あなた方の意欲にはとても感謝しています。ですが、陽も落ちていますから、今日はゆっくり休んで下さい」
「そうですか、ありがとうございます」
スタイとよばれた女がそう言い、シーフェに見惚れる男、ハボンの腕を軽く叩く。
我に返ったハボンが、ごまかすように笑えば、シーフェも一緒になって笑った。
「では、失礼致します」
少し赤くなって、彼が立ち去ろうとすると、シーフェが優しく声をかけた。
「少しお話してもいいかしら?」
「はい?」
二人が振り向くと、シーフェは長い睫毛を瞬かせる。
それを見たハボンが、真剣な顔で一歩シーフェに近づいた。
「何か、心配事でもあるのですか? 子供達の事であれば、我々に任せていただければ……」
「いえ、そうではないのです。少し重たい物がありまして、迷惑でなければハボンさんに手伝っていただきたくて」
眉を少しさげて微笑する彼女に、ハボンは大きく頷いた。
「もちろんです。男ですから、お手伝い出来る事があれば、何でも言って下さい」
そう言いながら、スタイへと眼を向ければ、彼女は苦笑しながらも頷いていた。
「では、私は失礼させていただきます」
「暗くなりかかっていますのに、お一人でお帰りいただくのは申し訳ないのですけれど」
シーフェが申し訳なさそうな声で言えば、彼女はにこやかに首を横に振る。
「宿は近くにとってありますので、大丈夫ですわ。ハボン、シーフェ様にご迷惑をおかけする事だけはしないようにね」
「当たり前だ。私が院長にご迷惑をかけるわけがないだろう」
憮然とした顔でスタイに言えば、彼女は笑って一礼し、背を向けた。
シーフェがハボンを案内する。
「お仕事を増やして、本当に申し訳ありませんね」
「い、いえ。孤児院の手伝いが仕事と命じられて来ておりますので、どうぞお気になさらず」
「そう言っていただけると、助かりますわ」
先を歩くシーフェが少し振り返り、柔らかく笑うと、ハボンは顔を赤くして彼女から視線を外す。
「こちらで、少し待っていていただけますか?」
誰かの部屋なのだろう。机やベッドが置かれた簡素な部屋に通され、ハボンは一人その部屋に残された。
暗くなっている部屋を見回すと、机にあったランプを見つけ、火を灯す。
寝に帰るだけの部屋なのだろうと思われるほど、物がなかった。
突発的な客を泊める部屋にも見えた。
どんな作業かは分からないが、時間がかかるのかもしれない。そう考えた上で、一時だが泊まる場所を提供してくれるのだろう。
そう考えていると、部屋の扉がノックされた。
「はい」
家人でもないのに返事をする事はためらわれたが、この部屋に通したのは院長なのだから話は通じているだろう。
覗いた女は、さきほど出てきた二人の女とも違う女だった。
品定めするようにハボンを頭から足先までを眺めて、くすりと笑った。
「あの、何か?」
「え? ああ、ごめんなさいね。どんな方が見えたのかと思ったものですから」
わけの分からないままに、はあと返事をすると、女はもう一度だけ笑って出て行った。
「何だ?」
不審に思ったが、ただ待つしかない。
「お待たせ致しました。こちらになりますので、ついて来ていただけます?」
「はい」
シーフェが扉を開けると、ハボンは少しほっとして笑顔になった。
後ろをついて歩くと、彼女の頭は少し下になる。
肌の露出は最低限ではあるが、美しい女だと思った。一つ一つの仕草が、たおやかで柔らかく。その色香は、男を誘うくらい簡単だろう。
ハボンは煩悩を振り払うべく、気づかれないように深呼吸をした。
「では、こちらの倉庫になるのですが……どうか、されましたか?」
振り返った彼女と目が合い、ずっと見ていた事を気づかれたと思ったのだが、すぐにそうではないと気がつき、眼を泳がせた。
不思議そうな顔をするシーフェに、なんでもありませんと言うしかなかった。
「必要な物をいただいたのですが、棚に入れていただきたいのです。ここの者で男性もいるのですが……今、お休みしていまして。困っておりましたの」
「そうですか、棚にしまえばいいのですね。お任せ下さい」
「ありがとうございます。お礼といってもたいした事は出来ませんが、食事と宿泊は用意致しますので」
ハボンは笑って頷いた。
「それはとても助かります」
「では、食事の用意出来ましたらお声をかけますので、よろしくお願いしますね」
シーフェが倉庫の扉を閉めると同時に、ハボンは大きく息を吐き出した。
大きな布袋が、適当に積み上げられている。
食事の用意が出来たら、と言っていたので、それまでに全部しまえというわけではないのだろう。
とにかく、少しでも進めておくに越した事はない。
腕まくりをして、小麦袋を担いだ。
――黙々と作業を続けていると、しばらくして控えめにノックされ、シーフェが顔を出す。
「あら! もう半分もしまって下さったのですね。ありがとうございます」
「ええ、もう少しで終わりますから」
「やはり男手があると助かります」
ハボンは手を休め、袖で汗を拭い、笑った。
「男と女では、お互いに出来る事と出来ない事がどうしてもありますからね」
「そうですね。助け合える事があれば、私もハボンさんのお力になりますので。いつでも言って下さいね」
小麦袋を持ち上げようとして、ハボンは思わず動きを止めた。
ぎこちなくシーフェへと振り返り、中途半端に笑う。
「……ええ、その時はお願い致します」
「もちろんですわ。それと、お食事の用意が出来ましたので、どうぞ手を休めて下さい」
「はい、ありがとうございます」
袋を置き、明らかに疲労が感じられる腕を小さく振り、ハボンは立ち上がった。
手や顔を洗う場所へと案内され、清潔な布で拭く。
一息吐いてから静かな廊下を、また彼女の後について歩く。大部屋の前を通りかかると、人の気配はあるものの静寂そのものだった。
だが、何者かが息を潜めているような、そんな緊迫感を感じる。
「静か、ですね」
子供が大勢いるのであれば、それなりににぎやかなものではないだろうか。
そう思っていたハボンだったが、物音一つしないのは、違和感でしかなかった。
「ええ、子供達には日暮れと同時に寝るように言って聞かせてありますから」
振り向きもせず、シーフェは変わらず穏やかな声で返事をした。
「遊びたい盛りでしょうに、皆様のご尽力の成果でしょうね」
「それはもう。でも子供達は皆、元々は優しい子達ばかりなのです。時間がかかっても丁寧に教えてあげたら、彼らは答えてくれるものなのですよ」
「そうですか! さすがシーフェ様ですね、心が広くていらっしゃる」
ハボンが感動した声を出せば、彼女は楽しげに笑った。
「嫌ですわ。当然の事しかしていないのですから」
さあどうぞ。と食堂に招かれれば、女性が五人、先に席についていた。
肉料理と、湯気が立ち上る温かいスープはとても良い匂いで、食欲がそそる。
隣の女性に挨拶をして、席につく。
――和やかな食事を終え、シーフェが声をかけた。
「ハボンさん。今日はお疲れでしょうから、早めにお休み下さい」
「いえ、大丈夫です。荷の整理は、あと少しで終わりますので。それから休ませていただきます」
「そうですか? では、お願い致しますね。最初に案内した部屋は覚えていますか?」
「はい」
ハボンも立ち上がり食事の礼を言う。
「あの部屋を好きにお使い下さいね」
「……はい、ありがとうございます」
一人、食堂から出ると、ひんやりとした空気に安堵した。
扉越しに彼女達の笑い声が響いてきて、ハボンは等間隔に灯る蝋燭を追うように、早足で倉庫までくる。
誰かが追ってくる事はなかったが、やはり大部屋の窓からは見られているという感覚はつきまとっていた。