カリダなりの説得
「タム、信じられないのは当然だと思う。おれだって、急にこんな話されたら疑うし。でも、お前を探してる人がいるんだ。黒ずくめの女を見たお前は……ショウニンとか言うやつだから、話を聞きたいって。女じゃねえぞ、お前もよく知ってる男だ」
「……誰?」
「ああでも、複雑だな。おれだったら――悩むかも。どう転んでも大丈夫なのかって思うかもな」
「だから、誰?」
「いいか。朝になっても、どうせ出られないかもしれないし、時間はたっぷりあるんだ。よく考えて返事しろよ?」
とても大事な事だと思った。
カリダは、他に言い忘れている事はないかと考え、もう一度だけ念押ししようと口を開いたが、それよりも先に呆れた声が返ってくる。
「それは、信用出来ない人の話に聞こえるんだけど」
「そう、だな。信用出来ないっていうか、信用とかそういう類の人間じゃないっていうか」
「何それ」
小さく笑った声がして、漂っていた緊張感は、なくなっていた。
短い髪を掻きながら、勇気を持って、カリダは彼の名を告げた。
「アネッロ=ジュダス」
タムの返事を待つが、息を呑む音を最後に、言葉は消えた。
気持ちは痛いほど分かる。
カリダは見えない事をいい事に、さもあらんと何度も頷いていた。
「寝ていいぞ。時間かかるだろうから」
「そうだね。カリダには悪いけど、ちょっと考えたい」
「そうだな、そうしなよ。急がないけど、おれはタムを守れって言われてるからさ。何があっても生きてくれよ。でないと、おれが殺される」
「……頑張るよ」
神妙なその声は、アネッロがどんな人物として子供達の間で広まっているのか、はっきりと伝わってくるものだった。
床に転がる音が聞こえ、カリダも背中を丸めて立てた両膝に顔を埋めた。
硬い床の上でも、寝る事は容易い。だが、顔をゆっくりとタムがいる方に向ける。
「あのさ。知ってるかもしれないけど、最近あいつに捕まった子供って、おれなんだ」
「……うん、そうじゃないかと思った」
笑うでもなく、その声色は申し訳なさが漂っていた。
カリダは、なんとなく自分が噂になっているだろうとは感じていた。
引き取られて、綺麗な服を着せられて羨ましい。
アネッロがかかわっている限り、そんな話では絶対にない。
どうせ、ジュダス商会に手を出した馬鹿がいる。とか、短い命だったな。とでも言われているのだろう。
カリダは笑ってみたが、ただ言葉として、はははと声が出ただけだった。
その通り。実際、あの時の自分は本当の馬鹿だったとしか言いようがない。
「……他の連中に何もかも取り上げられて、腹が減ってたんだ。そしたら目の前を金が入った袋が通り過ぎていったもんだからさ。つい……手が出ちゃうだろ。本当に目の前だったんだぜ?」
タムからも、自分自身も見えてはいないが、カリダは右手を金袋のあった位置に持っていき、右から左へスライドさせる。
「それは、分からないでもないけど……失敗、だったよね」
本人と一つの部屋に閉じ込められているせいか、タムが言葉を選んでくれた事は、はっきりと聞き取れた。
カリダも、苦笑する。体の筋を伸ばすように、伸びをした。
「ああ、大失敗だ。馬鹿だった。でも、白猫だった」
「……白猫!? 金貸し、が?」
起き上がる気配はないが、驚きを隠せなかったのだろう。
タムが大声を上げなかったのは、奇跡に近いんじゃないかと思う。
白猫とは、時々ではあるが浮浪児達に餌を与えてくれる人の家壁に描かれるマークだ。
逆に、黒く塗られている猫のマークは、黒猫と呼ばれ、決してその家や家人には近づかない。
アネッロの家壁には何も描かれてはいないが、そこは暗黙の了解で、はっきりと黒だった。
「白ってほど、白でもねえけどな。風呂に入ったし、飯も食わせて貰った」
「それは、本当に大丈夫なの? っていうか、風呂? 普通の家にあるの?」
さすがに、体を起こした音がした。
カリダは小さく笑った。あり得ない状況なのは、自分がよく分かっている。
それこそ、何の罠かと疑うほうが正しい。
だが、カリダはにやりと笑い、自分に起きた出来事を話し出す。
「あるんだよ。お湯が出るんだぞ? こっそり町の湯殿からひいてるって言ってた」
「……すごいな。だけど、あの人の家なら、なんか納得」
「だろ? でも大丈夫なわけじゃねえんだよ。おれに淑女になれってんだぜ? それが一番信じらんねえだろ」
それこそ思わずだろう。タムが吹き出して、くつくつと笑っている。
口を押さえていなければ、大声で笑いたい所だろう。当然だ。
「金髪の兄ちゃんなんかさ、おれがこんな喋り方するから、ずっと難しい顔してるし……ああ、部屋も与えて貰ったんだけど」
その時の状況を思い出して、カリダは小さく笑った。
「あの金髪、何を思ったか。男の部屋の隣に女性が住むのは、問題がある! とか言いやがんだぜ? どこのお坊ちゃんだよって感じだろ」
じたばたと転がる音がする。大声で笑いたいのに、笑えない。
その板ばさみの中、タムは必死に堪えているのだろう。
「あいつは確実に、ジュダスの犬だな。言われたら断らねえ。断れないんじゃなくて、断らないんだ。最悪だぞ?」
「そ、そうだね。でも、ちょっと見てみたい。巻き込まれたくはないけど」
タムは笑いを隠そうともせず、声を震わせながら返事をする。
それを聞いて、カリダは口の端を持ち上げた。
「一緒に来いよ。卵とかチーズとか食えるぞ。ちょっとしょぼくれて見せれば、金髪の兄ちゃんが恵んでくれるしな。まあ……一番最初に、風呂に入れって言われるだろうけど」
「卵……いいな。でも絶対、タダじゃないんだよね」
「そりゃそうさ。でも今の話をするだけで、飯にありつけるんだ。簡単だろ? それに、あそこなら居心地悪くても、誰もが気軽に手を出せないから安全だしな」
「そう、だね。だけど……話し終わったら、放り出されるんだろ?」
床を擦る音がした。
立ち上がったわけではない。声が少し遠く聞こえたように感じたのは、おそらくタムが壁側に顔を向けているからだろう。
カリダからは背を向けた事になる。
信頼とまではいかないものの、カリダがタムを襲わないのだと信用したのだろう。
たとえ、それが無意識であるとしても。
「寝ろって言っといて、悪かったな。どうやって逃げるかは考えておくから、今度こそ寝ろ」
カリダも冷たい床に寝転がった。
返事はなかったが、くすりと笑う声がして、カリダも口の端を持ち上げる。
暗闇で、何も見えない。
だが、カリダは眼を闇に向けたまま、頭をフル回転させる。
タムを庇いながら逃げる。それは難しい事だったがやり遂げなければならない。
前回、脱走した時は大人数だった。
一人、二人と捕まったが、捕まえる側以上に脱走者が多かったため、逃げ切れたのだ。
――それを考えれば、カリダも運が良かったのだろう。
囮くらいにはなる。捕まれば死ぬ手前くらいの仕打ちは受けるだろうが、タムが無事であれば問題ないのだから、彼さえ逃がせば外にいるはずの二人が保護するだろう。
捨て駒だろうとは思っていた。そうでなければ、自分のような者に餌を与える事などないのだから。
それこそ当然の事だと思っている。悲しくなどなかった。
カリダの頭の中は、とにかく逃げる方法と、あわよくばこの牢屋を潰せるような証拠をつかみたいという二つだけだ。
漆黒に染まる空間から、何かを読み取るように、眼を見開いていた。