夕闇深く
それから半月後の事だった。
ロウティアの閉じこめられている部屋へ、牢番と老人が向かう。空になった食器を回収するためだ。
いつも置かれている小窓に何もない事を見て取り、彼は嬉しそうに老いた顔を輝かせる。覗き窓から、ゆっくりと中を確かめると、床の上で動かないロウティアの姿が見えた。
震える手で、鍵を差し込むと老人は口角を持ち上げて、気味悪く笑う。
「……坊ちゃま?」
静かな部屋に、老人の荒い息遣いが響く。牢番は中には入らず、老人のする事を見ないよう通路の壁に背をつけた。
老人は牢番などに構わず、ロウティアの首筋に指をあて、また笑った。
「……死んだ。死んだな。あれは、じわじわと殺すにはうってつけだった」
その老人は、ジルニアの命により、騎士に捕縛されていた劇薬に長けた者だった。
一目見た時から、その狂気を、ジルニアは見抜いたのだろう。
老人は処罰を受けるでもなく、西の塔に住まうロウティアの世話を任される事になった。
必要のないモノだから殺して良い。という言葉を授けられ、老人は嬉々として話に乗ったのだ。
食事に使われたであろうフォークを、床の上から拾い上げ、食事に使われた皿を丁寧に取り上げる。
「新しい毒物が完成した。お前さんのおかげだよ? ありがとうな」
満足気に微笑し、老人は部屋を後にした――
――そして、ジルニア領に訃報が告げられた。
ジルニア伯爵夫人が亡くなり、数ヶ月もたたない内に息子が長の患いで亡くなったのである。
ロウティアの姿を見た事がない領地の民は、それでも領主に同情し、お悔やみの言葉を口にした。
領主の館の一室で、ルノアは形だけ喪に服したジルニアの前で、片膝をついて頭を下げていた。
「ルノアよ。ロウティアを、すぐに埋めるのだ」
急くように言うジルニアに、ルノアは頭を下げたまま答えを返す。
「しかしながら、ジルニア様。神官の儀式を行わない事には……」
「あれは病で死んだのだ。病気をばらまく危険があるからには、儀式など後でも構わん。合理的に動け」
ルノアの言葉を遮り、ジルニアが命令を下した。
肯定の返事をし、硬い顔をしてルノアが立ち上がる。
「ジルニア様。せめて、立ち会われませんか」
「馬鹿を言うな、私が病にかかるわけにはいくまい。私には責任がある、ここで息子の死を悼む。しばらく誰も寄せるな」
「……承知致しました」
扉に手をかけた時、ジルニアが思い出したような声を出す。
「ルノア、お前はあの者を眼にかけていたな。お前が立ち会えば良い、確実に埋めた事を確認して報告に来い」
ルノアは奥歯を鳴らしたが、すぐに表情をなくして振り返った。
「はい、承知致しました」
丁寧に一礼し、今度こそ部屋から退出した。
扉の外で、ルノアが指示を飛ばす声を聞き、ジルニアは顔に笑みを浮かべる。
半月ほど前の事を、思い巡らす。
遠方から来た老人が、人知れず劇薬を扱っているとの噂に、ジルニアは捕縛しろと命令を下した。
建前として、領内での保安のためと謳ってはいた。だがその実、殺しを依頼した。
狡猾な老人で、自分を捕縛してすぐにロウティアが死んだとなれば、疑われる可能性をにおわせてきたため時間がかかってしまったが、死んだと報告を受けた時、嬉々として西の塔へ向かった事を思い出す。
ロウティアは元々白い肌をしていたが、それよりも白く生きてはいない顔色をして、騎士達の手により寝床に横たえられていた。
鼻と口に手をやったが、息をしていない事も確認した。徐々に毒を盛り、病と称して殺すと進言され、承認したのはジルニア本人であったため、触れる事はしなかった。
黒い衣装に身を包んだジルニアは、遠ざかっていくルノアの声を聞きながら、窓際に寄せられた椅子へと足を向ける。
「役にも立たん者が、やっと消えたか」
薬師を騙った罪として、老人も処分した。証拠はどこにもない。ジルニアは、ほくそ笑んだ。
椅子に座ると、ワインをグラスに注ぎ、ゆらりと回す。
「祝杯だ」
清々しい顔をしたジルニアが、磨き上げられたグラスに映る。
彼は、それを飲み干した。
すべてが終わったと信じ、すべてを見る事もせずに。
*
夕闇が、すぐそこに迫る頃。
墓地には、ロウティアを納めた、装飾のない簡素な棺が地面に直接置かれていた。
集まっているのは、ルノアを含めた数人の騎士。そして神父だけだった。
病を避けるため、棺に近づく者はいない。
唇をきつく結び、棺を凝視し続けるルノアの肩を、一人が叩いた。
「ルノア、部屋に戻れ」
「大丈夫だ」
「……そうか」
それ以上の言葉をかけず、力の入った肩から手を下ろした。
弔いの言葉を神父が語り出し、男達はただ棺を見つめる。
神父の祈りが終わり、金で集められた薄汚れた男達が、棺に蓋をして釘で打ちつけた。
掘られている穴に、棺を落とし入れる。
その雑な扱いに、ルノアはおろした両手を色が変わるくらい握りしめたが、声を発するわけではなかった。
薄闇がさらに色濃く変化する中、淡々とスコップで土をかけていくその光景を、燃えるような眼で全てを焼き付けていた。
――黒一色の世界で、ロウティアは眼を覚ました。
夜闇ではないとはっきりと分かる暗さに、塔の中でもないのかと、ぼんやりと思う。
硬い床の上で仰向けに寝ている事だけは、感覚として分かった。
腕を動かそうとして、彼はその狭さに驚いた。
「どういう、事だ!」
頭が割れそうなほどの痛みに顔を歪め、手探りで小さな箱の中である事を知る。
痛みのせいで考えがまとまらないが、それでもロウティアは考えた。
義父が――ジルニアがかかわっているのは間違いない。
食事をした後、呼吸がしづらくなった事は覚えているが、その後の記憶は、目覚めた今だった。
どこかに運ばれているような振動はない。ただ、静謐であった。
側面の壁を叩く。その先に空洞があれば、音が違うと本に書かれていた。
だが、床、両側面、足元や頭上。そして見えてはいないが、目前にある壁も同じくらい硬質な音がする。壁の先に、何かある事は違いなかった。
「誰か、誰かいないか!」
壁を叩きながら、虚しいだけとは分かりながらも声を張り上げる。
もし、近くに人がいたとしても、おそらくはジルニアの息がかかっているだろう。
ルノアの名を呼びかけて、やめた。
子供が出来たと喜んでいた男を、巻き込んではならない。
だが他に、助けてもらえる可能性など、わずかもなかった。
「ひとおもいに殺すわけでもなく、あいつはここまでするのか」
奥歯を鳴らし、握りこぶしを目前の壁に叩きつける。
生き埋めにされたのだろうと、考えれば考えるほど悔しく、双眸を怒りにたぎらせた。
側面の壁を殴りつけるのと、目前の壁に何かが当たるのと同時だった。
よくは聞こえなかったが、誰かが囁いている声がする。
「助けてくれ! 私は、生きているんだ!」
誰かが上の壁を歩き回っている音が頭に響くが、そんなものには構っていられなかった。
何かを掘る音が続き、やっと蓋らしきものがこじ開けられる。
砂が入ってきたが、暑くなった箱内ではその隙間から入るひんやりとした空気に、ロウティアは安堵した。
勢いよく開けられ、縁に足をかけた男は確認するかのように、ロウティアの眼の前にランプをかざしてくる。
真闇に慣れた眼にはその柔らかい光すらまぶしく、おもわず手で遮った。
「生きてるって? 知ってるよ」
泥だらけの男は、低い声で小さく笑う。
ゆっくりと身体を起こしたロウティアに、男はランプの灯を吹き消した。
猫の目のような細い月が、土壁の端に見えた。
「助けてくださって、感謝します」
そう言ったロウティアの胸を、男は容赦なく踏みつけ、箱に縫いつける。
「おい、お前。助けてやった俺様を通り越して誰を見てんだ? 本気で感謝してねえなら、言葉に出すんじゃねえよ」
「そ、んなつもりでは……」
何があっても乗り切れるよう鍛えていた身体だが、押さえつけられている場所が一点だというのに、起き上がる事が出来なかった。
ロウティアは、あらためて男を見る。
「おう。やっと眼が合ったな、お坊ちゃん」
「……あなたは?」
「状況を把握しろ。お前は死んだんだ、わかるか?」
そう言われ、周囲を見渡す。暗いとはいえ、四角い箱から見える星空は、塔の中から見るものよりも、降り注いで見えた。
そして今、自分が寝ている場所が棺であるという事実は、考えたくなかったもののひとつだった。
「私は、殺されたのですね。あの男に」
「そうだ、だが俺様に拾われた。お前にはもう身分も名前もない、ただの男だ。憎悪は押し込めておけ、来るべき時のために。それが出来るなら出て来い」
足をそのままに、男は濃い紫の瞳を楽しげに細めた。